62、『無自覚』な独占欲①
ふわり、とそれが触れたのは一瞬だった。
まるで、天使の羽が気まぐれにそこを掠めたかのような錯覚。
「お前、ほんと、意外とすぐ思い詰めるから」
母が幼子にするように。
「お前、誰よりも頭いいんだから。――落ち着いて考えたら、お前の頭で解決できないことなんて、ないんだから」
温かく柔らかな光をその瞳にたたえて。
「カッとなったら、ここ、抑えて。冷静になりたいときは、俺を思い出して」
安心させるように、慈愛の笑みを顔に浮かべながら、そっと、天使が気まぐれに、唇を額に落とした。
頬に触れた銀髪は、絹より滑らかな、いつまでだって触れていたくなる肌触り。近づいた途端に不意に、昔とは違う、女特有の甘やかな香りが鼻をくすぐる。
「俺も、意外と、過保護なのかな」
少しだけ、困ったように、眉を下げて苦笑に近い笑みを漏らした少女を、見返す。
別れ際、思い出したように与えられた――それは、聖女の、加護だろう。
光魔法使いが、祈りを込めて口づけたものには、強力な加護が籠められる。それは、知識として知っていたが――
――彼女が、自ら、額とはいえ男性に口づけを落としたことに、驚いて。
その時は、きっと、間抜けな顔をしてしまっていたかもしれない――
(――――――まさか、さっそく、頼ることになるとは)
誰もいない執務室で、額を覆って胸の中で独り言ちる。
王城に到着する寸前――気まぐれのように、親友から馬車の中で与えられた加護。光魔法に頼るなんて御免だ、と思っていたが、どうにも自分では解決できない事象に直面し、「これは例外だ」「神の加護じゃない。ツィーの加護だから」と誰にともなく言い訳をして、つい三日ほど前に口づけを落とされた額のあたりを抑えていた。そのまま少女の顔を思い描くと、ふっと頭がさえていく。鎮静の光魔法の効果が表れた証だ。
いつの間にか日は完全に落ちてしまっていて、部屋の中は色濃い闇が支配しようとしていた。静寂の中で、カルヴァンはソファに体を預けたままじっと瞳を閉じる。少し念じれば、すぐそこにある燭台に触れることすらなく火を灯すことは容易だが、なんだか今はそんな気持ちになれない。この薄闇の中に紛れ込んで、溶け込んで、消えてしまいたくなるような、妙な感覚。
「――何が気に入らないんだ、俺は」
小さくつぶやいた声は、誰もいない空間の空気を震わせ――そのまま、誰の耳に届くこともなく、消えた。
「――――以上が、ご報告になります」
「………」
なるほど、といつもだったら特に意味もなく口をつくはずの口癖は、なぜか口からこぼれなかった。
日没を待つことなく、ずいぶん早く返って来たと思ったリアムが持ってきた情報は、まさかの王太子本人から得た情報だという。これ以上なく正確な情報だ。正直、さほど期待していなかったが、優秀過ぎる補佐官の仕事ぶりはこちらの期待を十二分に超えてきた――が、なぜか今は、褒める気にならない。
瞳を少しだけ伏せて、じっと一点を見つめる。いつも通り、頭が高速で回転し――
(――――――ダメだ。情報がうまく処理できない)
働き過ぎたのかもしれない。寝不足が祟ったか。目頭のあたりを抑えるようにしながら、眉間のしわを伸ばそうと試みる。
リアムが部屋を出て行ったあと、一瞬このことについて考えようと試みた――が、情報が少なすぎるのと、意味が分からなさ過ぎて、ひとまず目の前の仕事に没頭した。――没頭することで、考えることを辞めたかったのかもしれない。
おかげで、もうあと一日は裕にかかるだろうと思っていた仕事はリアムが返ってくるまでの数刻で完了し、明日には王城に赴けることになった。――なって、しまった。
「あ、あの…だ、団長」
「何だ」
「その…えっと…は、早まらないでくださいねっ!?」
「は?」
片目だけを開けて、怪訝な顔で聞き返すと、リアムはどこか余裕のない顔で言い募る。
「確かに団長は、王都中の女性がその妻の座を狙うほどのモテ男で、王国最強の剣と魔法の腕を持ち、二人でかかりきりでやっと丸一日かけて終わる仕事を本気を出したら数刻で終わらせられてしまうほどの凄まじい男ですが――」
「何だ、急に」
急に始まった妙なおべっかを前に、思い切り眉間にしわを寄せる。
リアムは、ほんの少し震える声で、続けた。
「その、王太子殿下は、相手が悪すぎます…っ!」
「は?」
「俺は明日、団長が、遠征報告の場で王太子殿下にイリッツァさんを賭けた決闘でも申し込むんじゃないかと、心配で心配で――」
「――はぁ???」
心から呆れかえった声が出る。しかし、リアムは真剣な顔で青ざめていた。どうやら、冗談の類ではないらしい。それに気づいて、思わず頭を抱える。――頭痛がしてきた。
「お前の馬鹿兄貴と一緒にするな。――俺はそこまで爺じゃない」
「兄貴だってそこまで爺じゃないですよ!!!!っていうか、なんでそこで兄貴が出てくるんですか!」
(お前の兄貴が昔俺に女を賭けて手袋を投げつけてきたからだ)
心の中で答えて嘆息する。一応、ファムの名誉のために黙っておいてやった。
クルサールに昔から伝わる決闘の風習など、百年ほど前に廃れている。歴史的に記録が残っているのは、五十年ほど前が最後だろう。その当時ですら、「今時決闘って…」と社会が呆れかえっていたという。公の記録でないならば、ファムがカルヴァンに手袋を投げつけて叫んだあの兵舎の廊下が、もっとも最近の決闘の記録だろう。――カルヴァンはその手袋を拾わなかったので、決闘は行われなかったのだが。
もともと決闘は、裁判制度の一種だったという。裁判で下された判決に異を唱えるために申し込むのが決闘だったとか。それが、ある時、騎士と恋仲だった貴族令嬢を、不当な方法で無理矢理婚姻関係を結ぼうと脅しているということで、とある小貴族の男が訴えられたが、無罪とされた。それを不服として騎士が決闘を申し込み、勝利を勝ち取り、貴族令嬢に結ばれかけていた婚姻を解消させ、己の妻とした――という物語が王国で流行ってから、私闘の一種としての決闘の風習が始まり、主にそれは女性を巡って繰り広げられることとなった。
「確かに王太子殿下が結婚を申し込んだ女性を奪おうなんて思ったら、決闘でも申し込まない限り方法なんてないですが――でも、仮に決闘を申し込もうと思っても、基本的に身分が違う者――特に、身分が下の者から挑まれた決闘には応えなくていい、という暗黙の了解があるんですから、手袋投げつけたところで無駄ですよ。何かの気まぐれで拾ってもらえたとしても――まさか、公衆の面前で王太子を倒すわけにもいかないでしょう。かといって、わざと負ければ、イリッツァさんは――」
「勘弁してくれ…」
放っておくと怒涛に言い募りそうなリアムの言葉を遮るように呻いてこめかみに手を当てる。頭痛が本格的になってきた。
もう廃れて誰もが記憶から抹消している可能性が高い風化された制度に、なぜそんなに詳しいのか。カダート家には決闘の知識と経験が、子孫代々脈々と受け継がれているのか。くだらないことを考えて大きく嘆息する。
「第一、なんで俺が王太子に盾突く前提なんだ」
「え――だ、だって…い、イリッツァさんが――」
「だからどうした」
「――――――――――――え?」
きょとん、と大きく見開かれた鼈甲の瞳に、呆れた視線を返す。少し傾いた西日が、窓の外から部屋の中を刺し貫いてきた。
「これが、何か妙な裏があったりするならともかく――俺と、ウィリアムの狙いは一緒なんだろう」
「ね…狙い、って」
「あいつを、聖女の責務とやらから解放させる。――そのために、現状、国民も納得させつつ取れる解決策は、結婚する以外に方法がない。だから、俺と同じ打ち手を思いついて、打った。――それだけだ」
「え、いや――…そ、それはそうですけど――でも、殿下は、本気ですよ!?だ、第一王太子妃との離縁まで視野に入れて――」
「なおいいだろう。――俺と結婚なんかしたって、恋愛関係になんか発展しようもない。その点、ウィリアムは女としてのあいつに惚れてるんだろう。女としての幸せを叶えてくれるなら、万々歳だ。聖職者としての考え方も似てるだろうしな」
(とにかく、自分の不幸と孤独には鈍感な奴だからな)
心の中で小さく付け足す。
放っておくと、すぐに孤独になろうとする。自ら不幸へと突き進もうとする。そんな彼女を孤独から救いたいと思っていたし、救い出せる自信はあったが――"幸せ"の方は与えられるか、正直、自信はなかった。
彼女の幸せは、王国民の幸せだ。エルムの教えに従い、日々を利他の精神で生き続ける――カルヴァンには逆立ちしたって理解できないその考えを、ウィリアムはきっと、理解し、共感までしてくれるだろう。
「あいつのことを生涯かけて守ると決めているが――別に、騎士のままでもその身は守れる。公務でどっかに出向くときは、騎士に必ず依頼が来るんだから、問題ない。祭典だのなんだのでも、騎士団長は出席を義務付けられるんだから、そこでもあいつの身を護ることは出来る。――価値観も合うウィリアムと結婚して、しかも、『人』として扱ってくれるという。この国で、女なら間違いなく一番憧れる結婚相手だろう。そのうえ、今の妃と離縁してまで、生涯かけてあいつだけを愛し貫くと誓っている。――ここまでされて、どこに俺が盾突く要素がある?」
「え…いや…だって――」
ぱちぱち、と目を瞬いた後――リアムは、恐る恐る口を開いた。ほんの少し、冷や汗をかいて。
「だって――団長、イリッツァさんのこと――好き、ですよね…?」




