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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第五章

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60、リアム・カダートの『受難』①

 沈黙が、痛い。

 重い、ではなく――痛い。

 生まれて初めて感じる感覚に、リアム・カダートはひり付く胃を持て余してじっと息を殺した。なぜか、呼吸の音すらこの部屋に響かせるのをためらうほどの――痛い、沈黙。

 部下が持ってきた書簡にかかれていた、眼玉が飛び出るような情報。すぐに、昼間から騒がしい表通りの理由はこれだと思い至った。

 こんな情報を、王都に来るまで散々「結婚してくれ」と迫りながらこちらが目を覆いたくなるくらい聖女といちゃついていた目の前の上官に、どう伝えるべきかぐるぐる頭を回しているうちに――あっさりと、人の言うことを聞かない上官は、カラカラと無情にも窓を開けて、その耳で通りの声を聴いてしまった。

(あぁ――…神よ、どうして俺ばっかりこういう目に…)

 心の中で聖印を切って嘆く。

 通りの騒ぎを聞いて――しばらく、呆けた顔で固まっていたカルヴァンは、しばらくしてカラカラ…と再び静かな音を立てて窓を閉めた。その瞬間、ふっ…と下界と切り離されたかのように、執務室に痛い沈黙が下りた。

 どれくらいこの痛みに耐えていただろう――永遠にも思えるその沈黙は、じっといつものように目を伏せて一点を見つめるようにしていたカルヴァンの声によって破られた。

「――リアム」

「はっ、はひっ…!」

 思わず声が裏返る。胃痛が限界に近かったせいかもしれない。

 しばらく伏せていた目をゆっくりとあげて、灰褐色の瞳がリアムの鼈甲を捕らえる。

「さっきの書簡は?」

「あ、は、いえ、その…もろもろの手続きの進捗報告と――その」

 言いながら、ついに胃痛が限界突破して、腹のあたりを抑えながら呻くように報告する。

「――おそらく、今、団長がお聞きになった情報と同じものが、ここに」

「そうか」

 しん――…と訪れる、再びの静寂。

 聖女との旅路では、ニヤリと片頬をゆがめて人を食ったような笑みを浮かべることが多かったその顔は、今は昔のようにその顔に何の感情も映していない。造形が無駄に整っている分、彼が目を伏せて考え事をしていると、威圧感と恐怖を周囲にまき散らす。

(ひぃっ…誰か、助けてっ…!神様…!)

 キリキリキリと深刻な痛みを発し始めた胃をもてあまし、心の中で神に救いを求めていると――

「リアム」

「はっ、はいっ!!」

「――お前も缶詰めで疲れただろう」

「――――へ?」

 ポツリ、と言われた言葉の意味が分からず、間抜けな顔で問い返す。童顔のせいで、間抜けさに拍車がかかっていた。

 カルヴァンは、真正面から、その顔に特に何の感情も乗せないままに、言葉をつづける。

「そうだな…たまには俺が書類仕事を変わってやろう」

「え…何ですかそれ、滅茶苦茶怖いんですけど」

「部下をいたわるのも団長の責務だ」

 ぞくりっ…

 もう世間は十分冬と呼ぶにふさわしい外気だというのに、冷たい汗が背中を滴り落ちていく。

(――怖い。怖い怖い怖い怖い!)

 絶対碌なことじゃない。リアムが知っているカルヴァンは、何の裏もなくそんな心優しいことを言い出すような男ではない。部下が徹夜で仕事を終えてソファにぶっ倒れていても、その目の前に悠然と次の書類を次々に積み上げて表情一つ変えずに自分はあっさり部屋を後にするくらいの冷酷さを持つ男だ。鬼神、という二つ名は実はこの部下への無慈悲さを指しているのでは、とこの三年間で何度考えたことか。

 ダラダラと冷や汗を流しながらカルヴァンを見ると、灰褐色の瞳を一瞬伏せて何かを考えた後――常人には追い付けぬ速さで何かの情報を処理した後、瞳をあげてもう一度口を開く。

 無表情のままで、淡々と。

「残りの仕事は俺が引き受けてやるから――そうだな。しばらく散歩でもしてこい」

(ひぃ――っ)

 あまりの恐怖に、悲鳴は喉に張り付いて音にならなかった。

「三日も缶詰めだったんだ。――あぁ、日没まで、自由にしていい」

「ひぇっ…」

 今度は、さすがに声に出た。

 カルヴァンは、再び口を開く。

 いつかの徹夜明けに、次の書類を積み重ねた時ように、淡々と。

「日没まで、王都を隅々まで散歩してこい。――――――絶対、日没前まで帰ってくるな」

「は――――…はい…わかりました……」

 泣きたい気持ちで呻くように返事をする。上官が言いたいことは、口にされずとも痛いほどによくわかった。わかりたくなかったが、優秀な補佐官の頭脳と相手の心の機微を読み取る能力が、それをさせてくれない。

「あの…その、団長の、満足する、その――報告を、持って来られない可能性も――」

 ひやりと温度を感じさせない瞳がリアムを見据える、びくっと反射的に背筋が伸びた。

 雪国の凍てつく空を宿すその瞳は、強烈なブリザードを室内に巻き起こしたかと思うくらい冷ややかだ。

 ――傍若無人――

 彼を表すその言葉を脳裏に思い出しながら、リアムは泣きたい気持ちで仕方なく敬礼した。

「休憩中に起きたことは、ちゃんと、戻ったら報告しますぅ…」

「あぁ。事実だけを拾って来い」

「ぅぅぅ…鬼…」

 どう考えても、今この時点で、どの情報が事実か噂か嘘か憶測か、そんなものの判断などつくはずがない。街中がいいように噂をし、表通りではごった返したように様々な情報や憶測が飛び交っている。

 それを――『事実』を調べて、報告しろと。

 『事実』以外の報告は許さないと。

 それをたったの、日没までの数刻で叶えて来いと――

 この、傍若無人な上官は、当たり前のように、威圧感たっぷりの視線で要求するのだ。

(鬼…鬼だ…鬼がいる…)

 まだ、書類仕事で死にそうになっているときの方がよかった。

 リアムは、心で涙を流しながら、重い足取りで執務室を後にしたのだった。



 上官ほどではないが、一般人からすれば十分すぎるほどに優秀な頭を回転させて、リアムは執務室を後にした後すぐに考える。

(事実――と言われたところで、情報の真偽を確かめる術は俺にはない。どれだけ王都を駆けまわってたくさんの情報を集めたとしても、判断する軸がない以上徒労に終わる)

 となれば、判断がつく人間に聞くのが一番速いが――

「…本人に聞く、のはさすがに…無理か…」

 考えてから、絶望的な想いにとらわれてゆるく頭を振る。

 つい――つい、ここ数日、ずっと身近にいたからか、『イリッツァさん』と気安く話しかけて本人に問いかける妄想をしてしまった。

 王都に着いて、この国家中が沸いている現実を直視した。雲上人であるはずの王族すら、揃って頭を垂れて、正式な礼を取っているのを見た。そして――それを見て、堂々と、悠然と、完璧な微笑みをたたえた少女を、見た。

 その瞬間、思い知ったはずだった。彼女と自分たちとの間に横たわる、明確な境界線を。

 手を触れることはおろか、声をかけることも、その尊顔を臨むことすら憚られるほどの、本当の意味での雲上人――それが、聖女イリッツァという存在なのだ。

(っていうか、あの人がおかしいんだ…つい、つられて、聖女様だって忘れそうになる)

 この国では珍しい、灰がかった藍色の髪をした上官を思い浮かべて苦虫をかみ殺す。三日前だって、王族すら頭を垂れている場において、馬車からエスコートするように取った手を離すことなく堂々と握ったまま、その隣に控えていた。あの神々しさを前に、どうして頭を垂れずにいられるのか、いっそ不思議ですらある。

「別人、みたいだったな…」

 あの日のイリッツァを思い出し、つぶやく。我知らず、寂しい声音が漏れた。

 初めて彼女をナイードで見た日から、レーム領を旅立つその日まで。「リアムさん」と笑顔で話しかけてくれた少女は、太陽の下が似合う可愛らしい十五歳の少女だった。領民に愛されるのも頷けるまぶしい笑顔を振りまき、旧知の仲のカルヴァンが死亡したと思って泣き縋り、急な魔物の襲来で戸惑う騎士団を鼓舞し、芸術のような剣技を披露した、不思議な少女。

 彼女はどこまでも不思議な存在であったのは確かだが――それでも、確かに、『人』らしくはあったのだ。

 特に、カルヴァンと一緒の時は、十五歳の年相応の顔を見せていた。二人きりで話していることが多かったから、内容までは聞き取れないことが多かったけれど――それでも、気さくに声を上げて笑ったり、呆れたように目を眇めて長身を見上げたり、冗談のように不意に距離を詰めて甘く囁かれては顔を真っ赤にして恥じらったり。

 雲上人たる聖女でありながら、市井の中で育った十五年があるせいか、とても親しみやすく、ほほえましい少女だった。

 それが――王城に着いた瞬間。

 人が変わったように、誰もが認める『聖女』になった。

 ふ、と口の端に浮かべた完璧な微笑。王族にも傅かぬ、凛とした声音と態度は、とても十五歳には思えなかった。

「…第一…もう、神殿にいらっしゃるのに…」

 つぶやいて現実を認識し――少しだけ、上官の気持ちを慮る。

 一度、神殿に入ったが最後、彼女は外界から遮断される。今後、彼女が国民の前に顔を出すのは、祭事で、決して誰の手も届かぬところで儀式を行うか、王城のバルコニーあたりから、ありがたいお言葉を国民に授けるときくらいだ。当然、民衆は遠くからその存在を認め、全員が傅いてそのありがたいお姿を拝み、お声を拝聴する。声をかけることも、触れることも叶わない。王城の奥に幽閉され、お世話係と王族、枢機卿団、許された護衛くらいしか、彼女はもう誰かと人生で言葉を交わすことはないだろう。それも、聖女に自分から話しかけるなどと言う不敬を働くわけがない彼らと、小粋な会話など楽しめない。

 あの、太陽の下で笑っているのが似合った可愛らしい十五歳の少女は――二度と、あんな表情を見せることはない。

 日の届かない城の奥で、閉じ込められるようにして、国家の繁栄と安寧のために、一生を捧げる。

 それが聖女という存在だ、とわかってはいるが――どうしても、初めて会った時の「リアムさん」と笑顔で話しかけてくれた少女の柔らかな笑みが忘れられない。

「…遠征報告、なら…せめて、声は、聴けるかな…」

 玉座の間で、魔物討伐遠征の報告をするとき――それだけが、騎士が彼女と見える唯一の機会だ。騎士団長補佐をしているリアムであれば、その場に同席することも叶う。

 だがそれも――報告の間中、ずっと頭を垂れているのが常だ。許可を出さない限り、顔を上げることは許されない。仮に許されたとしても、床についた膝を離して立ち上がることなど、もってのほか。玉座から見下ろされるのを、跪いた体勢から眺めるくらいしかできない。

 敬虔な信徒であるリアムでさえ、少し心が痛むのだ。旧知の仲らしいカルヴァンは、その比ではあるまい。

 なにせ、十五年、一度も心を溶かさなかったカルヴァンが、たった数日でその心を開いた少女だ。その存在は、きっと彼の中でとてつもなく大きく――

「ん?リアム?お前、どこに行く?もう終わったのか」

「えっ?あっ、ダイン副団長!」

 思考の途中で話しかけられ、慌てて顔を上げると、そこには壮年の副騎士団長ダインがいた。

 短く刈られた茶髪は白髪が混じっており、顔にはいくつもの傷跡が走っている。誰が見ても歴戦の猛者、という風貌の彼は、今の騎士団の中で最も在籍年数が長い騎士だった。

「あの膨大な事務処理、全部終えたのか?さすが――」

「いえ、あの、ちょっと休憩――おつかい?を、頼まれまして…」

「おつかい?…団長にか?」

「はい…」

 父ほどの年齢のダインは、気の毒そうな顔でリアムに同情する。年若いながら必死にカルヴァンの補佐官を務め、なんだかんだ手綱を取っている彼を、息子のように思っているのだろう。

「そうだ、副団長。今日、騎士の誰かが王城に行く用事とかないですか?何でもいいんですけど」

「なんだ急に…また、団長の無茶ぶりか?お前も大変だな…」

 心底同情した声と表情で言われ、乾いた笑いでごまかす。そう思うなら、ぜひとも今すぐ変わってほしい。

「そうだな…別に、今日ってわけじゃないが――近衛兵の詰め所に、物資調達依頼の書類を届けたいとは思ってた」

「えっ、本当ですか!?」

「あぁ。何せ、今回の件で、人員不足が顕著になったうえに、相手は未知の存在だ。次のお抱え商隊がやってくる時期まで手をこまねいておくわけにもいかんだろう。万が一をしのげる程度には、当座の物資をそろえておきたくてな。どうせ、王城に外敵が侵入するような事態はほぼないんだ。あいつらが持っていても宝の持ち腐れの物資を、いくつかこっちに回せと言いに行く」

「あー、なるほど。確かに。――あ、じゃあ、それ、俺がささっと書類作って行ってきますよ!」

「お、悪いな。助かる」

 軽く手をあげて別れた後、リアムはほっと息を吐く。

 情報の真偽が見極められない以上――考えられる限り一番真実に近いものに話を聞きに行くしかないだろう。

 事件が起きたのは王城のはずだ。王城の中の誰かに話を聞く。噂好きの召使などではなく、王族付き近衛兵から話を聞けるチャンスがあるというのは、まさに渡りに船と言えた。

 これで、帰ってきた後、カルヴァンのブリザードにさらされる心配はなさそうだ。

 リアムはそそくさと書類をまとめるため、一度自室に戻っていった。


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