64、『玉座』の間①
「いってらっしゃいませ、イリッツァ様」
優雅なお辞儀と共に漆黒の美女に見送られ、真っ白な私室から足を踏み出す。――ここを出るのは、四日ぶりだ。王城に到着したあの日から数えて、ちょうど、四日。
「お手をどうぞ。イリッツァ様」
「――…はい」
扉をくぐった先に待ち構えていたように差し出された手に、一瞬、惑ったのは仕方ないだろう。ちらりと手の主の方へと視線をやれば、紺碧の宝石のような美しい瞳が、優しい光をたたえて笑んでいた。
そっと、差し出された手に、少し逡巡した後、諦めて遠慮がちに手を乗せる。乗せると同時にふわり、と優しく握られたその手は、どこかひんやりとした冷たさを持っていた。
(――…どっかの誰かとは違うな。さすが王子様)
女性をエスコートし慣れているのは、貴族社会で揉まれてきたその半生の影響か、そもそもの優しさのせいなのか。
いつぞや、生まれ故郷で求婚された時の、振り払おうと思っても振り払えぬほどの強さで握られ、しばらくギリギリと力比べをする羽目になった記憶が思い起こされる。凡そ、色っぽいときめきとは無縁だった人生初の求婚。悪童のような人を食った笑みを浮かべて、明らかに裏があるとわかる邪悪な表情で、こちらの反応を楽しむかのように、上から見下ろされるようにして取られた左手に唇を落とされた。あんなに心がこもっていない『愛している』を聞く機会がある女性は、世界中を探しても何人もいないだろう。
まさか聖職者として生きていくことを疑っていなかった自分が、人生で、二度も求婚を受けるとは思っていなかった。一度目ですら、眼玉が飛び出るほど驚愕したのに、二度目はもっと驚愕した。いったい、神は自分に何の試練を与えたいのか。
「久しぶりの外は、いかがですか」
「――…そうですね…今頃、王国中を駆け巡っているであろう噂が、どうなっているのかが気になります」
「ふふ…どう、もなにも。ありのまま、聖女と王太子の婚約に国中がお祭り騒ぎですよ」
「――――貴方の求婚を、受け入れた覚えはありませんが」
ひやり、と温度を感じさせない声音できっぱりと告げる。すると、紺碧の瞳が困ったようにかすかに眇められた。
「ですが、断られた記憶もございません」
「それは――――…」
続く言葉は、音にならない。ぐっと言葉を飲み込むようにして、イリッツァはそこで会話をとどめた。
(――――いや、だって、こっちにもいろいろ都合があるんだよ)
心の中では渋面を作って呻く。可能なら今すぐこの手を振り払って、きっぱりとお断りの文句を告げたい。誰がどう見ても本気の告白だったので、ほんの少しばかり心が痛むような気もするが、「無礼者」「聖女を何と心得る」と冷ややかな視線をくれてやるだけで、この話は一瞬で終わる。
だが――そう簡単に突っぱねられない事情が、イリッツァにはあった。
「その話は、今日の場が終わってから、ゆっくり話しましょう。――さぁ、着きましたよ」
手を引かれたままその部屋に近づくと、控えていた従者たちによって、すぅっと音もなく巨大な扉が開かれる。一瞬、まぶしさに目を眇め――その明るさに慣れた時、我知らず、ため息にも似た吐息が漏れた。
床には磨き上げられた大理石が敷き詰められ、柱も壁もすべてが純白なその部屋はところどころに黄金の装飾が控えめながら施されている。白と金の混合は、この国では直系の王族を表していた。――今、隣にいるウィリアムが身に着けているのも、白に金糸が織り込まれた美しい礼服。王城に到着したときに彼が着ていたものと同じ装束だ。
そして、どうしてそんなに、と思うくらい高い天井には、何百年前だかの天才芸術家が施したとされるフレスコ画。繊細で優美な宗教画は、見る者に驚嘆のため息を吐かせ、その神々しさに思わず頭を垂れさせる。
諸外国の中でクルサール王国の名物ともなっているその場所は――一般的には『玉座の間』と呼ばれていた。
(――ほんと、変わんないな、ここは。何年たっても)
初めて足を踏み入れたものは等しく足を止めて心を奪われるその圧巻の景色を、イリッツァは冷ややかな感情を映さない目で嘆息とともに受け流し、さっさと足を踏み出した。
「――…驚かないのですね」
「何に、驚く必要が?――もしや、かつてここにかかったであろう建設費用と日々の維持費を嘆き、エルム様の清貧を愛する心を説いてほしい、と?」
ひやり、と無表情のまま嫌味を返すと、ウィリアムは少しだけ苦笑した。
(とにかく――王子様には悪いが、感じの悪い聖女を演じて、嫌われないと)
何を勘違いしたのか、よっぽどのもの好きなのかは知らないが、聖職者然とした考えを持っているくせに、聖女を『人』扱いして求婚してくるような男をあきらめさせるために、とにかく冷たく拒絶する。身分の違いを思い知らせるように。この聖女は『人』の心など持っていないと思知らせるように。
思い描くのは、記憶の中の母。父以外、誰一人――血を分けた息子も含んだ誰一人、俗世の人間を近づけさせることのなかった、鉄壁の仮面。不意に近づき、その身に触れたものは全て凍らせてしまいかねないほどの、冷徹さ。氷でできた人形のようだったそれを思い描き、表情も呼吸も、すべてを再現する。
我ながら、きっと、その再現性は見事だろう。――幼いころから、吐息一つ、瞬き一つ、瞳の揺らぎ一つ見逃さないように、じっと彼女を観察していた。
いつか、彼女が気まぐれにこちらを見て、屋敷で父に見せるような表情を見せてくれるのではないかと期待して――十五年。ずっと、ずっと、眺めていた。
あの、孤独と寂寥にまみれたひどく物悲しい世界の底で得たものは、そう簡単に失くさない。
「こちらです」
王子に手を引かれ、再び歩き出す。玉座の後ろから顔を出すと、すでに眼下には人が集まっていた。全員が等しく膝をつき、頭を垂れて、うなだれている。
両脇を固めるようにしているのは、白装束と蒼装束。白装束は、王都に住まう枢機卿だろう。さすがに、四日前に集まった枢機卿たちのうち、王都以外の領地に住まう者たちは、己の仕事もあるためかすでに王都を後にしていた。
蒼装束は、もう四日間でだいぶ見慣れた王族付き近衛兵。この玉座の間で、唯一帯剣を許されている存在だ。もしもの時の護衛のために、広間の端の方で有事に備えている。その中でも選りすぐりの精鋭で信頼のおける者――近衛兵団長と副団長だけが、玉座の後ろに控えていた。
そして――中央に、謁見を賜る者として跪いているのは、赤い装束。
神に忠誠を誓うその色を纏った騎士の長は、神なんぞ全く信じていないのを知っている。
(――…ヴィー)
頭を垂れているせいで、顔は見えないが、つむじだけでも親友だとわかる。後ろに控えている蜂蜜色は、リアムだろう。
(おっせぇよ)
二人きりだったら間違いなく吐き捨てていただろう暴言をぐっと飲み込む。友人の灰がかった藍色のつむじを横目で見ながら、コツコツと規則正しい足音を響かせるウィリアムに手を引かれて聖女のために設えられた席に腰を下ろすと、そのまま金髪の青年がひざを折る。紺碧の美しい輝きが、自分の目線よりも低い位置に来て、見上げてきた。
そして、流れるような動作で、取っていた手をそのままに、流れるように唇を落とされる。
「――エルム様の御心のままに」
ちゅ、と軽く音を立てた後、聖職者には耳慣れた決まり文句を捧げられる。信者の礼拝の日に、最初に司祭が礼拝堂で神に向かって捧げられる祈りの言葉。
(――『人』扱いするって言ったって、根底は『聖女』扱いなんだよな…)
ふと、視界の隅に、目を伏せて唇を落とした華やかなシャンパンゴールドの髪の向こう、藍色の頭が視界に入る。じっと首を垂れる姿に、一瞬眉間にしわが寄りそうになった。
――頼まれたって、あんなこと、しそうにない奴だったのに。
(遠征前の出立式でだって祈りを捧げない罰当り野郎だった癖に)
ふと、十五年前の苦い記憶を思い出して、心の中で不機嫌に呻く。そのせいで、しなくていい言い合いをして、持たなくていい未練を持ってしまった。結果的に、奇跡に近しい偶然が重なって、昔のように言葉を交わせるようになったからよかったものの、下手をしたら一生ナイードから出ることもなく、カルヴァンを見かけることもなく生涯を終える可能性だってあったのだ。少なくとも、あの時生まれ変わったりしなければ、今ここで手の甲に口づけを落としているキラキラ王子から求婚されて進退窮まるなんてことはなかった。
理不尽な不機嫌を念じるように藍色のつむじにぶつける。
どこまでも神を愚弄するかのような行い。この国の民とは思えぬ振る舞い。神も、聖女も、聖人も――王にだって傅かぬ、自由が似合う、唯我独尊。
だから――彼は、どんなことがあっても、イリッツァを、『人』としてしか扱わない。
それがわかっているから、カルヴァンに口づけなどされるのは心臓に悪い。もし、今の王子と同じことをカルヴァンがしたとしたら、飛びのく勢いで驚くだろう。――『人』として扱っているくせに、そんな、忠誠を誓うようなキスをされるなど、彼の真意がわからなくなって心から困惑するからだ。
誰にも縛られず、この世の何にも縛られない、そんな彼が、自ら手を伸ばして、不自由を抱えてもいいと、リツィードの――イリッツァの手を取った。未だに、どうして二十五年前、あんなに拒絶していたくせに、不意に伸ばした手を取ってくれたのかはわからない。そして、何故そんなに、と思うほど――時に過保護と思うほど――の謎の愛の大きさは、イリッツァには持て余すほどだったが、それでも――それが、神の奇跡などよりもずっと尊いことであると、イリッツァは確かに理解していた。
「――――…ウィリアム王子?」
ふと、いつまでたっても膝をついたままの王子に怪訝な声を上げる。決まり文句を捧げたら、そのまま王子は自分のために用意された席に引っ込むはずだった。
怪訝な声を掛けられたウィリアムは、ふと、視線をあげる。紺碧と薄青の視線が、中央で絡まる。どこか恍惚とした色をのぞかせた紺碧が、うっとりと細められた。
「今、ここで――神の御前で、貴方に口づけていることが、尊くて」
(――――――――あ。だめだ。振り払いたい)
生理的な嫌悪感が背筋に走って、一瞬、無言で殴り飛ばすか蹴り飛ばすかしたくなったのを、最後に残った理性で抑えた自分をほめてやりたい。
神、というのは天井から見下ろしているフレスコ画に描かれたエルムのことだろう。歴史的価値も芸術的価値も一級品のそれに描かれたエルムの姿は、確かにこの国で一番尊い姿と言ってもいい。
神の御前での男女の口付けは、永遠の愛の誓いだ。結婚の誓いとしてはもちろん、昔は求婚の口付けも必ず教会の宗教画の前で行われたという。儀礼的な口づけをそれに重ねて、勝手に悦に入られたわけだ。気色悪さに思わず殴りたくなっても文句を言われる筋合いはない。エルムは、異教徒弾圧を肯定するくらいなので、暴力を否定する神ではないし。
(だぁからっ…俺は、お前と結婚なんぞ御免だっつーの…!!!!)
ギリッと奥歯を噛みしめてから、ひくりとこわばった頬で、何とか聖女の笑顔を取り繕う。ウィリアムは、そんなイリッツァの様子に気づかなかったのか、やっとつかんでいた手を離して自分の席へと戻っていった。
(お前っ…!さっさとこの状況何とかしろよ、この馬鹿っ…!!!!!)
ギリギリと怨念にも近い鋭い視線を飛ばすようにしてカルヴァンのつむじを睨む。カルヴァンは、なぜか頭を垂れたまま、額のあたりに手を当てていて、こちらの様子に気づく様子がない。
すると、ギィ――と後方で扉が開く音が鳴った。王と枢機卿団代表――アランがやってきたのだろう。王は自分のために用意された席に腰掛け、アランはいつかの記憶で翁がしていたように、後ろに立ったまま控えて軽く頭を垂れた。
「――王国騎士よ。神の聖名の下に殲滅せし魔を報告せよ」
朗々たる王の声が、玉座の間に響く。
「今回魔物が出没したのはナイード領――」
頭を垂れたまま、カルヴァンが報告を始めるのを右から左へ聞き流す。どうせ、詳細の報告はすでに報告書として挙げられている。これは、あくまで、儀式の一つなのだ。昔から続く、意味のない儀礼。神の戦力たる騎士団が、神の御前で、その戦果を報告する。聖女が不在の時代は、天から見下ろすこの宗教画の下で、王族と枢機卿団を相手に。聖女か聖人がいるときは、その御前で。
(あぁ――気分、悪いな、これ。母さんが、いつもこれの後は嫌そうな顔してた理由が今ならわかる)
この王城を『檻』と例えたあの日もそうだった。いつも、この遠征報告の儀に同席するたび、フィリアはいつもの無表情に少しだけ不快感をにじませていた。
当時は、感情を揺らすことなどないフィリアが珍しいこともあるものだ…くらいにしか思っていなかったが、今なら、少し彼女の気持ちが分かる。愛する夫を跪かせ、玉座から見下ろす構図。この儀礼の間中、基本的に相手は顔を上げることすらない。それは、この上なく、玉座の上にいる者と、下に跪いている者との関係を強調するかのような時間。どれほど相手を想おうが、どれほど相手に想われようが、決して二人は交わることがない、と上から見下ろすエルムのもとで、哀しい現実を突きつけられているようで――
(いやいや、今はそんなこと考えてる場合じゃない。集中)
ふるっと小さく気づかれないように頭を振って、妙な感傷を振り払う。
事前の打ち合わせでは、この場で茶番を繰り広げることになっていた。報告が終わった後、カルヴァンが進言する。
(俺は、あいつに惚れてる女。女。女)
頭の中で念じるように何度も唱える。ここに至るまでの旅路を思い返す。
自分を『人』として扱うカルヴァンに、何度も抱き寄せられ、恋人同士の距離に慣れさせられた。四日ぶりだから、ぎこちなくなってしまわないか心配だが、腹をくくるしかないだろう。――彼には、何故か、聖職者として生きるには許されざる行為の一つ、唇への口づけまで許してしまったのだ。しかも、何回も。――もう、後には引けない。
(王子様のわけわかんない求愛行為にも必死に耐えたんだ。これで失敗したら、我慢しただけ無駄だった。絶対成功させる)
心の中で、ぐっとこぶしを握って気合を入れる。
もともと、イリッツァに結婚願望などというものは髪の毛一筋ほどもない。聖職者として生涯独身を貫きたいと思っているし、男女の性愛を感じさせる行為などもってのほかだと今も思っている。今の妃と別れて第一妃として迎え入れる上にもう他の妃は取らない――という王太子の発言は、イリッツァにとっては全力で拒否反応を示すものだった。それはつまり、イリッツァと子作り前提での結婚をしたいと言われているようなものだったから。性愛を凝縮しまくった行為であるそれをさせられるくらいなら、舌を噛んで死ぬ。それくらいの生理的嫌悪感が先に立った。
まして、自分の中には半分は男だった記憶がある。何が悲しくて、野郎と乳繰り合わなければならない。
――カルヴァンは、別だ。事情が違う。
結婚などしたところで、彼自身が言っていた通り"普通"の恋愛関係になど発展し様がない。彼は前世から続く無二の親友だ。対外的には愛し合う夫婦と見せておかなければならないだろうが、屋敷の中でまで茶番を繰り広げる必要はない。聖女の仮面を脱いで、イリッツァの仮面すら脱ぎ捨てて、昔の「リツィード」としての一面をさらけ出せる、唯一無二の存在。
ついうっかりキスなどしてしまったのは誤算だったが、少なくとも、生理的嫌悪感を抱くような事態は避けられるだろう。――カルヴァン相手なら、殴っても蹴っても心が痛まないから全力で抵抗できるし。
(俺は聖女の責務を放棄する女。聖職者の最高位でありながら恋愛におぼれて、女の幸せに逃げる、最低な聖女。それでいい。っていうか、いっそ、その方が王子様も夢が壊れて幻滅してくれるんじゃないか?)
横目で王子の方をちらりと伺うと、視線に気づいたのか、ウィリアムもこちらを振り返り――にこり、と紺碧の瞳がほほ笑んだ。
完璧すぎるほどの造詣で作られたその笑みに、砂を吐きたくなる。
(くそ――カルヴァンの馬鹿野郎…!お前のせいで、面倒くさいことになってんぞ!)
ふるふると、手元で握りこんだ拳が怒りで震える。
王子の求婚を断ることなど簡単だった。求婚されたその瞬間、反射的に全力で断りそうになった。
だが――ぐっと、堪えたのだ。
「自分は聖職者だから」「聖女が『人』と結婚などありえない」「分不相応もほどほどにして、今すぐその不愉快な口を閉じろ」――相手の反論を一切封じるこれらの断り文句を口に出すのは、簡単だった。
だけど――それを、口にして、しまったら。
今日――――――カルヴァンとの茶番が、全部、台無しになる。
(っ……あー、もうっ…まだかよっ…早くしろ!)
つらつらと続く報告に苛立ちながら、はやる心を抑える。
今日の茶番だけは、何としても成功させなければならない。
正直、あの息の詰まる神殿に幽閉されるのは、辛くない。――いや、暇すぎてこの数日が辛かったのは事実だが、そのうち慣れるだろう。心を殺すことは、慣れている。
だけど――だめだ。
それをしたら――カルヴァンは、独りで、この国を去るという。
誰の手も取らず――イリッツァの知らないところで、独り、勝手に、生への執着を手放す。
それだけは、絶対に、何があっても避けなければならない。それだけは、どんなに頑張っても、心を殺して耐えることなどできない。きっと、簡単に――心が、壊れる。
その昔――『愚かな聖女』と呼ばれた女が、一人の愛する男を喪っただけで、氷の仮面で三十年近く守り続けた聖女の責務をあっさりと手放してしまったように。
だからこそ、イリッツァはウィリアムの求婚の返事を『保留』にしたのだ。
彼の求婚をあの場で断ることは、すなわち神殿に籠り聖女としての責務と共に生きるという意思表示。
それはつまり――カルヴァンを喪う未来と、同義なのだから。
(でも…どうするつもりなんだ…?相手は王子だぞ…?)
さすがのイリッツァも、当初の予定通り茶番を繰り広げるだけでは、ことがうまく進まないであろうことは予想がついていた。求婚されたのは昨日の朝。きっと、王都中にすでに話は広まっているはずだ。カルヴァンの耳にも入っているだろう。
民衆は、信じたいことを面白おかしく信じたいようにしか信じない。きっと、『保留』にされた真実など伝わっておらず、婚約が成立したものとして噂されているであろうことは容易に想像がついた。ウィリアムの人望を鑑みても、過去に聖女と結婚した男がいた前例があったことを鑑みても、民意はそれを好意的に受け止めているであろうこともまた、想像に難くない。
つまり――今、ここで茶番を繰り広げたとして、民意は確実に王太子に味方している。外堀を完全に埋められた状態だ。しかも、妃との離縁についてまで根回しが済んでいるというから、本格的に外堀を埋められている。なかなかにしたたかな奴だ、と舌を巻かざるを得ない。
それでもイリッツァはぐっとこぶしを握りこんで、覚悟を決める。
カルヴァンなら――きっと、何とかしてくれる。
何せ、あの絶望の処刑台の上でさえ、彼がここにいてくれたら別の未来があったかもしれない、と信じられたのだ。
今、目の前にその絶大な信頼を寄せる男がいるのに、何を案ずることがあろうか。
(きっと、俺には考え付かないような方法で、助けてくれる)
彼に任せておけば、大丈夫。
イリッツァは、来るべき時に向けて、ごくり、とつばを飲み込んだ。




