66、『玉座』の間③
べしっ…
振りかぶって全力投球したそれは、狙い通りまっすぐに、絵から抜け出たような金髪の美青年の横顔に直撃した。
しん―――――…と、玉座の間が、水を打ったように静まりわたる。
誰一人動かない。――動けない。
呼吸音一つすら憚られるほどの静寂。隣にいるリアムが、蒼白を通り越して真っ白な顔色になっていくのを見ながら、カルヴァンは――カルヴァンもまた、動けずにいた。
(――――――俺は、何をしてるんだ…)
自分で自分の行動が理解できず、固まる。表情は冷静を装うようにピクリともさせなかったのは、ただの年の功だ。実際は、我に返った瞬間から、心の中で尋常ではない冷や汗が噴き出している。
(――――――いや。頼む。誰か説明してくれ。なんで俺は――)
ゆっくりと、冷静を装いながら左手で、昨日の夜からついさっきまで、何百回と手を当てていた額に、同じように軽く触れた。その指先の温度を感じて――あぁ、今この目の前の光景は夢ではなく現実なんだと理解する。
(――――――なんで俺は、この国の最高権力者の一族に、思い切り自分の手袋を投げつけたんだ…!?)
ひくっ…と頬が引きつりそうになる。非凡な頭脳が、恐らく人生で最高速に稼働していた。軽く額に当てたむき出しの指先が、外気に触れるのを感じて心もとなさを演出してくる。
報告の儀が終わり、立ち去ろうとしたら、イリッツァに呼び止められた。おそらく、当初予定していた茶番をどうするつもりかと問いたかったのだろう。喧嘩を挑むように「ヴィー!」と呼ばれた瞬間、彼女の言いたいことはすぐに理解した。それくらいの意思疎通は言葉がなくても叶う程度の仲だ。
そこから始まった、目の前で繰り広げられる王子と聖女のやり取りは、何度か割って入りたくなりたくなりながら必死に耐えた。当初自分たちがやろうとしていた茶番劇を引き継いだのかと思うほど、人の目を気にする素振りのない距離感で繰り広げられるやり取り。ぐっと腰を密着させて、今にも口づけしてもおかしくないほどの距離で。
あの距離は、知っている。剣を振らせたら男よりも強いくせに、頼りないほど細い腰。鼻腔をくすぐる甘い香り。至近距離で相手を毅然と見据えて少し冷淡に切り返すさまは、彼女の見た目からは想像できないほど大人びた色香を発していた。周囲が、いつウィリアムがしびれを切らしてキスしてしまうのかとドギマギするくらいのやり取りに――一瞬、本気で王子を燃やしそうになったが、必死にとどまった。同じ男として、彼女とあの距離で密着しておいて、キスをせずに我慢するのが難しいことはわかる。元男だと思っていても、ついうっかり誑かされて何度も堪えきれず口付けてしまった自分が言うのだから間違いない。
さすがに二人が口づけを交わすそんな瞬間は見たくなくて目を閉じたが、覚悟はしていた。彼らの婚姻を受け入れるなら、それくらいは許容しなければいけないだろう、と必死に額を抑えて自制して――
「いいでしょう?――『ツィー』」
その音が、鼓膜を揺らした瞬間。
発動していたはずの聖女の光魔法の効果も、全部一気に吹っ飛んだ。
――――気づいたら、己の手袋を脱いで思い切り王子の顔に全力で投げつけていたのだ。
完全に、無意識だった。当たり前だ、理性が残っていたら、昨日もリアム相手に散々馬鹿にしていたこんなことをするはずがない。
己の手袋を投げつけるのは――『決闘』の申し込み以外にないのだから。
(――落ち着け。考えろ。起きてしまったことは仕方がない。ここから、何をするかが問題だ)
灰褐色の瞳をわずかに伏せて、さっと頭を切り替える。もう、終わったことは仕方ない。
――そう、仕方ない。
だって、どうしても、許容できなかった。
今まで自分が見たことがないイリッツァの表情を誰かが引き出すことも、自分以外の誰かがイリッツァの『特別』になることも、彼女に口づけするのもそれ以上の行為をすることも、許容できた。――いや、正直、最初は全く許容出来なかったが、一晩掛けて無理矢理自分を納得させた。全てを覚悟して、今日ここへ来た。自分の矮小な独占欲などより――優先すべきは、イリッツァの幸福であり、孤独からの脱却だ。そのためなら、この独占欲は押し込められる――
――そう思って、いたのだが。
『ツィー』と自分以外の誰かが呼ぶことだけは、どうしても、許容できなかったらしい。
つい数日前の、馬車の中の光景を思い出す。
十五年、ずっと聞きたかったんだと、情けない顔で懇願する彼女はこの世の者とは思えないくらい可愛かった。あまりに意外で可笑しくて、笑いながら呼んでやった瞬間に、はらはらと綺麗な雫が零れ落ちたあの瞬間は一生忘れられない。
お互いにとって、この愛称は特別なものだった。二十五年かけて築き上げてきた絆を象徴する存在だった。
この愛称で呼びかけるときだけは、どんなことでも、嘘偽りなく本音で話す。――そんな暗黙の了解が出来るくらいに、特別なもの。
そんな大切な絆に――ぽっと出てきた五つも年下のガキが割り込んでくることを許せるほど、カルヴァンは人間が出来ていない。
「――――――ウィリアム」
ここまで来たら、腹をくくるしかないだろう。
すでに、歯車は動き出したのだ。
カルヴァンは、ゆっくりと足を踏み出しながら、剣の教え子と聖女の下へと歩み寄る。
当の王子は、何が起きたのかわかっていないのか、己の横顔に直撃したあとはらり、と落ちた白い手袋に目を落としたまま動かない。
「王族っていうのは、一般常識、っていうやつを教えてもらえないのか?――お前に頼まれたのは、剣の指導だけだが、年長者として、教えてやろう」
コツ コツ
誰もが動けず、押し黙る広間に、大理石を叩くカルヴァンの足音と、押し殺したような声音だけが響く。
「一つ。――人の話は最後まで聞け」
コツ コツ
「一つ。――相手の嫌がることをするな」
コツ コツ――カツン
足音が、止まる。カルヴァンは、ウィリアムと、その前に立つ聖女を見下ろすように立ち止まった。一瞬、その場に静寂が舞い戻り――
「一つ。――――――――他人の女に手を出すな」
「ぅわ――!」
ぐいっ!
ひどく不愉快そうな顔を隠しもせずに告げた後、イリッツァの細い腰をさらうように抱き寄せ、胸の中へと引き寄せる。
どよどよっと周囲が一斉にどよめくことなど意にも留めず、カルヴァンは王太子へと視線を注ぎ続けた。
「師の女に手を出すとはなかなか骨のあるやつだな。――だが、残念ながら、これは、俺の女だ。あきらめろ」
「っ…こ、これ…」
小さく呻くような抗議の声が控えめに腕の中から漏れるが、すぐに聞こえなくなる。ぐっと力を込めて、しっかりと抱き寄せ直したからかもしれない。先ほどまで王子がしていた体勢と同じくらいの密着に、イリッツァはその胸に顔を寄せて羞恥の表情を隠した。――旅の道中で慣れたはずの距離感なのに、数日会わなかったせいか、どうにも気恥ずかしい。
「カルヴァン…手袋を投げる行為が、どういう意図を持つか、わかっていてやったのか…?」
「もちろん」
視線を落としたまま、震える声で問いかけられ、カルヴァンはニッと余裕の笑みを返す。
「というより、本来はお前から挑んでくるべきだろう。俺の女にちょっかいをかけた間男はお前の方だ。奪いたいならかかってこい。――俺から、奪えると思うなら」
「っ――――!」
いくら剣の筋がいい、と言ったところで、所詮お稽古の範囲だ。一般兵士と同じくらいには戦えても、当然、騎士団長たるカルヴァンに挑んで勝てるはずもない。自信に満ちた声音に、ぐっとウィリアムは唇をかんだ。
「確かにこいつはいい女だ。俺が惚れるくらいの、格別の女だ。女に興味がなかったお前が、ついうっかり惚れるのもわからなくはない。――だが、ダメだ。こいつは、俺のものだ。お前は身分相応の、そこらの女で我慢しておけ」
「っ……はっ……師匠と、同じようなことを言うんだな」
笑うように――どこか吐き捨てるように言われた言葉に、ぴくり、と眉が跳ねる。ウィリアムが、『師匠』と呼び慕うのは後にも先にもバルドだけであることを、カルヴァンは知っていた。
「このような時代錯誤な風習を、自由闊達なお前が好むとは思わなかった」
「別に、好んだわけじゃない。妹と一緒で、人の話を聞かずに無理矢理迫る強引なお前に冷や水ぶっかけるにはちょうどいいかと思っただけだ」
「ふっ…言ってくれる…」
ウィリアムが、苦み走った顔を上げる。
それは――今までこの場の誰も見たことがないような、『人』らしい表情。
「この風習が廃れた理由をお前は知っているのか?」
「さぁ。くだらないから、とかか?」
「もちろん、それもある。女をめぐって殺し合いなど、何の生産性もなく、くだらない。ほこりをかぶった昔の創作小説に出てくる流行遅れの騎士道精神が現代人に受け入れられなかったというのもあるが――何より、女性の社会的地位向上によって、この風習は廃れた。…今や、女性の司祭が当たり前に活躍する時代だ。女を勝利の景品がごとく物のように扱う決闘は、そこに女の意思が反映されないとして、社会的に批判された」
「…なるほど?」
「聡いお前なら、私が言いたいことはわかるだろう、カルヴァン」
その夏色の瞳に、どこか昏い光をたたえてウィリアムはカルヴァンに抱かれたままのイリッツァを見る。
「イリッツァ様。――私は、貴女の意思を聞きたい」
「――!」
「貴女の意思を確認もしないまま、男だけで結論を決めるというのは、公平でないでしょう」
「わ、私は――」
答えようとするイリッツァを抱く腕にぐっと力を籠める。
それは、親友として、事前に打ち合わせた内容を思い出せと言いたかったのか――
――男として、俺を選べと、言いたかったのか。
自分でもよくわからないまま、カルヴァンはその細い体をしっかりと抱き寄せていた。
「わ、私は――その…」
緊張するのか、口ごもったイリッツァに、一瞬不安を覚え、気付かれないように歯噛みする。まさか自分が、言い寄った女に選んでもらえないかも、などという馬鹿げた不安を抱える日が来るとは、つい昨日まで思ったことがなかった。
「――――ツィー」
「っ――!」
我ながら、卑怯だと思いながら――カルヴァンは、銀髪から覗く小さな耳に唇を寄せて、甘く囁く。
十五年、聞きたくてたまらなかったと彼女が打ち明けてくれた愛称を、何度も。
「ツィー。愛してる」
「~~~~~~っ…」
かぁっ…と一瞬でイリッツァの頬が熱を持つ。何か言いたげに睨むように見上げられた薄青の瞳を受け止め、ふ、と目を眇めて片頬を歪めて笑った。
「そんな顔してもだめだ。――可愛い。愛してる、ツィー」
「っ……」
記憶にある中で一番、飛び切り甘く囁いた言葉は、その場にいる全員に睦言を彷彿とさせるほどの色気を含んでいた。そのむせ返るほどの色気に、リアムをはじめ女性との色ごとに免疫がない男性陣は他人の逢瀬を覗いて睦言を聞いてしまったかのような気恥ずかしさにうっすらと頬を染めている。
真っ赤になって睨んでくる腕の中のイリッツァの瞳は「後で覚えてろよ」と訴えかけて来ていたが、にこりと笑顔で跳ね返した。
「ほら、王子様が聞いてる。早く答えてやれ」
「っ…わ、私はっ…」
羞恥でわずかに上ずった声で、イリッツァは精一杯言葉を紡ぐ。カルヴァンにしっかりと抱き留められた、その状態のままで。
「私は、聖女ですが…もし、誰かと、生涯伴侶として添い遂げるなら――っ、カルヴァンが、いいっ…です…」
「――――よくできました」
ふ、と満足げに笑んで、カルヴァンはその羞恥に赤く染まった耳に軽く口づけを落とす。
「っ――ちょっ――ヴィー!」
「いいだろう。間男にちょっかいを出されて俺はひどく不愉快だ。これくらい好きにさせろ」
場所もわきまえずいちゃつく二人に、周囲が呆然となる気配を感じて、カルヴァンは心から満足の笑みを漏らした。
(あぁ――いい。最高に独占欲が満たされる)
イリッツァが、腕の中にいる。
『ヴィー』といつものように自分を呼んで、自分のちょっかいに振り回されている。そんなに綺麗な顔で真っ赤になりながら睨みつけられても、可愛い奴だな、としか思えない。
こんなに可愛い少女を、自分が独占している事実。昨日から抑え込んできた反動か、周囲の目など全く気にならない。何なら、今すぐイリッツァを連れ帰ってしまいたい衝動に駆られていた。
「――イリッツァ様のお気持ちはわかりました」
ポツリ、とウィリアムの声が聞こえて、やっと現実を思い出す。――そういえば、ウィリアムに見せつけるのが目的だった。ついうっかり忘れて、普通にイリッツァを苛めるのを楽しんでいた。
「お前には悪いが、こいつと結婚するのは俺だ。――認めない、というなら、俺はこのままこいつを連れてこの場から逃げる」
「はっ――…どこまでも、師匠みたいなことを…」
呻くように金髪の下から睨み上げられるも、ニッと笑ってその視線を逃がす。ぎゅっと見せつけるように少女を抱き込んでやると、紺碧の瞳が憎々し気に眇められた。
(――本当に、逃げるか。このまま)
今のこの気分の良さのまま、国外逃亡でもしたら酷く楽しいだろうに――と半ば本気で考えていると、ウィリアムが予想外の行動に出た。
「カルヴァン。決闘のルールは知っているか」
「…は?」
「投げつけられた手袋を拾えば、決闘の申し込みを受ける、という意思表明になる」
そして――地面に落ちていた手袋を、その白い手がゆっくりと拾い上げた。
「――――――――おい…」
(――それは、想定していなかったぞ…?)
ひやり、と嫌な汗が背中を伝う。
ウィリアムは、昏い笑みをたたえて、しっかりとカルヴァンを見据えた。
「この決闘の申し出――確かに、受け取った」
「――――――…なるほど…?」
唇にいつもの口癖を乗せながら、同時に苦い笑みを刻む。非凡な頭脳が瞬時に回転し――ひとつの最悪な未来を描いたのを、笑い飛ばしてしまいたかったのかもしれない。
「確かにお前は、聖女の意思を確認する、とは言っていたが――『尊重する』とは言ってなかったな」
「私にも、譲れぬものがある。これは、譲れぬものだ」
「…ほう」
「ルールは、決闘を受けた側が決められる。知っているか」
「知らなかったが、いいだろう。好きに決めろ。頭脳戦だろうが肉弾戦だろうが魔法戦だろうが、負ける気はしない」
つ――と伝う嫌な汗に気づかれていないことを祈りながら、精一杯余裕があるように振舞う。
カルヴァンの頭脳は、ウィリアムが手袋を拾い上げ、瞳に暗い光をたたえた時から、この後の成り行きをうっすら予測出来てしまっていた。
もし自分が王太子の立場なら――必ず、一つのルールを決める。そしてそれは――圧倒的に実力差がある相手でも勝つことが出来る、卑怯な一手。
「私から提示するルールは簡単だ。一つ。決闘は、国民を集め、民衆の前で正々堂々行われること。一つ、武器は剣を一振りのみとし、決闘の最中の魔法の使用は認めない」
「なるほど」
そして――昏い光をたたえた紺碧が、表情を消した人形の顔に宿る。
「一つ。――――――勝敗は、死を以ってのみ決すること」
「――――――――――――」
ざわざわざわっ
周囲がにわかに騒がしくなる。一瞬、カルヴァンの瞳がかすかに眇められた。
「ちょ――待っ、な、何だよそ――」
「わかった。従おう」
色を失くして声を上げたイリッツァを抱き込んで無理矢理黙らせ、カルヴァンはしっかりとうなずいた。
「――今までの聖人面したウィリアムはどこに行ったのかと思うくらいの条件だな」
「追い詰められれば、鼠だって猫を噛む。――『英雄』がどんな決断をするのか、楽しみにしているぞ」
「はっ…よく言う」
「決闘の日程は追って知らせよう。――それまで、当然だが、聖女様には会わせない。私ももちろん、会わない。次に彼女の手を取れるのは、決闘が終わって勝利した後だと思え」
「――――――なるほど」
観念したように言って、カルヴァンは抱きかかえていた少女を手放した。確かに腕の中にあった温もりが、ふっと消えていく。まるで、いつかの、雪のように。
「すまない。しばらくの別れだ。迎えに行くまで、待っていてくれるか?」
「ちょ――ま、待って、俺――わ、私は、そんなの認めな――!」
「ツィー」
刻んだ笑みは――苦笑に近かっただろう。
それでも何とか、笑みの形を作る。
「愛してる。――迎えに行くまで、待ってろ」
「――――――」
へにょ、とイリッツァの眉が下がる。唇が、小さく震え――そっと、その隙間から頼りない声が漏れた。
「誓えるか…?」
「あぁ。もちろん」
「『生きて』迎えに来る、って――誓えるか――?」
「――――――――――」
カルヴァンは、左耳を掻いた後、軽く目を眇め――
ぽん、と軽くイリッツァの銀髪に手を置いた。
「努力する」
「っ――――!ふ、ふざけんな、そんな――!」
「いくぞリアム」
イリッツァの声には取り合わず、カルヴァンは踵を返し、補佐官を伴って歩き出す。
「待てっ!待っ――ヴィー!!!!」
「聖女様。お部屋にお戻りください」
追いすがろうとしたところを、蒼服が立ちふさがるようにして阻む。
「っ、どけ!」
「そうはいきません。決闘が受理され、貴女は聖女であると同時に、二人の男がその身をめぐって争う対象となりました。決闘の日まで、貴女は両者に接触することはできません。言葉を交わすことも――」
「ヴィー!!!!お前っ――誓っただろ!!!!忘れたとは言わせないぞ!!!」
目の前の男をかいくぐるようによけて走り出す。しかし、ぐっとその身はすぐに捕らわれてしまった。
「はなせっ!」
「離しません!」
「ヴィー!!!!」
捕らわれたまま声を張り上げるが、その背はすでに出口に消えようとしていた。
「もう二度とっ――二度と、置いていかないって、約束した!!!!したからな!!!!」
その声は、怒声に近かった。
怒りだと思っていないと――情けなく涙が、出て来そうで。
「――――」
カルヴァンは、最後に少しだけ振り返り――
いつもの人を食ったような笑みだけを口の端に残して、玉座の間を後にした。




