59、『漆黒』のお世話係②
その日は、いつも通りの一日のはずだった。
白く塗りつぶされた部屋は、清廉さを象徴するような作りのはずなのに、毎日過ごしていると圧迫感と閉塞感を感じるから不思議だ。閉塞感を感じるのは、窓がないせいかもしれない。
部屋の中にいるのは、お世話係として任命された黒髪の中性的な美女だけ。今日も修道女の白装束を身にまとう彼女は、無駄口をたたくこともなく、静かに傍に控えていた。
聖女の私室に、男性の入室は厳禁だ。俗世と切り離された聖職者――それも枢機卿レベルの高位聖職者――か、王族くらいしか顔を出すことは出来ない。過去その慣習を破ったのは、護衛を務める聖女の息子という特別な存在だけ。基本的に、護衛であってもこの部屋に一つしかない入口の外に立って任に就くのが普通だ。彼らと会話をするのは基本的にリアナだけで、イリッツァはこの部屋から出ることすら許されないという徹底ぶり。聖女を俗世と切り離し、可能な限りの危険から遠ざけようとするその慣習は、この国以外の人間には異様にしか映らないだろう。
十五年ぶりに訪れた聖女のための私室で、最初の仕事――騎士団の遠征報告の立ち合いをするまでの数日間。特にすることもないが、聖女の仮面を張り付けていなければいけない窮屈さには嫌気がさして、心の中で何度カルヴァンに八つ当たりしたかはわからない。
(おっせーな、早くしろよ)
もう、この国に来てから三日になる。一日か二日、と言っていたのに、今日の時点でまだ、いつくらいに来そうという連絡ひとつないから、おそらくまだまだかかるのだろう。
近いうちに聖女を国民にお披露目する祭りを開くとかいう怖い話を小耳にはさんだが、いったん聞かなかったことにする。どちらにせよ、祭りなんか即日で開けるものではない。準備にはそれなりに時間がかかるはずだ。
その間に、カルヴァンとの茶番を行って――うまくいけば、この部屋には用事がない限り入ることはなくなる。うまくいかなければ、今の生活を『日常』として、そのままここが終の住処となるのか――あの過保護な親友が有言実行して無理矢理国外にでも攫われてしまうのかはわからない。
「リアナさん、今何時くらいですか?」
「今ですか?…まだお昼ご飯にはずいぶん時間がありますよ」
懐の懐中時計をちらりと見て、黒髪の中性的な美女が答える。この部屋には窓がないから、時を知るにはこうして誰かに聞くしかない。夜が来たことはリアナが退室することで、朝が来たことはリアナが迎えに来ることで、やっとその訪れを知るくらいだ。
(――そりゃ、頭おかしくなるよな…)
もし何事もなければ、この生活が『日常』になる。
今がいつか、朝か、昼か、夜かもわからない。ただ、この部屋ではない『外』とつながっている自分以外の『誰か』を通してしか、世界を知る術はない。この、閉ざされた檻の中で、警備のために厳選された人間とだけしか顔を合わせず、言葉を交わさず、ただ、無為に呼吸をし、食事をし、寝て、国民のために時々祭事で見世物になりながら、国家に張る結界を維持し続ける毎日。
おまけに、数少ない顔を合わせる人間たちも、こちらから話しかけなければ基本的に声を発することすらない。それもそのはず――聖女は、神の化身だ。人ならざる者に、人間ごとき矮小な存在が、緊急事態でもないのに口を開くなどとんでもない――というのが、信者の言。当然、小粋な会話など望むべくもなかった。
だから、別に、特に知りたいわけでもないが、時折不意にこうして時を尋ねてしまう。そのたび、リアナは端的に答えを返し、再びそれっきり黙ってしまう。間違いなく職務に忠実でエルム教の教えをしっかりと守るこの姿勢は聖職者の鑑であり、聖女のお世話係として任命されるのも頷けると言ってしまえばそうだが、十五年も俗世の『普通』にまみれて生きたイリッツァからすれば、もう少し緩いお世話係だったらよかった、と思ってしまっても仕方ないだろう。いっそ、あの口うるさかった老婆リアナがお世話係になってくれた方が、まだ気はまぎれたのではないか――と思ってしまうほど、この静寂は耳に痛い。
孤独と向き合い、孤独と生きるのが聖職者――とはいえ、母が心を凍てつかせて何事にも眉ひとつ動かさない人形のようになってしまったのも、幼少期から彼女が結婚するその日まで、十年以上毎日こんな生活を続けていたからだと言われれば、納得するしかないとイリッツァは考えていた。
(カルヴァンは――ここから俺を、出したいのか)
彼は、ここでの生活を詳しく知っているわけではないだろうが――あの過保護な男がもし実態を知ってしまったら、もっと強硬策を取りそうだ――それでも、ここで過ごす日常が孤独の闇にとらわれる生活と言うことはわかっているのだろう。
こんなにも真っ白で、清廉な檻。見た目には純白のこの室内は、空虚な闇で満たされているかのようだった。
「…今日はどんなお茶ですか?」
十五年前ならいざ知らず――さすがに、今すぐにこの生活に順応できるほど心は凍てついていない。それなりに誰かと会話をしたいと思うし、気を紛らわして生きていたい。仕方なく、イリッツァはリアナに自分から声をかける。しかし、特に話題がないので――一番多いのは、こうして茶をせがむことくらいだった。
「そうですね。今日は朝から少し眠そうなお顔をされているようですので、目覚ましの効果がある薬草を多めに煎じましょう」
「…それは助かります」
眠そうにしているのは、あまりにも暇ですることがなさすぎるだけだ、とは言えず、好意を受け取る。
あれから毎日、リアナは茶を入れてくれていた。体調に合わせてブレンドを変えると言っていた通り、毎回何やら草の配合を変えていて、結果、本当に味が変わるから驚きだ。どれも癖が強いのは変わらないが、飲めないほどではないし、良薬口に苦しです、と決まり文句を笑顔で言われてしまっては飲まざるを得ない。
「今日も、解毒をなさいますか」
「ぅ…はい。すみません…」
「いえ。貴女の信頼する司祭様の教えですから。――用心に越したことがないのも事実です」
少しだけ不服そうに言われて、イリッツァはこっそりと苦い顔をする。毎日毎日、さすがに申し訳なくなってくる。
「――私が」
「え?」
「こう見えても、私も聖職者の端くれです。私が、解毒の魔法をかけましょうか」
珍しく相手から口を開かれたので、きょとん、と思わず見返すと、濡れ羽色の髪をした美女は、切れ長の瞳を少し伏せて、痛まし気に眉を寄せた。
「毎度、聖女様の奇跡の御業を、このようなことで使わせるのは、心より忍びなく」
「あぁ――――…なるほど」
解毒の魔法は、かなり低位の光魔法だ。ナイードにいたころの先輩修道女見習いだったラナでさえ、解毒の魔法は履修している。
そんな、超低位魔法を、光魔法においては比類ないレベルに達しているはずの聖女が使役することが、信者としては心苦しいのだろう。聖女が使う光魔法は、それがどんなに低位であったとしても、神が行使するに等しい奇跡の御業。効果が同じなら、下々の者が請け負いたい、という信者の心情をイリッツァは察した。
「では、お願いします」
「はい」
言葉少なくうなずくと、リアナはいつものようにカップに液体を注ぐ。今日の液体は、茶色と緑の中間のような、何とも言い難い色をしていた。ふわり、といつものように癖のある香りが鼻をつく。
そのまま、すっとカップに手をかざすと、ぱぁっと光がその場ではじけた。
「――どうぞ」
「ありがとうございます。いただきます」
礼を言って受け取る。ちびり、と口をつけ――――当たり前だが、何も起こらない。
(――まぁ、そりゃそうか)
毒物をこんなところに仕込むことなどできるはずがない。目の前のリアナ自身が間者だというなら話は別だが、話に聞く限り、教会関係者の中では現状最も権威ある存在であるアランですら彼女を良く知っているようで、周囲の人間も彼女を不審がったりはしていない。ぽつぽつとこの三日間、キャッチボールになりにくい会話を続けた結果、こう見えてずいぶん教会での生活は長いらしく、十年――下手したらそれ以上の年月を過ごしているらしいことが分かった。
そうすると気になるのが彼女の年齢だが――昨日、さすがに気になってしまって直接年齢を聞いたら、「貴女からは、いくつに見えるのですか?」と聞かれてしまい、素直に十代後半~二十代前半くらいに見える、と答えたら、にこり、と笑って「では、そのように」と答えにならない答えをもらって話を打ち切られてしまった。女性に年齢を聞くのはタブーだった…と深く反省した。あの笑顔は、明確に「それ以上聞くな」という意思表示だ。かつての母親と同様、年齢不詳の年増女の可能性が高まっただけでその会話は一方的に打ち切られた。
だからこそ、彼女が間者などと言うことはありえない。いくら慎重な間者であっても――さすがに、十年以上の歳月をかけて敵の組織に入り込むのは無理がある。しかも、一度も不審な素振りを見せないどころか、最も選抜基準が厳しいだろう聖女のお世話役という大役に選ばれるほどの信頼と実績だ。
(…やっぱり、過保護すぎるんだって…)
脳裏に幼馴染の憮然とした表情を思い描いて、心の中で渋面を作ってから、もう一口カップに口をつける。
「今日のお茶は飲みやすいです」
ふわり、とお茶の温かさで和んだ笑顔で礼を言うと、漆黒の美女は微かに目だけを伏せてその礼を受け取る。
「そうですか。それはよかったです」
相変わらずきっかり一往復しかしない言葉のキャッチボールにも、もはや慣れてきた。そう思いながら、こくり、と口を付けて昨日よりも比較的飲みやすい手の中の三口目を飲んだ時だった。
この国の第一王子が急にやって来て、酷く緊張した面持ちで薄青の花束を渡し、目の前に跪いたのは。




