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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第五章

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69、忍び寄る『影』

(あぁ――嫌だ。早く終われ)

 ぎゅっと己の右手を左手で無意識に握りこみながら、イリッツァは心の中で念じた。

 眼下の闘技場では、何度もウィリアムがカルヴァンに突っかかっていってはその剣技にあしらわれて吹っ飛ばされている。何事かを言い合っているのはわかるが、内容まではこの歓声と距離では聞こえるはずもない。

 どうやら、一瞬で決着がつくような形でもないらしい。光魔法の能力向上をかけているであろうウィリアムの身体能力は確かに目を見張るものだったが、それだけでカルヴァンに勝てるような物でもないだろう。

 かつて、鬼の方がよほど優しいのではないかと思うくらいの厳しかった剣の師である父の言葉を思い出す。『強さ』とは、心技体すべてが揃ってこそだ。体だけ魔法でブーストをかけたところで、心と技が伴わなければ、それは『強さ』とは言えない――その点で、ウィリアムは最初の不意を突いた一撃で仕留め切るしか方法はなかったのだ。だがらそれが叶わなかった以上、実力でカルヴァンを倒すことはもはや不可能だろう。

 あとは、いつカルヴァンが忖度をして倒れてやるか次第、というわけだが――何度も切り結んでは吹っ飛ばしているあたり、あまり簡単に決着しそうでもない。それは、この集まって熱狂する民衆の期待に応えるためか――カルヴァン本人の意地や気まぐれなのかはわからないが。

「……ふぅ…」

 周囲に気づかれないように、小さく息を吐き出す。白く染まった吐息は、ほんのりと震えた気がした。

 鈍色の空に近い観覧席から熱狂する民衆を見下ろすさまは、どうにも昔を思い出して気分が悪い。案の定、過保護な親友はそれに気づいたのか、決闘が始まる前、目の前の対戦相手など目に入らないかのようにこちらを心配そうな目で見ていた。

「イリッツァ様。大丈夫ですか?お顔の色が、すぐれないようですが――」

「あぁ…はい。大丈夫です。少し、寒くて、震えが」

 隣にいた蒼服が気づいて、気遣うように恐る恐る声を掛けられる。今日が寒くてよかった。かすかに恐怖で震えだしそうなのをごまかせていい。

「申し訳ございません。火を焚くわけにもいかず」

 貴族らしい金髪を短く刈り込んだ壮年の近衛兵は、恐縮を隠しきれないように沈痛な面持ちで告げた。年齢に似つかわしくないがっちりとした体つきからしても、その隙のない雰囲気からしても、彼が手練れの精鋭兵であることがうかがえる。

「お茶を、入れましょうか。体を温める茶葉を持ってきております」

「ありがとうございます、リアナ」

 礼を言うと、リアナはその黒曜石の瞳を静かに伏せて、一度観覧席から下がっていく。観覧席の中で火を使うわけにはいかないので、恐らく外で湯を温めるのだろう。

 リアナが去ったのを確認して、近衛兵の一人が声を上げた。

「それにしても、いつ見ても矍鑠とした方ですね」

「え…?」

「そうだな。私たちも、いくつになってもああありたいものだ」

「――――――え――?」

 交わされる蒼服の言葉に違和感を覚え、思わず振り返る。近衛兵同士で交わしたつもりだった会話だったのだろう。急に聖女が振り返ったため、二人が慌てた表情をする。

(――――『矍鑠』…?)

 気づかれない程度に、眉を顰める。いくら彼女が年齢不詳の美女でも、さすがにそんな言葉を使われるほどの年齢ではないだろう。

「あの…」

「はっ、はい!申し訳ございません、無駄口を――」

「いえ、構いません。その、リアナは――…」

 なんと聞けばいいかわからず、少し逡巡する。

 不自然なところで言葉を切って黙ったイリッツァを不思議に思ったのか、近衛兵が言葉を引き継いだ。

「カロッサ殿が、何か」

「――え――――――――?」

 信じられない音を、鼓膜が拾った。

 一瞬、表情筋が己の仕事すら忘れてしまったのか、すべての表情が抜け落ちる。

「お待たせいたしました。本日のお茶です。近衛兵の皆さまの分もありますから、どうぞご一緒に」

「あぁ、カロッサ殿。恐縮です。ありがたくいただきます」

 白い湯気を揺蕩わせたカップを持って観覧席に戻って来たリアナの顔を、表情が抜け落ちた顔で呆然と見る。

 近衛兵は、貴族の出身――聖女でもない限り、修道女であっても、独身の女性は必ず家名で呼ぶ。

 聞き覚えのあるその響きに――血の気が、引いていた。

「イリッツァ様も――…イリッツァ様?どうされましたか?」

「――――ぁ…」

 ドクン ドクン

 心臓が、やけに大きな音を立てて鼓動を刻む。

「――――――リアナ…」

「はい」

「リアナ…カロッサ……」

「――はい。…イリッツァ様?」

 いつも通り、その漆黒の美女の顔に表情はないが――瞳には、やや怪訝な色が浮かんでいる。

 ごくり、と我知らずつばを飲み込む音が大きく響いた。

 リアナ、という名はこの国では珍しくない名づけだ。

 だが――『カロッサ』は貴族の家名だ。ありふれているはずがない。

「リアナ――…じゃ、ない――」

「イリッツァ様…?」

 そっと――右手が、懐に伸びる。――短剣を忍ばせた、懐に。

 思えば、時折おかしいと思うことがいくつもあった。

 アランは、このどう見ても十代後半~二十代前半の美女を指して「もう若くないのだから」と表現した。

 今日の近衛兵は、彼女が仕事をするさまを見て「矍鑠」という似つかわしくない言葉を使った。

 長く体調を崩していて、聖女が再び現れたと聞いて元気になり、お世話係に選ばれる――そんなエピソードですらも。

 周囲の人間の反応は、どう見ても――昔、リツィードの屋敷に良く出入りしていた、あの、ヒステリックな老婆『リアナ・カロッサ』を指すにふさわしいものばかりだった。

「お前は――――――誰だ――!」

 ガタン、と椅子から立ち上がり、懐から短剣を抜き放つ。

「「い、イリッツァ様!?」」

 近衛兵二人が慌てたように声を上げる。

 リアナ――リアナの名前を名乗り、彼女に成りすましている見知らぬ『誰か』は、驚いたように目を見開いた。

「イリッツァ様…一体…」

「リアナは――本物の、リアナは、どうした…!」

「本物…?」

 リアナは、その中性的な美しい顔に浮かぶ眉を微かに寄せてつぶやく。

(なんだこいつ――!)

 明らかに、おかしい。

 いきなり抜き放たれた白刃に――まったく動揺していない。

 おおよそ、刃傷沙汰とは無縁の修道女の反応ではなかった。

「あぁ――もしかして」

 白装束に身を包んだ漆黒の美女は、いつものかすれた声を紡ぐ。

 そして――出逢って初めての、笑みを、作った。

 にぃ――っと、真っ赤な唇が、不気味に吊り上がる。

「もしや貴女、あの老婆を、御存じで?」

「――――っ!」

 ぞわり、と体中が総毛立つ。

「イリッツァ様!」

 明らかに様子がおかしいと判断したのだろう。近衛兵の一人がイリッツァを護ろうと手を伸ばし――

 ザンッ

「――――――――――」

 ぼたぼたぼたっ

 雨が、降る。

 真っ赤に染まる――血潮の、雨が。

 目の前の、一瞬前まで近衛兵だったはずの身体から吹き出した真っ赤な鉄臭い液体を、頭からべっとりと被りながら、イリッツァは漆黒の美女から視線を一つも逸らさない。

 彼女の手には、つい一瞬前までは確かに存在していなかったはずの暗器が、その手に隠されるようにして握られていた。

「なっ――貴様!」

「やめろ!」

 もう一人の近衛兵が咄嗟に抜剣して声を上げたのを、思わず素の口調で制する。

 ――が、遅かった。

 ひゅんっ――

「が――――っ…は…」

 狭い観覧席の中で、風が一陣吹き抜けたような錯覚。次の瞬間には、その青い装束を紅に染めあげて、断末魔すら残さず、喉をぱっくりと開かれた状態で男が絶命していく。

 喉を、躊躇いなく、ひと裂きするその剣筋は――どこかで見た、記憶があった。

「お前が――闇の、魔法使いを――」

「聖女様は、察しがいいね。それにしても、この状況で、眉ひとつ動かさないって、すごいなぁ…」

 今までの無表情は何だったのかと思うほど、ニタリ、と顔中に嫌味な笑顔を張り付かせた黒髪の美女は、口調さえ面影を残さず、別人になった。

 イリッツァはさっと視線をめぐらす。

 観覧席の出口は一つ。それは、この中性的な女の背に庇われるように存在していて、この女を切り抜けない限り逃げおおせることは出来ないだろう。

(援軍――が、来たところで、返り討ちだろうしな…)

 リツィード・ガエルとしての知識と経験が、脳裏で囁く。構えを見るだけで、呼吸を感じるだけで、相手の力量など一瞬で推し量れる。剣筋を、身のこなしを見ることが出来れば、より正確に推し量れる。

 もう、彼女の剣は、二振りも見た。

(とんでもない力量の――職業的暗殺者)

 ごくり、と喉を鳴らして短剣をしっかりと握りこむ。使い慣れた長さの獲物がほしいが、倒れた近衛兵から奪うにしても、その隙をこの百戦錬磨の暗殺者が与えてくれるとは思えなかった。

「しかし…誤算だった。どうしようかな。最初は、王子か英雄のどっちかが倒れてくれた後に、色々と考えてたんだけど」

「っ……!」

「まさか、君が、あの老婆を知っているとは。大誤算だよ。予想もしてなかった。――ナイードの片田舎で生まれ育ったはずの君が、どうして?」

「はっ……神様の思し召し、とでも言っておいてやるよ」

「ふぅん――…それが、君の本当の口調?なかなか、外見とのギャップが愉快だね」

「お前もな」

 軽口の応酬をしながら、じりじりと間合いを図る。

 眼下がうるさい。――おそらく、血潮で真っ赤に染まったこの観覧席の異常事態に、そろそろ民衆たちが気づく頃だろう。きっと、すぐに近衛兵や憲兵が駆けつける。

(何よりたぶん、あの過保護な騎士団長がソッコーでやってくる)

 きっと、決闘なんて今すぐにでも放り出して。

(入口は一つ…しかも、狭い。人が一人通れる程度の狭さだ。そこから押し入ろうとしたところで、一人ずつ順番に中からこいつの一振りで殺されるだけだ)

 ぐっと短剣の柄を握りしめて、間合いを図りなおす。隙を見せず相手を睨んだまま、脳裏でシミュレーションをした。

 兵士の一人がやって来る。目の前の女がそれを神速の剣で一瞬で迎撃する。背を向けるであろうその時に――

(いや、ダメだ。暗殺に特化してるのか、こいつの速さは段違いだ。能力向上の魔法でも使わない限り、返す刀でばっさりやられる)

 イリッツァですら、眼で追うのがギリギリの速さ。とんでもない手練れだと、過去の経験が告げていた。おそらく、後ろを向いたと思って突っ込んだところで、手にした武器のこのリーチの短さだ。かなり肉薄する必要があるが、そんなのを待つ前に、その目にもとまらぬ速さの二刀目であっさり絶命させられる未来が浮かぶ。

 当然、後ろを向いた瞬間に近衛兵から剣を奪う、なんてことも無理だろう。悠長に能力向上の魔法をかける暇を与えてくれるとも思えない。

(どうすっかな…)

 ちらり、と視線をやるのは真っ赤な血潮で染め上げられたガラス窓だ。ここを割って避難するのが、一番いいだろうことは容易に想像がつくが、このガラスがどれだけの強度かもわからない上に、それを割る隙を相手の神速の剣が与えてくれるとは思わない。

(外から破ってくれるのを待つしかない、か…)

 恐らく、最初は入り口から突入しようと何人かがやって来て、それが無駄だと気づくのだろう。その後、聖女をお守りするために、とガラスを割る方向性で話を考えるはずだ。血糊でべっとりと汚れたそこは、こちらからも向こうからも互いの様子を知ることが出来ないから、どこを割るか、どのタイミングで割るかも躊躇が生じる。

 当然、最初の入り口からの突入から考えても、タイムラグが生じる。つまり、イリッツァがすべきことは――

「お前の目的は、何だ…?」

「目的?僕の?」

(僕、ときたか)

 その中性的な見た目のせいで、今朝までは確かに美女に見えていたはずなのに、今は美少年、といった方がしっくりくる。

 目の前の性別不詳の敵はニタリ、と笑った。

「時間稼ぎしようとしても、無駄だよ」

「――…へぇ」

「外からガラスを割ってほしいんだろう?なかなかどうして、君も荒事に慣れてるみたいだ。ナイードで初めて見た時から信じられなかったけれど――」

 ふふっと真紅の唇から愉快そうな笑いが漏れる。瞳に浮かぶのは――幾度となく見せた、昏い闇。

「すごいな。僕も、修羅場を何度もくぐってるからわかる――初めてだよ。君ほどの、剣の使い手を見るのは。今君が持っているのがお飾りみたいな心もとない短剣で良かった。正直、まともに剣でやり合ったら、勝てる気がしないな」

「それはどうも」

「男に生まれてたらよかったね。――いや、こんな剣士がこの国にいたら、僕としてはとっても困るんだけど」

 ふっと笑ってつづける。

「まるで――最強の剣士、リツィード・ガエルの再来だ」

「はっ……褒め言葉として受け取っておくよ」

 あまりの皮肉に失笑する。この国で、昔の自分を『剣士』として認識している人間は、恐らくカルヴァンしかいない。この国では、稀代の聖人として、リツィードの家名すら忘れられているのだから。

「――帝国、か」

「おやおや、本当に聖女様は察しがいい。君、カルヴァン・タイターとも仲良しだったよね。やっぱり、類は友を呼ぶのかな。常人よりだいぶ頭の回転が速いね」

 飄々と、やや芝居かかった様子で嘯く様に、予想が当たったことを確信する。

 そもそも、彼女――彼かもしれないが――の外見は、帝国に多くみられる黒髪黒目だ。さらに、リツィードを聖人としてではなく、剣士として認識している。そして――リツィードのような剣士が「この国に居たら困る」と告げた。

 ここまで揃えば、敵対国家の帝国の介入を疑わない方がおかしい。

「さて。僕も、君の正体についてはとても興味深いから、色々と本音をさらけ出しておしゃべりしたいのはやまやまなんだけど――そういうわけにもいかないみたいだ」

 耳を澄ませると、微かに聞こえる足音。足裏から伝わってくる震動を考慮すれば、かなりの人数がここに向かっているらしい。

「ここから先は――僕たちの家で、お話ししよう」

 すっと暗器を持っていた手とは逆の手を軽く掲げる。一瞬、警戒レベルを最大まで引き上げ、何が起きても対応できるように身構え――

 その手が、翳む速度で振り下ろされた。

 ピッ――――――ガシャァアアアアアン

「な――!」

 恐らく、何かの小さな礫。暗器の一種だろうそれを、一点に集中していくつか投げ込んだ途端、一面のガラス張りが崩れ落ちる。

 一瞬で、ひゅぉ――と冷たい外気が入り込んで来た。

「ツィー!!!」

「ヴィー!?」

 響いた声に、反射的に振り向く。

 さすが、というべきか。

 案の定決闘を一瞬で放り出したらしいカルヴァンは、観覧席の入り口に向かうことなく、最初からガラスを割って侵入する前提だったのか、観客でごった返す客席を乗り越えるようにして、必死にこちらに駆けて来ていた。その顔は、今まで見たことがないくらい蒼白だ。

 一瞬、そちらに意識がそがれ――

「よそ見はよくない」

「っ――!」

(しまっ――!)

 神速の速さで動ける敵が、その隙を見逃すはずもなく。

 ドッ

 最初に衝撃が来たのは、腹。その後、目にもとまらぬ速さで、首の後ろにも衝撃が加えられた。

(くっ……そ…)

 視界が暗転していく。だが、殴られたらしき鈍痛はあるが、斬られた痛みがない以上――おそらく、敵の目的は自分の命ではないのだろう。

(――あー…これ、絶対また、ヴィーに怒られるやつ…)

 十五年たっても、冬の王都中央広場は、自分にとってこれ以上なく鬼門らしい。仮にまた王都に戻ってきたとしても、もう二度と近づかないぞ、と心の中で決意する。

 さきほどの、青ざめた表情の幼馴染の灰褐色の瞳を思い出しながら――彼の過保護が今後さらに加速する予感を感じつつ、イリッツァはそっと意識を手放した。

王都編はこれにて終了です。次からは帝国編開始。

帝国編でこの物語は完結予定です。長くお付き合いいただいている方、ありがとうございます。最後まで、もうしばしお付き合いいただけたらと思います。

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