61、リアム・カダートの『受難』②
見渡す限り、どこもかしこも真っ白に塗りつぶされた建造物に、七面倒くさい申請と検査を終えてやっと入城する。仕方のないこととは言え、何度やっても慣れない徒労感に、リアムは大きく嘆息した。
(掃除だけでも大変そうだよな…)
王城の敷地内に設えられた近衛兵の詰め所を目指しながら、庶民丸出しの感想を抱く。真っ白に塗りつぶされた壁は、風雨にさらされているはずなのに、いつ来てもまるで竣工直後のように美しい。せっせと毎日誰かが磨いている証だろう。
(誰か、知り合いがいるといいんだけど――)
詰所の前まで着て、リアムは一度瞳を閉じ、神に祈りをささげる。どうか、知り合いがいますように。
まったく知らない人間よりも、多少顔見知りの方が、情報を引き出しやすい。人付き合いは苦手ではないし、そこそこいろいろなところに色々な伝手を持っているから、近衛兵にも知り合いはたくさんいるが、どうしても相手は貴族様だ。知らない人間もいるし、身分が違いすぎて話しかけられない相手もいた。
「失礼します」
一つ咳払いをした後、断りを入れて、詰所の扉を開く。
「お?――リアムじゃないか、久しぶりだな!」
「わ…エルドさん!お久しぶりです!」
一番最初に飛び込んできた見知った顔を見て、ほっと顔がほころぶ。神の思し召しに心の中で感謝をささげた。
「元気にしてたか?今は、鬼の騎士団長の下で補佐官やってるんだって?」
「は、はい、おかげさまで…エルドさんも、お元気そうで何よりです」
「おう、元気だよ。今度、師範にも、よろしく言っておいてくれ」
にかっと人好きのする笑みを向けられて、つられるように笑顔を返す。竹を割ったような性格の兄貴分なエルドは、旧知の仲の近衛兵だ。
今や戦士の登竜門と言われている、リアムの兄・ファムが経営する剣術道場に、初期の頃から滞在していた古参の門下生だ。小貴族の五男坊というエルドは、庶民にまみれて道場に通い、自分とそう大して年齢も違わないファムのことを師範と呼び慕い、メキメキと力をつけていった。当時、門下生の中では誰より幼かったリアムを、弟のように気にかけてくれていたので、よく稽古の合間に遊んでもらった記憶はつい昨日のことのように思い出せる。
「あ、エルドさん、この後お時間ありますか?俺の用事、一瞬で終わるので、せっかくなので少しお話でも」
「あぁ、大丈夫だ。今は勤務の合間の休憩中だし。城内からは出られないが、ぷらっとその辺回るくらい大丈夫だぞ」
近衛兵の知り合いの中でも最強の伝手を引き当てられたことに、エルムへ何度も感謝を告げながら、リアムはほっと安堵する。エルドは、近衛兵の中でも中堅の戦士だ。剣の腕も魔法の腕も実力は折り紙付きで、王族を直接警護することも多い。今回の件に関しても、事実に近い何かを知っている可能性が高かった。
リアムは音速で用事を済ませた後、急いで詰所の外で待つエルドの下へ走った。
「はは、そんな急いで来なくても」
「いや、俺も、日没までしかいられないので…」
城内をあてもなく歩き始めながら、ごにょごにょと口の中でつぶやき、嘆息する。一度、頭をすっきりとさせて――上官ほどではないが、一つ深呼吸をする間に脳を回転させて、リアムはゆっくりと口を開いた。
「聖女様がいらっしゃってもう三日ですが、城内はどんな感じですか?」
「あー…それな。うん。今、すったもんだで大変だ。――王都でももう話題になってるんじゃないか?」
察しのいい兄貴分は、渋面を作りながら、一足飛びで本題に飛び込んできてくれた。ありがたい、と思いながらリアムも苦笑を顔に刻む。
「はい、そりゃもう。――でも、正直信じられなくて。だって、聖女様でしょう?」
「まぁそりゃ――俺も信じられなかったよ。今もよくわかってない。よりにもよって、俺、その求婚のタイミングで聖女様の神殿警護番だったんだよ…」
「えっ、ほ、本当ですか!?」
これは本当にエルムの思し召しに感謝せねばなるまい。食い気味に聞き返すと、エルドは苦い顔のままつづける。
「あぁ。朝一番で、いきなり殿下がいらっしゃって…何やら薄青の花束を持っていらっしゃる。聖女様への捧げものか?と思ったけど、何やら殿下は緊張した面持ちで、いつもと様子が違うから、一緒に当番だったやつと、念のため、といって一緒に部屋に入ったんだ」
「へぇ…それで?」
「そしたら――急に、花束を渡して…なんていうか、お手本みたいな求婚をされてた。跪いて、手を取って、口づけを落として…今時古風だな、と思うくらいの完璧な求婚。殿下はあの見た目だし、相手があの聖女様じゃなかったら、感動の一場面だったんだと思う。それくらい…なんていうか、美しかった」
「は…はぁ…想像できます…」
(イリッツァさん、本当に可愛いですもんね…)
心の中で、一目ぼれした少女の可憐な美貌を思い出して、そんな彼女が絵本の中から抜け出してきたようなこの国の王子に求婚されている場面を思い描く。そのシーンを宮廷画家にでも絵にさせたら、王都中で飛ぶように売れるのではないだろうか。
「でも、相手は聖女様ですよ?誰よりも敬虔な信徒であられる殿下が――っていうのが、どうにも信じられなくて」
「俺もだよ。なんで聖女様相手に、そんな――って、思った。たぶん、あの場にいる全員が思ってた」
理解に苦しむ、と言いたげに重たいため息を漏らし、エルドは額を覆った。
「求婚の言葉も、かなり情熱的で――正直、殿下らしくないというか、驚いた。いっつもキラキラした笑顔で聖職者みたいな人だったから、こんな、真剣に、真っ赤な顔で愛を囁く人だったんだ――って」
「え、えぇぇぇ…あ、愛……???」
普段のウィリアムの様子からは、確かに想像ができない。博愛を説く姿は想像できるが、個人的な熱を持った愛を一人の女にささやくような、そんな男ではなかったはずだ。
「え、待ってください。ってことは、もしかして――その、本当に、聖女様に――…?」
「あぁ。そうらしいぞ。本当に理解が出来ない」
口に出すことが憚られて濁すと、エルドはその続きを正しく理解してうなずいた。思わずリアムは絶句する。
(え――…いや、本気で…?す、好き、なのか?女性として?)
聖女という存在を、女性だとか男性だとか、そんな括りで見ることすら不敬だ、というそんな世の中の風潮に、真っ向から逆らう行いだ。
「ひ、一目惚れ…とかってやつですかね…?」
「さぁ。でも、そうとでも言わなきゃ説明つかんだろ」
「そ、それもそっか…」
神殿には、王族と言えども、きちんとした用事なければ足を運ぶことは許されない。俗世と完全に切り離されたそこは、聖女の――神の化身がおわす神域に等しい。手を引いてエスコートした初日以外で、わざわざ神殿に足を運ぶような『きちんとした用事』がただでさえ多忙の王族にあるとは思えなかった。つまり、エスコートした初日で、恋に落ちたと、そう考えるほかない。
「確かに、怖いくらいに美しい少女だったが、あんな、人間離れした様子の聖女様に恋に落ちるなんて――と最初は思っていたよ、俺たちも」
「へ?」
「どうやら、それこそを、何とかしたいらしい。我らの殿下は」
「……ど、どういうことですか?」
話が読めずに尋ねると、呆れたような顔でエルドは言葉をつづける。
「求婚したときに、おっしゃってた。『貴女は、聖女である前に、一人の『人』なのです。私は、ここで貴女が、独り孤独に生涯を終えるのを、見過ごせない』って」
「――――え――」
それは、どこかで聞いたような言葉。
「『長く続く慣習を、いきなり変えることは出来ない。だが――例外を作ってくれた英雄がいた。私と結婚してくれたら、その例外を盾に、私は貴女をこの神殿から解放できる』…だってさ」
「――ガエル騎士団長…ですか」
「あぁ、そうだろうな。言われてみて初めて、確かに、って思っちまったよ」
ごりごり、と後ろ頭を掻きながらエルドは嘆息する。確かに、というのは、聖女を神殿から解放したという例外があったという点か――あの少女が、聖女である前に一人の人間である、という点なのか。両方なのかもしれない。
(ど――…どうしましょう…団長……まさか、貴方以外に、貴方と同じことを考える男が現れるなんて――)
これは、完全な誤算だ。きっと、カルヴァンの優秀過ぎる頭脳をもってしても読み切れなった、不測の事態。
「まぁでも――さすがに、驚いたのか」
「え?」
「聖女様、求婚を受けて目ぇ白黒させててさ」
くくっ、と思い出したように笑いをかみ殺し、エルドは人好きのする笑顔を向けた。
「最初、王城に到着したときは、本当に聖女らしい――神の化身みたいなお方だな、と思ってたけど、あの時の表情は、歳相応の、十五歳の可愛い女の子だった。――あ、これ、内緒な。ばれたら不敬罪で投獄される」
「はは、言いませんよ。――でも、わかります」
リアムは、ふ、と鼈甲の瞳を緩めて笑う。懐かしい思い出をたどるように。
「王城に入るまで、数日間――ナイードから一緒に来ましたが、イリッツァさんは本当に可愛くて、ついつい聖女様だってこと、忘れそうになるんです」
「へぇ」
「さすが、あの鬼みたいな団長の心を溶かしただけのことはあります。底抜けにやさしくて、笑顔が可愛くて――ちょっとしたことで、動揺するんです。団長が、明らかに面白がって『ツィー』って親し気に呼びかけてちょっかいかけるたびに、目を白黒させちゃって――きっと、あの時みたいな顔してたんだろうなぁ…」
「そうだったのか。じゃあ、王城に着いたときは、気を張ってたのかもな。――信徒を安心させようと、聖女っぽくふるまおうって、努力してたのか」
「そうかもしれませんね」
だが、その『努力』によって救われた者はいたはずだ。十五年前の凶事に、心を操られながら加担した者も、少なからずあの場にいたはずなのだから。
「…ちなみに、イリッツァさんは、求婚を受けたんですか?」
「あー――…それは…」
少し迷うようにエルドは視線をめぐらす。聞いてはいけないことだったかな、と一瞬思った時――
「いい。エルド。別に隠すようなことでもあるまい」
「え―――」
急に響いた声に振り返ると――金色のキラキラしたオーラを振りまく青年が、いつの間にかそこに立っていた。
「「でっ――殿下!!!?」」
ザッと二人で慌てて膝をついて礼を取るが、「いい、立て。今は休憩中だろう」と優しく制されてしまう。立て、と命令されては立たざるを得ない。二人はちらりと気まずげに目を合わせた後、恐る恐る立ち上がった。
「たしか、リアムと言ったな。カルヴァンの補佐官だったか」
「は、はっ!覚えていいただいていたとは、光栄です!」
「堅苦しい男だな。カルヴァンとは正反対だ」
くす、と柔らかく笑む。陽光を溶かしたような、キラキラとした笑顔に、思わず眩しさを感じて目をそらしたくなる。――王族はただでさえ高貴で近寄りがたい存在だが、この青年は別格だ。まるで一流の芸術家が作り出した人形のように整った容貌と、息をのむほどの透明感。聖女然としたときのイリッツァもそうだが――今こうしている彼もまた、こうして間近に相対しているというのに全く『人』らしさを感じない、不思議な青年だった。
「聖女様は、私の申し出を『保留』にされたよ」
「――――え…?ほ…保留…?」
そんなことが可能なのか――と、思わずぽかん、と口を開く。隣のエルドは、苦虫をかみ殺したような顔で額を覆っていた。
「最初は、身分が違いすぎる、と断られた。確かに聖女様には、王族ですら分不相応と言われても仕方ないが、私は彼女を、聖女としてではなく、一人の女性として愛したいと思っている。貴女を聖女としてではなく、イリッツァ・オームとして見たいのだ、と言ったら、酷く困った顔をされて」
「あぁ…あの、少し眉を下げた表情でしょう…想像がつきます」
「あぁ。あのような表情もなさるのだな。ますます惚れた。――今度は、『聖女でないなら、私はナイードの市井で育った孤児だ。どちらにせよ身分が違う』と言われてしまったが、エルム様の教えを守り、人にやさしくできる彼女を、身分など関係なく人として愛しているのだ、と告げたら、さらに困った顔をされてしまって」
「――――あぁ…すごく、すごく想像がつきます…」
ふにゃ、と眉を下げ切った、少し泣きそうな、途方に暮れた顔。
よく、カルヴァンに無茶を言われた時に見せていた顔だ。たしかにあの顔は可愛い。――しれっと、正真正銘の"王子様"が『ますます惚れた』などという言葉を口にしてしまうのも、頷ける。
「次は、『すでに心を決めた女性がいらっしゃる男性の下に嫁ぐのは、聖職者として抵抗がある』と言われてしまった」
「あ――…まぁ、それは…確かに…」
王族に召し上げられるなど、女性からすればこれ以上ないほどの名誉だ。基本的に、よっぽど末端でもない限り、王家は王家の中でしか婚姻関係を結ばない。直系である本家と分家で、血が濃くなり過ぎないようにしながら、時折末端で外の血を入れて、その血脈を守ってきた。そもそも、王家の血を引いていない女が王家に召し上げられる可能性などほとんどない上に、直系との婚姻などありえない。それを「名誉なことだ」と受け止めるほど、イリッツァは市井の女性らしくはなかった。何せ、十五年、誰より敬虔なエルム信徒の一人として、修道女見習いをしていたのだ。一夫一婦制を当たり前とした世界しか馴染みがないだろう。
「…その、殿下。恐れながら申し上げますが――聖女様のおっしゃることは、正しいかと。殿下が、聖女様を仮に妃として出迎えられるとしても、それは『第二王太子妃』として、ですよね…?さすがにそれは、聖女様に対して不敬にもほどがあると、国民も黙っていないのでは――」
「承知している。だから、誓った。そのためにこの三日、すべての根回しに奔走したのだ」
「え――」
「聖女様が私の手を取ってくださるのなら、現第一王太子妃のカルラとは、離縁を申し渡す。聖女様を、第一王妃として迎え入れ、生涯、私は第二の妃を決して娶らぬ」
「――――――え――――えぇええええええ!!!?」
不敬――という言葉など銀河のかなたに吹っ飛ばして、リアムは心の底から驚愕の声を上げたのだった。




