58、『漆黒』のお世話係①
時は遡り、数日前――…
「お疲れ様でした。これで儀式はすべて終了です」
(つっ…かれたぁーーーーーー!)
目の前の男からその言葉を聞いた瞬間、あふれ出そうになった心の底からの本音をギリギリ飲み込んで、こっそりため息をつくに収める。
枢機卿としての衣装に身を包む目の前の男は、王立教会の司祭アラン・フィード。今年四十五歳になるはずの彼は、平均年齢六十以上という枢機卿団の中で異例の若さで所属しているだけではなく、まさか、今はその代表を務めているらしい。
(昔から優秀な奴だったけど――さすが、天才は違うな…)
到着初日に詰め込まれるようにして行われた、膨大な儀式の滞りない進行を思い出し、心の中でイリッツァはそっとつぶやいた。
幼いころから非凡な光魔法の才能を発揮したアランは、ただでさえ優秀な人材しかいない王立教会で『神童』と呼ばれていた。十七で修道士になった途端、光の速さで出世して、リツィードの記憶にある中で最初に彼に出会った時、彼はまだ二十の若さで副司祭を務めていた。もう一人の副司祭が、フィリアの身の回りの世話を一途に引き受けていた初老のリアナ・カロッサだったわけだから、その優秀さは推して知るべし、だ。ちなみに、リツィードが死亡する年に、ちょうど司祭任用を受けていた気がする。つまり、弱冠三十歳という若さで、王立教会の司祭の座に就いたことになる。
昔から冷静沈着な男で、あまり表情を変えることはない男だったが、子供好きなのか、教会にやってくる子供には比較的甘かった。若くして大人たちに囲まれていた神童の、心安らぐ時だったのかもしれない。いつもはむっつりしているアランが、幼いリツィードが訪ねていくときだけはふわりと優しい表情のどこにでもいる青年になったのを記憶の端で覚えている。
そして――どうやら、四十五歳の彼にとっては、十五歳の少女は『子供』に分類されるらしい。ふわり、と昔見た懐かしい優しい笑みがその顔に浮かんだ。
(あ――懐かしい)
「大変だったでしょう。――部屋に、夕食を用意していますので、今日はゆっくりとお休みになってください」
儀式用の仰々しい帽子を頭の上から外しながら告げられ、こくり、とうなずく。
「今頃、貴女のお部屋には世話係の者が着替えやその他の細々ものを揃えて待っているはずです」
「お世話係――…」
苦い記憶がよみがえり、思わず口の中で反芻してしまう。
お世話係と言えば、リアナ。リアナと言えばお世話係。
前世の記憶の中で、何度となく聞いた、キンキンと頭に響く初老女性のヒステリックな叫び声がリアルに蘇って思わず渋面を作りそうになる。家のことを細々と世話してくれた者だし、聖女とは、聖職者とは、とその矜持をこんこんと耳に胼胝が出来るくらいまで説いてくれた女でもあるので、一応感謝の念は抱いているものの、どうにも昔から苦手意識はぬぐえなかった。
決定的に苦手だ、と思ったのは――あぁ、そうだ、きっと、あの日。
生まれて初めて、リツィードが己の母のことを、本人に向かって「母さん」と呼びかけたあの日だ。
カルヴァンのことを『悪童』と言って蔑む発言を繰り返したあの日に、この女とは金輪際何があっても仲良くなれない、と心に誓った気がする。
「はい。貴女の身の回りのことを担当する者です。しばらく体調を崩して教会の仕事からは身を引いていたのですが――貴女の噂を聞いて、急に元気になりまして。もう若くないのだから、と周囲が止めるのも気にせず、『私がお仕えするのです!』とそれはそれはやる気を出して――」
「あ、あの、その方のお名前は――」
もしかして、と思いながら尋ねる。
アランは、にっこりと子供好きのする顔で答えた。
「はい。――リアナ、という経験豊富な女性ですよ」
「―――――――――はい…ありがとうございます………」
泣きたい気持ちで、何とか聖女としての体面を保つ言葉を絞り出す。――そんな気はしていた。していたとも。
心の中で涙を流しながら、辛い現実を何とか受け入れる。
体調を崩していた――とアランが濁した部分を、イリッツァは――リツィードは、理由も、症状も、正確に知っていた。
彼女が若いころから心酔し切ってお仕えした聖女・フィリアがこの世を去って――彼女は、そのまま、心を病んだ。何度も後を追いかねない勢いの行為を繰り返すので、副司祭という地位だった彼女はその職を解かれ、自宅療養扱いになった。彼女の生家であったカロッサ家は敬虔な信徒が多い貴族の家系だったから、幼少期に家を出て聖職者になった彼女を再び受け入れるということ自体に、経済的にも心情的にもさほど問題はなかった。苦手意識はあるとはいえ長い付き合いだったので、さすがに放っておけなくて、しばらくはカロッサ家に何度も見舞いに訪れ――相手が眠っている間に、こっそりと光魔法で心の闇を晴らす魔法をかけてやったのを覚えている。聖人の光魔法の効果は絶大だ。おかげで、一番最悪の状況に陥ることはなかっただろうが――その後、リツィードは死亡してしまったので、彼女がどうなったかまでは知らなかった。
(――まぁでも、生きていたんなら、良かった)
ほ、と心で安堵の息を吐く。五歳の頃にすでに四十の声を聴いていた気がする。あれから、もう二十五年。一応女性だったので、年齢を聞いたことなどなかったが、少なく見積もっても恐らく六十五は確実に超えているはずだ。もう本当にいい歳になっているだろうが、再び『聖女のお世話係』という名誉ある役割を与えられるとあれば、心の闇も完全に晴れたのではないだろうか。――以前以上に執着されて心酔されてはたまったものではないが。
アランに導かれるようにして、神殿を後にし、聖女のために設えられた特別な部屋に入る。目隠ししてでも来られるほど、昔と全く変わらない道のり。扉を開けて中に入ると、そこもまた、十五年前と何も変わらない部屋が広がっていた。
(――――母さんがいないこの部屋に入るのは、初めてだな)
懐かしい母の気配を一瞬、探しそうになり、小さく頭を振る。今更――記憶だけなら三十路間近の癖に、かつての母の面影を追うなど、どうかしている。
目を閉じて一瞬よぎった寂寥の幻を振り払い、再び瞳を開けると――中には、一人の女性が立っていた。
「――――え…?」
肩で切りそろえられた、まっすぐな黒い髪。この国ではめったに見ない、烏の濡れ羽色をしたそれと揃えたかのような切れ長の黒い双眸。色は白く、顔立ちは整っているものの、どこか中性的な雰囲気を醸し出している。修道女の装束を着ていなかったら、女性だとはわからなかったかもしれない。
「リアナ。聖女様をお連れしました」
「はい。ありがとうございます」
アランに話しかけられ、ゆったりとお辞儀をする女性を見て――一秒間に何十回も目を瞬いた。
「それでは、ここからはリアナにお任せします。――聖女様、私はこれで」
「え、あ、は、はい…」
脳の処理速度が追い付いていかないままに、アランはさっさと去っていってしまった。聖職者たる彼に限って間違いなど起きようはずもないが、聖女と同じ部屋に男が長時間いるのが忌避されるのは、今も昔も変わらないようだ。
「――…えっと…」
「初めまして。リアナ、と申します。以後、お見知りおきを――聖女様」
「は…はぁ…イリッツァ・オーム、です…」
脳の処理が追いつききらず、思わず聖女の仮面をかぶり損ねる。
目の前のうら若い女性をじっと凝視する。アランは『若くないんだから』と言っていたが、どう控えめに見ても若い。二十代前半――十代だと言われても信じるだろう。
(――え、何、こう見えて実は三十超えてるとか、母さんみたいなとんでも人種??)
フィリアは享年三十五歳だった。しかし、そのころでさえ、彼女は十代だと言われても信じる者がいたのではないだろうか、と思うくらい年齢不詳だった。リツィードの記憶の中にあるフィリアは、物心ついたころから死ぬその瞬間まで、老いというものを一切感じさせない不思議な女だった。人の理を超越した存在だとか言われていたのも頷ける。
「――私が、何か?」
ふ…と目の前の女が口元に微笑を刻む。中性的な外見と同様、声もやや掠れた中性的な声音。顔の造詣は整っていたが、聖職者のような透明感というよりも、どこか闇を感じさせる不思議な微笑みをたたえていた。
「あ…いえ、えっと…何でも、ありません」
イリッツァは戸惑いながら何とか言葉を絞り出す。
「何でも――という様子ではございませんが。気になることがあるなら、どうぞ、ご遠慮なくお申し付けください」
「あ、いや…本当に――…」
どのように説明していいかわからず困惑する。
リアナ、という名前自体はこの国では珍しくない女性の名だ。たまたま同じ名前の女性が、世話係になった。それだけなのだろう。自分の中で、お世話係といえば、というステレオタイプがあの女性だったせいで、勝手に白髪交じりの老女を思い描いてしまっていただけだ。
「もしかして――私の外見が、珍しいですか?」
「え?――あぁ、まぁ、確かに、はい」
ここまで混じり気の無い漆黒の髪と瞳を持つ人間は、この国では珍しい。――十中八九、他国からの移民の血が混じっているのだろう。
「リアナ、という名前は、この国っぽいのに…と、珍しくて」
「遠い先祖のどこかに、移民の血が混じっていたようです。一族で、私だけが先祖返りのような見た目になってしまって――」
「あぁ…なるほど…」
納得しながら、控えめに相手を観察する。どこか昏い印象を受けたのは、この黒髪と黒目が珍しかったからだろうか。それとも――この外見で、苦労をした過去があるからだろうか。
クルサールは、正真正銘宗教国家だ。改宗さえすれば、移民の受け入れにも制限をかけていない。ただ、大陸の中でもエルム教がよく信仰されている国とそうでない国が分かれていて、よく移民が来る国とそうでない国が分かれている。例えば、友好国のファムーラ共和国は、エルム教信者も多く、ファムーラからの移民は多い。
だが黒髪黒目のこの容貌は――敵対国のイラグエナム帝国に良く生まれる容貌だ。
イラグエナム帝国は、その昔、初代王クルサールが倒したとされる暴君の血縁が落ち延び、打倒クルサール王国を掲げて建国されたとされる軍国主義国家だ。未だに国政でエルム教の信仰を禁じているほどの徹底ぶりである。
エルム教は、異教徒に厳しい宗教だ。神の名のもとに暴力も侵略戦争も辞さない過激な宗教でもある。軍国主義のイラグエナム帝国と渡り合ってもう何百年――何度も戦争を繰り返して停戦協定を結び、再び破られて戦争が始まっては停戦をして――最後の戦争は、英雄バルド・ガエルが侵略してきた帝国軍を打ち破り、歴史的勝利を収めた戦いだ。その時結ばれた停戦協定のおかげで、もう二十年近く直接的な武力衝突はないが、両国は未だに相容れることはない。差別意識も根強く残っているだろう。
「この外見のせいで、こちらの言い分など聞く間もなく、異教徒め、と何度も昔は石を投げられたものです」
「それは…お辛かったでしょう…」
「いえ。今はこうして、教会で働かせていただいていますから」
にこり、と笑う瞳はやはりどこか陰を宿している。平和で明るい世界しか知らない聖職者には決して理解の出来ない、昏い闇。
その闇にはどこか見覚えがあって、チクリと胸が痛んだ。それを見て、黒髪のリアナはふわりとほほ笑む。
「さぁ、イリッツァ様。お茶をお入れしました。どうぞ、こちらへ」
「ありがとうございます」
促されるまま簡易な設えのテーブルに座らされ、ティーポッドから茶を注がれる。
「――え、何ですか、これ…」
「ふふ…私の家に伝わる秘伝のブレンド茶です。この教会でもふるまっているんですが、なかなか好評ですよ」
「…あ…そう、なんですか」
言いながら、ティーポッドから注がれたカップの液体に目を落とす。色は緑に近く、漂ってくるのは嗅いだことのない癖が強めの香り。これを当たり前に飲み干す連中がちょっと信じられない。
「――――…」
薄青の瞳でじっとしばらくそれを見て――ふ、と手をかざす。ぱぁっと一瞬光が飛び散った。
「イリッツァ様…?」
「あぁ、いえ、気を悪くされたら申し訳ありません。養父に、幼いころから教えられていまして」
つくろうように笑顔を作って言い訳をする。
「聖女は、王国の宝であるがゆえに、常に外敵から命を狙われる存在――暗殺者と、口に入れる物には特に気を付けろ、と」
「――…一介の司祭が、そのようなことを?」
「はい。――先代の聖女・フィリア様は、何度もお命を狙われていました。彼は、そのフィリア様と個人的な交流のあった司祭でしたので、そうした話もよく聞いていたのでしょう」
事実かどうかは知らないが、そういう話を聞いている可能性を否定は出来まい。イリッツァは真実に嘘を混ぜながら笑った。
「だから、食事もすべて、こうして解毒の魔法をかけてから口にしろ、と旅立つ前に口酸っぱく言われてきました」
「なるほど…用心深い司祭様ですね。王城の神殿に入れるほどの人間が、そのようなことを企てる、と?」
ひやり、とリアナの声に冷たいものが混じったような気がして、慌ててイリッツァは否定する。
「あ、すみません、貴女や、ここにいる皆さんがそういうことをすると言っているわけではなく――その、あくまで、用心するに越したことはない、と――…その、過保護な、うるさい人が、言っていまして…」
言葉の最後の方は、眉間にしわを寄せた灰褐色の瞳をした色男の顔が浮かんで苦々しく小さな声音になっていく。
(いや、リアナさんの言う通りだよ…間違いなくこの王国で一番賊が紛れ込めない最高水準の警備体制だぞ、ここは…)
十五年前から、何度も護衛で付き添ったからこそわかる。結局――この神殿で、誰かに襲われることなど一度もなかった。そういう観点では、ずっとそんな厳重警備の場所に行くときでさえ、王国最強の剣士だったリツィードに護衛をさせていたバルドは、妻を心配しすぎと言われても過言ではなかっただろう。どこかの過保護な親友と、本当に、どこまでも似ている師弟だ。
「では…いただきます」
小さくつぶやくように言って、カップに口をつける。
「――――――…」
「どうでしょう」
「ん…いや…癖が強い…ですね」
「まずいですか?」
「あ、いや、飲めないというわけではないですが…」
やんわりと、あまりおいしくないということを伝えるも、リアナはにこりと笑った。
「薬草茶ですから。良薬口に苦し、ですよ」
「え…薬なんですか、これ…」
「ふふ。今日は疲労を取る成分の薬草を多めに入れました。長旅でお疲れでしょうから」
「あ…なるほど。ありがとうございます」
「明日からは、イリッツァ様の体調に合わせて、配合します。――生家は薬師の家系だったので、薬草には詳しいのですよ」
「へぇ…」
薬師に知り合いはほとんどいない。――前世も今生も、自分自身が万能薬に等しい魔法を持っているので、世話になることもなければ縁が出来ることもなかった。そもそもこの国には薬師自体が少ない。病だろうが怪我だろうが、基本的には教会に赴けば光魔法使いが治癒をしてくれる。例外があるならば、聖職者が少ない街で、応急処置や、日々の健康のために、薬師の調合する薬が出回っている程度だろう。
「それでは、今日はお疲れでしょうから、私はこれで下がります。よろしいでしょうか」
「あ、はい。ありがとうございました」
「それでは、お休みなさいませ」
一礼して、リアナは足音ひとつ立てずにふっと部屋から消えるように去っていった。
「――――…不思議な、人だな」
つぶやいてから、手の中の薬草茶を眺める。あまり好ましいとは思えない味だが、わざわざ長旅の聖女を思って疲労回復のスペシャルブレンドを作ってくれただろうに、好意を無碍にするのは申し訳なさが先に立つ。ちびちびと、ゆっくりと口を付けた。
「――リアナは、どうしてるかな…」
頭に浮かぶのは、昔、自分と母の世話を焼いてくれたヒステリックな初老女性。
生きているのかどうかだけでも知りたいと思うが――尋ねようとしても、どう尋ねていいかわからない。「カロッサ家のリアナはどうしているか」と聞けば、十中八九勘違いや別人の情報を与えられることはないだろうが――なぜお前が知っているのか、と聞かれた時にうまい返しが出来ない。彼女が臥せってこの教会を後にしたのは、まだリツィードが存命中だった。――イリッツァは、生まれてもいない。
お得意のダニエルがフィリアから手紙で聞いて――という言い訳も、あまりに多用すると怪しまれそうだ。そもそも、ダニエルがあのリアナの話を聞いていたとして、その生死や今の暮らしぶりを知りたいと思う理由がない。仮に、フィリアの世話係のその後が知りたかったというだけなら、普通に王都に教会の用事で訪れた時に調べればいいだけの話だ。彼自身は、フィリアの死後も何度だって王都に来ているのだから。――もちろん、書簡越しでしか存在を知らないはずのイリッツァには、もっと知りたいと思う理由がない。
「――…ここ出たら、カルヴァンに聞くか」
彼に調べてもらう分には、問題ないだろう。騎士団長は大貴族同等の権利を持っているから、調べ物をするにも、調べられる範囲が広い。
「…にしても…ほんと、窓の一つもないのは――檻みたいだな、ここ。昔から思ってたけど」
ぐるり、と周囲を見回して呆れたようにため息をつく。母の言葉が耳の奥で仄かによみがえる。
嘆息してから、ぐいっと一息にカップの茶を飲み干し、丁寧に整えられた綺麗な寝台に近寄る。
「――まぁ。本物の檻よりはだいぶ快適だけど」
ふっ、と自嘲して口に出してから、ぼすっと行儀悪く寝台に飛び込む。
十五年前――最期の数日を過ごした、あの鉄格子の独房での暮らしは、なかなかに強烈だった。手足を鎖でつながれ、体中を拘束され、酷い拷問を受けた。
寝台があって、しかも布団まである。横になって眠れる。――なんと快適な"檻"だろうか。
「…まぁいいや。儀式は終わったし、あとはカルヴァンの報告を待つだけだろ。――さっさと寝よ」
ふぁ、とあくびを漏らしてから、もぞもぞと布団に入りこむ。
「おやすみ、ヴィー」
ここ数日、毎日当たり前に言っていた昔と変わらない挨拶を無意識に口の中でつぶやいて、イリッツァはその薄青の瞳を閉じて眠りの世界に旅立った。




