57、『真逆』の王子様
馬車の出迎えの場から抜け出すと、さっとどこに控えていたのか、蒼服の兵士が後を追うように付き従う。服にそろえたような羽飾りのついた帽子を見なくてもわかる。――王族付き近衛兵の装束だ。
「彼らは、貴女の護衛の任に就く者たちです。基本的に、聖女様に不必要に近づいたり、お手を触れることなどはありませんが、有事の際はお許しください」
「あぁ…はい。かしこまりました」
兵士たちの顔を見ると、一番若い者でも、ギリギリ「青年」と言って許されるかどうか――という相貌だ。おそらく、近衛兵の中でも歴が長く優秀な人材だけを選りすぐったのであろうことくらい、容易に想像がついた。
「未婚の女性に、ファーストネームで話しかけるのは本来無礼なことですが――貴女は、聖女様。特別に、イリッツァ様、とお呼びすることをお許しいただいてもよろしいでしょうか」
「あ…はい。どうぞ…ご自由に」
馬鹿丁寧な許可を取られ、戸惑いながら答える。
市井で過ごす平民の間ではともかく――王族と貴族階級の中では、未婚の女性を名前で呼ぶことは確かに無礼なことだ。近衛兵は、ほとんどが貴族の出身で、跡継ぎになれない次男坊以下の男性だ。おそらく、同じように女性を名前呼びするのは抵抗があるのだろう。
しかし、聖女は世の理と異なるところに存在する者。家名を表すラストネームは、聖女として認められた瞬間から、なかったものとして扱われるのが常識だった。
だから、今でも――フィリアにもリツィードにも、かつて彼らが名乗ったはずのラストネームは後世に伝えられていない。英雄の息子である剣士リツィード・ガエルは人々の記憶に残らず、聖人"リツィード"だけが、人々に語りつがれていくのだろう。
(なんとも…複雑な気持ちだよな…)
思い浮かべるのは、第二の父と慕う司祭の顔。彼の娘として生きた十五年は、今のイリッツァにとって、代用の利かない幸せな時間だった。それを――彼の娘である、と名乗ることを禁じられるというのは、わかっていたことだが、ほんのりと胸の奥が、痛い。
「長旅でお疲れでしょう。道中、お辛くはございませんでしたか」
小柄なイリッツァの歩幅に配慮するように、ゆったりと歩く王子が笑顔で振り返る。
「いえ……騎士団の皆さんが、良くしてくださったので」
「そうですか。後ほど、カルヴァンを通じて、彼らには特別褒章を出しましょう。聖女を見つけ出してくれたことは、何よりも褒め称えるべき彼らの偉業です」
「――――…そうですね」
複雑な胸中を押し殺すように、小さく口の中でつぶやく。それをどうとったのか、ウィリアムは聖女を覗き込むようにして言葉を重ねた。
「カルヴァンは、貴女に無礼を働いていませんでしたか」
「え――?」
「彼は、少々――…その、自由闊達なところがある者なので」
「――…ああ…」
ウィリアムの、オブラートに包みまくった言葉から、彼が言わんとすることを察し、わずかに瞳を伏せる。
「私は、確かに聖女ですが――ついこの間まで、そうとは知らずに市井で修道女見習いとして過ごしていました。いろいろな方と接して――皆、当たり前ですが、私を本物の聖女として扱う者などいませんでした。彼が私を、普通の女と変わらない扱いをしたところで、今更目くじらを立てることはありませんよ」
「そう――ですか。よかった」
ほっとウィリアムの紺碧の瞳が安堵に緩む。カルヴァンの話を聞く限り、彼にとってはカルヴァンは剣の師であり、憧れの存在なのだろう。エルム教徒としてはあるまじき無礼な行いに、聖女の怒りを買っていないと知って、安堵したようだった。
(――別に、俺は、神罰を与えたりは出来ないんだけどな…)
聖女や聖人が神の声が聴ける、というのは伝説上の嘘っぱちだ。聖女も聖人も、規格外の魔力を持つ、強力な光魔法使い、というだけに近い。いわば、ただの突然変異体と言ってもいいだろう。中身は普通の人間でしかない。ただ、光魔法は、病や傷を治したり、心を落ち着かせたり、魔を払ったり、人々の能力を向上させたりと、神の所業に近い効果を伴うので、神の化身だと誤解されるだけだ。
だから当然、聖女や聖人の怒りを買ったからと言って、彼らが自分で神罰を下すことなどできない。光魔法は、物理的な作用を持たない。結界が防げるのは魔物と魔法だけで、剣や槍を防ぐことは出来ないし、光魔法で襲ってくる人間を貫いたところで、一般人には何の障害もない。せいぜい、昏い気持ちが晴れる程度の作用だ。
だが、長い王国の歴史で、聖女や聖人の恨みを買って、暗殺されたり神罰が下った人間というのは数えきれないくらいいる。――きっと、周囲が、目に見えない忖度をして、勝手に動いたのだろう、とイリッツァは常々考えていた。
しかし、目の前の敬虔なエルム教徒である王子は、そのようには考えていなかったのだろう。ほっと緩む紺碧の瞳は、心からの安堵を見せていた。
(――――カルヴァンとは、真逆だな)
ふと、その瞳を見ながらそんなことを思う。
ウィリアムの瞳は、母親譲りの、真夏の強い日差しの青空を思わせる紺碧をしている。いつだって雪国の空を宿す親友の灰褐色とは真逆の色だ。常に優しく慈愛に満ちた穏やかな微笑みをたたえているのも、あの悪童の人を食ったような笑みとはひどく対照的だ。
(素直で礼儀正しくて性格もいいし。――爪の垢を煎じて飲ませてやりたい…)
幼少期から、とても礼儀正しく、素直にエルムの教えを吸収し、本物の聖職者のように人々を救うことに喜びを見出す優しい少年だった。神などいない、と豪語して、近づく者すべてに、寄るな触るなと拒絶していた少年とは比べるべくもなかった。きっと、ウィリアムは決してイリッツァを苛めて楽しむようなことはしない。まさに全国の少女の憧れが詰まった"王子様"。
(…やっぱり、あいつが王国の憧れの的って言うのは、何かの間違いだよなぁ…)
しみじみと、悪童の笑みを張り付かせる親友の顔を思い出しながら、失礼なことを考える。
基本的に、兵団も騎士団も、平民によって構成されている。しかし、神に仕えるとされる騎士団だけは、入隊と共に、地方貴族と同等の社会的地位を得ることが出来る。その長たる騎士団長ともなれば、王都に住まう大貴族と同等の扱いになるというのは、この国の常識だ。前世でのリツィードは、いわゆる大貴族の一人息子と同等の家庭水準に生きていた。家事などしたこともなかったし、身の回りのことはすべて誰かが率先してやってくれていた。おかげで、転生後にそれらをすべて自分で行わなければならないと知って絶望した記憶がある。
しかし――"同等の地位"を得るというだけで、決して貴族の仲間入りをするわけではない。様々なところで優遇される権利を得るものの、貴族社会特有の面倒な社交に駆り出されることは殆どないし、どこまで行ってももとは平民だ。役職に付随する地位でしかないので、世襲されることもない。息子も騎士団長になれば別だが。
そう――つまり、市井の女性からすれば、非常に"お得物件"なのだ。
貴族社会の煩わしさはないくせに、大貴族と同等の生活水準を受けられる収入がある。しかも、元は平民なので、平民の女性と結婚することも何の問題もない。貴族は貴族同士でしか結婚しないのが普通なので、市井の女性が玉の輿に乗るには、騎士団の誰か――その中でも騎士団長と結婚するのが、一番の玉の輿なのだ。
(――…中身は悪ガキと変わらない、下半身暴れ馬な三十手前のオッサンに、世の中の女性は何を求めてるんだ…)
そうした社会的な打算もあっての人気だとはわかっているものの、イリッツァは呆れかえってものも言えない。よっぽど、目の前にいる王子様に叶わぬ恋をする方が、清く正しいまっとうな恋愛感情に思う。
「貴女が、広く寛大な御心を持った方で良かった。――しかし、それでは、酷く戸惑ったのではありませんか?」
「え…?」
紺碧の瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでくる。
「貴女が言うように、つい先日まで、市井で修道女見習いとして生きてきたのに、いきなり聖女と言われ、全員に――王族にも、傅かれて」
「あぁ――」
「貴女は、どうも、落ち着き払っていたようでしたので、気になって」
ふ――と。
完璧な王子の瞳に――かすかな闇が、陰った。
ぞくり、と背中を何かが滑り落ちる。
「――それ、は…」
頭を必死で回転させる。思い描くのは、灰褐色の冷たい瞳。いつだって冷静で、凡人を置いていくスピードで思考を駆け巡らせる彼と、ここに来るまでの長い車中で、散々いろいろな想定でシミュレーションをした。
どんなことを聞かれても、襤褸を出さないように。しっかりとつじつまの合う、それらしいストーリーを、二人で組み立てて、必死に覚えた。さすがに回転の速いカルヴァンは、よくもそんな細かな設定を思いつくなというくらい、ポンポンと色々な質問や状況を想定しては、あっさりと回答を授けてくれた。
――この質問も、想定の、範囲内。
(落ち着け…)
ふ、と小さく呼吸をついて、聖女の笑みを張り付ける。
「司祭、様が」
「――司祭様?」
「はい。――私の、養い親の、ダニエル・オームです。ご存じではないでしょうか。彼は、先代の聖女様――フィリア様と、懇意にしていた司祭でした」
「あぁ――…聞いたことがあります。そういえば、ナイードは、フィリア様ご生誕の領地でもありましたね」
「はい。フィリア様が、王都に召し上げられる前、ナイードで普通の少女として過ごしていた時からの幼馴染だったようです。フィリア様が王都に出向かれてからも、フィリア様は、彼とだけは定期的に手紙をやり取りしていました。公務の手紙ではなく、個人的な書簡のやり取りを」
「そういえば――そんな記録が、残っていましたね」
(え、そうなのか?俺は知らなかったぞ)
王子の答えに、内心で驚く。神殿にも王立教会にも、公務で領地を回っていうときでもない限り、フィリアはいつも私室にいた。窓から見える風にそよぐ薄青の花弁を見ながら、ずっと机に向かって何かを書いていることが多いな、ということは知っていた。ほとんどが公務に関する書類や、地方の司祭や枢機卿たちとの仕事の連絡だったのだろうが――その中で、唯一、ダニエルにだけ、私的な手紙を書いていた。
「もちろん、中身を検閲などしていませんよ。ですが、聖女様から送られる手紙の宛先と、聖女様に送られてくる手紙の差出人は、すべて記録されていましたから」
安心させるように言われて、曖昧に笑う。――本当は検閲されていた、と言われても不思議には思わない。それくらい、個人の自由など許されない立場だと言うことは、前世の時から覚悟している。
「彼とフィリア様は、幼馴染であり、共にエルム様の教えを説く聖職者でもあり――切磋琢磨する存在だったようです。彼は、ナイードという片田舎にありながら、その心根は、まさに聖人と呼ぶにふさわしい方でした。民の幸せを心から願い、宙に浮いた人々の手を取り、救いを与える…彼が理想とする聖職者像は、他でもない、"聖人"の域にあったのです」
それは、まぎれもない事実だった。
ダニエルとフィリアは、その交流の中で、聖職者としてどうあるべきか、という哲学にも近しい問いを、互いに発しながら、互いを高め合っていた。前世も今生も、どちらも聖職者の頂点たる神の化身として生まれたイリッツァから見ても、ダニエルの聖職者としての矜持は、そこらの司祭など足元にも及ばぬほどの高水準と太鼓判を押せる。
ふと――耳に、聞きなれた声がこだまする。
『いいか、嘘を吐くときは――真実の中に、一つだけ、混ぜろ。慣れない奴が嘘を吐くなら、前後は真実で塗り固めた方が怪しまれない』
王都の路地裏で身に着けた生きる知恵なのか――国家の英雄は、聖女にとんでもない悪知恵を馬車の中で授けていった。
小さく嘆息して――言葉に嘘を、混ぜる。
「その彼に、常に『修道女を目指すのであれば、聖女たれ』と教育を受けてきました。フィリア様から学んだという、聖女としての矜持を、十五年、ずっとずっと叩き込まれてきました。聖女とは、いかなる存在か。孤独と共に生き、民のために尽くす。権力に屈さず、神の声にのみ従う――たとえそれが王族であっても、神の教えに反する場合は、最後まで抗うべきなのだ、と」
「――ほう」
「ですから――大変不敬と思われても仕方ないのですが、私は、王族だからといって、貴方たちを崇め、敬うことは致しません。私が崇め、従うのはエルム様の教えのみ」
毅然と言い切り――ふ、と笑んで見せる。
「不敬、と言って首をはねますか?――私は、それでも、屈しませんが」
「そんな――まさか――!」
ウィリアムは慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません。聖女たる貴女に、何という失礼を」
「いえ…構いません。たかだが十五の少女が、どうして、という気持ちはわからなくはないですから」
恐縮しきってしまった十も年上の青年のつむじに、許しを与える。――エルム教徒は、本当に、聖女からの『許し』を乞いすぎだ、と呆れながら。
すると、神から許しを得た敬虔な信徒は、心からの安堵を得て顔を上げ――まるで、宗教画を前にしたような眼をイリッツァに向けた。
(あぁ――既視感)
心の中に苦い気持ちが広がるのを感じながら、聖女の笑みでそれを受け止める。――これもまた、聖女の責務だろう。
決して、自分を『人』としては扱ってもらえない、複雑な気持ち。昔はそれが当たり前で、そこに苦い気持ちを抱くことなどなかったというのに――この十五年、『人』として生きてしまったからだろうか。それとも――過保護でしつこい親友に、ここ数日嫌になるくらい『人』らしく生きることを口説かれていたせいだろうか。
苦み走った顔を表に出さないように、表情筋を引き締める。そして、もう一度、ふわりと聖女の微笑みを形作った。
それを見て――半ば呆然とした声が、王子の口の端から滑り落ちる。
「――――美しい――…」
「――――――――――――はい?」
ぱちぱち、と思わず一瞬、素に戻って目を瞬いてから、聞き返す。その声を聴いて、ハッ…!とウィリアムが顔を青ざめさせた。
「も、申し訳ございませんっ…!聖女様に、何たる不敬を――!」
「あ、いえ、その、大丈夫ですから――そんな、今すぐ舌を噛み切って死にます、みたいな顔はやめてください」
顔面蒼白で死にそうな顔をした信徒に、慌てて告げる。きっと、あと一歩遅かったら、本当に舌を噛み切っていたのではないだろうか。
何とか思いとどまってくれたらしいウィリアムは、青い顔のまま、頭を垂れて聖印を斬り、その場で許しを請うた。
「性愛の対象としての、美しさを指したのではありません。もちろん、貴女は、とても美しい――誰が見ても、それを認めるでしょう。ですが、外見の話ではなく――貴女の、その、高潔な魂こそが、誰よりも、何よりも美しいと――そう思ったのです」
「だ、大丈夫ですから、顔を上げてください」
ガタガタと震えながら進言するウィリアムに慌てて許可を出し――なんだか無性に、おかしくなってくる。
十も年下の少女相手に、何を必死になっているのか。しかも、この国の最高権力者の一族の癖に。
ふと、十五年前に見た、十歳の幼い少年の面影がよぎる。まるで、人ごみの中、迷子になってしまった幼子のように不安そうに揺れる紺碧の瞳が、今の王国中の女性を虜にしかねないほど整った完璧な造形の王子様に似つかわしくなくて、ふ、と自然に笑ってしまった。
「ふ…ははっ……大丈夫ですよ、ウィリアム王子。美しい、と言われて喜ばない女はいませんから」
「――――――――」
ウィリアムは、紺碧の目をこれでもかというほど大きく見開く。
そんな彼の様子に、再びくすり、と笑いを漏らし、もう一度ウィリアムに手を差し出した。
「さぁ――神殿に、連れて行って、くれるのでしょう?」
「は――はい――…」
熱に浮かされたようにつぶやく王子に、にこり、とイリッツァは安心させるようにほほ笑んだ。
それは、聖女の微笑みではなく――ヤーシュやグレンに向けるような、愛を込めた、優しい微笑み。
(可愛い奴だな、相変わらず)
体は大きくなっても、まだまだ記憶の中にある十歳の少年時代の面影が消えない。
イリッツァは、二十五の声を聴く成人既婚男性に抱くには失礼すぎる感想を心の中でつぶやいて、素直にエスコートされたのだった。
そして――二日後。
「――――――え――?」
イリッツァは、目の前の状況に目を見開いていた。
(待って――――――待って、ちょ、え――カルヴァン…!こ、こんな想定、あったっけ…!?)
ひくっと喉が引きつって、上手く声が出て来ない。
記憶の中の灰褐色の瞳に全力で縋る。
(こ、こういうときはどうすればいいんだ――――――!?)
人生でも何度目かの困惑に、イリッツァは目を回すことになった。
ぐるぐるとまわる目の前で――差し出された、季節外れの勿忘草が、可憐な花弁を揺らしていた――
「おい…いつになったら俺は王城に行けるんだ?」
「ちょ、待っ――団長!待ってください!さすがに本気の殺気は仕舞ってください!新人連中が全員辞職願出すので!今の人員不足状態での離職率の高まりは騎士団運営上深刻な影響を与えます!!!」
騎士団長に与えられた執務室に缶詰めになり、早三日。子供が見たら号泣必至のオーラを纏ったカルヴァンは、目の前の補佐官に思い切り八つ当たりをした。リアムもリアムで、夢も希望もないなだめ方をしてくる。この三日間、似たようなやり取りが何十回と繰り返されている証だ。
「第一、今日は何だかやたらと騒がしい…何なんだ、一体」
「さぁ…俺も、しばらく徹夜でここにこもってますから、外のことはいまいち――もうすぐ来る、外からの連絡と報告を待ちましょう」
げっそりと、眼の下の隈を隠すことも出来ぬまま、目頭のあたりを抑えて眠気を払う。
今回の遠征の後処理は、覚悟はしていたものの、想像以上に大変だった。やってもやっても終わらない。死亡した騎士の遺族への説明や遺品配布の処理。葬儀の日程も決めなければいけなかったし、殉職手当の手配もある。戦えないほどの深刻な傷を負ったものは、退役処理が必要だ。退職金支払いも待ってくれない。闇の魔法使い暗殺に関する一連の報告書も、ブリアから借りていた兵士が死亡したことに対する責任問題もその遺族への配慮や処置も、聖女発見に関する経緯報告やらなにやら――そう、とにかく、執務室にこもっての雑務が多すぎるのだ。
「俺は、一日二日で自由になれると思っていた」
「いや…俺も、さすがにここまでとは思いませんでしたよ…」
げんなりと、二人で重たいため息を吐き――コンコン、と部屋にノックの音が響き渡る。
「定期報告ですかね」
「あぁ。――ひと息いれるか」
リアムが応対に出るのを視界の端に入れながら、カルヴァンはゆっくりと立ち上がって伸びをする。どうにも、昔から書類仕事は好きじゃない。彼の非凡な頭脳は本来机仕事で発揮されると、何度か遠征よりも執務室にこもってくれと過去の補佐官に言われたことがあるが、"出来る"と"やりたい"は別なのだ。
「えぇと――――――――へ――?」
連絡官から受け取ったらしき書簡に目を通していたリアムが、間抜けな声を上げ――鼈甲の瞳をこれ以上なく見開く。
「どうした。これ以上の厄介ごとは聞かないぞ」
嫌な予感を感じて、カルヴァンが怒気を発しながら呻く。しかし、リアムは見開いた眼から目玉が零れ落ちるのでは、と思うくらいの表情のまま固まってしまい、それ以上言葉を発することがなかった。
「――…?」
カルヴァンは怪訝な表情を向け――今は何も聞きたくない、と思い、空気を入れ替えるために窓の方に向かった。
ハッ!とリアムが我に返り、上官を呼び止める。
「だっ、団長ダメです!今窓を開けるのは――」
「は?」
カラカラ――…
リアムの制止など全く意に介さず、あっさりと窓を開ける。童顔の補佐官は、涙目になった。――そうだった。この上官が、自分の言うことを聞いてくれたことなど、この三年間、ほとんどなかった。
「お前、何を言っ――」
「「「号外!!!!号外!!!!!」」」
情報の秘密保持の観点から、防音性の高い執務室の窓が開けられたことで、何やら騒がしいと思っていただけの街の音が直接的に部屋に飛び込んでくる。
カルヴァンは、灰褐色の瞳を窓から下に向けた。兵舎のすぐそばにある通りで、複数の少年たちが、今こそ稼ぎ時と言わんばかりに、手にした紙切れを街中に振りまきながら走り回っている。その紙切れを拾うためなのか、通りはいつもより人手が多くにぎわっていた。
紙切れを振りまく少年たちは、さらに声を張り上げて、人々の関心を引く。
「「「聖女様と王太子殿下が、ご婚約だーーーーーーーーー!!!」」」
「――――――――――――――は――――?」
カルヴァンは、人生でそうそうないほど間抜けな声を上げ――
リアムは、その後ろで、額を覆ってうなだれたのだった――




