56、純白の『檻』
王都の中央に座するようにそびえ立つ、荘厳にして壮麗な建造物――"王城"と呼ばれるそれは、大陸でもっとも信徒が多いとされる宗教の総本山にふさわしい威厳を保ち、聳えていた。陽光を反射する真っ白な壁で覆われた外観は、清貧を美徳とするエルムの教えに沿ってか、豪奢な装飾は一切見当たらない。これが王立教会だと説明されたとしても、初めてこの国を訪れた人間は信じてしまうだろう。
(あぁ――ついに、来たのか)
この城を目にするのは、十五年ぶりだ。
母が生きていたころは、何度も一緒に訪れていた。腕の立つ兵士であり、フィリアの血を分けた息子であったリツィードは、人払いをされる神殿で二人きりになったとしても何の問題もなく、護衛として信頼しかなかった。フィリアが聖女としての公務をこなすため、王城やその奥の神殿に訪れる際は、よほどの火急の別任務でもない限り、常にリツィードがその傍に付き添った。きっと、その人選や取り計らいには、妻を溺愛していた騎士団長バルドの口添えもあったのだろう。バルドは、恐らく、誰よりも息子の非凡な剣の才能を熟知していた。――息子が剣を携え護るその隣こそが、この世界において一番――バルド自身が護るよりも一番、安全であることを、誰よりも。
フィリアの護衛のために、この王城も奥の神殿も、その構造は頭に叩き込んでいる。敵が侵入するならどこからが一番可能性が高いか、もし逃げるとしたらどこをどう通っていくのが一番安全に逃げおおせるのか。
『覚えておきなさい、リツィード』
ふと、耳の奥で、幼いころに聞いた雪女の声が蘇る。
吹雪の中に誘い、閉じ込め、無情に命を奪うという恐ろしい怪異を思わせる、冷ややかな声音。
『ここは――"檻"です。貴方と、私の、永遠の、檻』
(――――俺、何て答えたんだっけ…?)
どうにも記憶がおぼろげで思い出せない。
確かあれは――魔物の討伐遠征が終わった騎士団が、玉座の間に、遠征の報告に現れた時だった。普段は王族の席しかないはずの玉座には、特別に追加の一席が設けられ、フィリアと王が並んで座り、護衛であるリツィードはフィリアの後ろに控えていた。両者とは明らかな身分さを感じさせるように、枢機卿団の代表者が立って控えているのが常だったのを覚えている。齢七十を超えて、そろそろ八十の声を聴くのでは、と思う男だったが、聖職者の頂点たる聖女と、王国の最高権力者たる男を前にして、椅子に腰かけることなど許されないことだった。
そして、玉座から見下ろす先には――血を分けた、父親。出自に限らず、大貴族と同等の身分を許される役職である彼でさえも、玉座の前では膝を突き、頭を垂れる他なかった。
たとえ、その先にいるのが、己の妻と息子だったとしても。
顔を上げることすらほとんど許されないままに報告を終え、帰っていくバルドを見送り――そう、珍しく、フィリアが、自分から、息子に声をかけたのだ。彼女から、神学や光魔法を教わる時間以外で話しかけられるのは非常に珍しかったので、妙に記憶に残っている。
もし、彼女の言う言葉が真実なら――どれほど逃走経路を頭に叩き込んでも、意味などなかったのかもしれない。
聖女と聖人を捕らえる『檻』――この白亜の建物から逃げおおせることなど、考えるだけ無駄なのかもしれなかった。
「おい。――お前、また、碌でもないこと考えてるだろう」
「へっ?」
「顔見ればすぐわかる。――何年の付き合いだと思ってるんだ」
向かいの席に座ったまま、わかりやすい渋面を作られて、イリッツァは苦笑した。
確かに、この建物は、聖女と聖人にとっては檻なのかもしれない。だから、イリッツァ自身がどれだけ逃げたいと思っても、真っ白に塗りつぶされた孤独の闇から、真の意味で逃げ出すことは叶わない。
だが――外から、鍵を開けてくれる誰かがいるなら――
檻を出て、真に明るい世界へと――手を引いてくれる、誰かがいるなら。
「…ははっ…うん。大丈夫。――大丈夫だよ、ヴィー」
安心させるように笑ってから、すぅっと息を吸い込む。同時に、馬車がゆっくりと歩みを止めた。
「さて。――世紀の大博打だ。ぬかるなよ」
「ぅ…頑張る」
少しだけ自信なさげに、それでもうなずくイリッツァを見て、ふっと吐息だけの笑みが漏れる。
さらり、と銀髪を安心させるように撫でた後、カルヴァンはいつもの笑みで告げた。
「お前を、本当の光の下に連れ出してやれるまで、あと少しだ。――あと数日、"王子様"が行くまで、待ってろ」
「ははっ…ウケる」
どう見ても悪童にしか見えない笑みで、王子様などと言われても。
イリッツァは、小さく噴き出しながら――差し出されたカルヴァンの手を取り、馬車から外に出た。
光と闇が混在する、聖女の『檻』へ向かうために――
カルヴァンにエスコートされるようにして、馬車から降り立つ。ふわりと、冬を感じさせる冷たい風が、髪を撫でていった。
ふるっ…と一瞬震えたのは、風が冷たかったからか――他の要因があったのか。わからなかったが、カルヴァンは一瞬の震えを感じ取り、いつも通りの表情を変えないまま、ぎゅっと掴んでいる手に力を込めてくれた。それだけで、ふ、と心の奥深くが緩む気配を感じる。そこで初めて――自分が思っているよりも緊張していたことに気が付いた。
周囲にわからないように、一つ、深呼吸。冬の外気は、肺の隅々まで染み渡り、体をめぐって、頭を冷静にしてくれた。
我知らず閉じていた瞳を、ゆっくりと開く。
口元には――母から教わった、『聖女』の笑み。
信徒を導くための微笑みを前に――カルヴァンを除くその場にいた全員が、ザッと頭を下げて最上位の礼を取った。
ゆっくりと、視線をめぐらす。
一番遠巻きにいるのは、一緒についてきてくれた騎士団の皆だ。真紅の装束が、ぐるっと一番外側を、全方位囲うように立っているのは、万が一の外敵に備えているのだろう。
赤の内側には――目がくらむような、白装束。その特徴的な装束は、前世で何度も目にしていた。この日のために、早馬を飛ばして駆けつけたであろう、全国に散らばる枢機卿たち。フィリアの公務に付き従うときに一番よく見かけていた枢機卿団の代表を務めていた翁は見当たらない。さすがに十五年前でもかなりの高齢だったから、現役を退いたのか、天に召されたのか。今この場では知る術はなかった。
そして、目の前にいるのは――白と金を混ぜ合わせた、高貴な装束を身に着けた男女が三名。最高級の絹と糸で作られたこの装束は、枢機卿による光魔法の加護がその糸にも布にも付与されている。この世で唯一、初代クルサール王直系の王族のみが身に纏うことを許される、専用の正装だった。
下げられた頭は、すべて黄金色。華やかなシャンパンゴールドを思わせるその金髪は、陽光をはじいて眩しさに直視しがたいようにすら思えた。それこそが、高貴な身分たる彼らのオーラによるものなのか。王族の直系は皆、綺麗な金髪碧眼なのが普通だ。今は顔が伏せられていて瞳が見えないが、この代の王家直系もまた、歴史に違わず、美しい金髪碧眼なのを、イリッツァはよく知っている。
その中の一人――中心に座していた初老の男が、ゆっくりと顔を上げた。
いくら何でも見覚えがある。――この国の、現王。
「到着を心よりお待ちしておりました――聖女様」
「…はい。イリッツァ・オームと申します」
にこり、と完璧な笑顔で答える。
頭は、下げない。手も、差し出さない。
聖女は、王国の身分制度から切り離されたところにいる絶対の存在。神の化身なのだから――下々の者たちに合わせた礼など、するはずもない。
前世で洗脳に近いほど叩き込まれた知識は、未だに息をするようにイリッツァの身体を動かす。
「皆、顔を上げてください」
「「「はっ!!!」」」
声を掛けられるまで、誰一人微動だにしないのは、さすがというべきだろう。そして、声を掛けられたとたん、一糸乱れぬ速度でさっと顔を上げて控える動作まで、もしかしてこっそり事前に練習したのでは、と思わせるほどに揃っていた。
ゆるり、と改めて視線を巡らせる。懐かしい顔も、初めて見る顔も、たくさんあった。
ふと、見覚えのある二人の顔で視線が止まる。
(――あぁ。大きく、なったな)
金髪碧眼の、まるで絵本に出て来るような、絵にかいたような美しい王子様と王女様。最後に見た彼らは、十歳と五歳の姿だった。それが今や、立派な青年と美女に育っている。すくすくと、当時のキラキラした純粋無垢な様子そのままに、まっすぐに育ったのだろうことは容易に見て取れた。
つい、懐かしさに瞳が緩む。自然と柔らかな笑みを浮かべる形になると、二人の頬がほんのりと紅潮したのが分かった。伝説の聖女に微笑みかけられ、緊張したのだろうか。
(――…こんなに美人なのに、何が不満なんだ、ヴィーは)
聖女降誕の噂が駆け巡る前までは、間違いなく王都の噂の中心人物だったシルヴィア王女に目をやる。ゆるくウェーブのかかった美しいブロンドも、笑顔と共に柔らかく緩む碧玉の瞳も、王国中の男性の憧れの的だ。やや結婚適齢期ギリギリになりつつあるのが心配の種だが――英雄たる王国騎士団長と結婚となれば、そんなものは些細な問題として国を挙げて祝宴が開かれるだろう。
(それが、俺と結婚とか――もったいない)
苦虫をかみ殺したような顔になるのを必死に表情筋に力を入れてこらえる。きっと、聖女降誕の噂の次は、王国騎士団長の御乱心の噂が王都をにぎわすのだろう。幼女趣味疑惑という不名誉かつこれ以上ない面白い話題性を伴って。
「聖女様。――第一王子のウィリアムと申します。以後、お見知りおきを」
これからのことに思案を巡らせていると、思考に割り込むように声を掛けられ、はっと目の前を見る。
華やかな場にふさわしいシャンパンゴールドの金髪の美青年が、恭しく頭を下げていた。
「はい。存じております」
「神殿にご案内いたします。――お手を、よろしいか」
「――え…」
すっと当たり前のように差し出された手に、思わず困惑する。
「お、王子が自ら、ご案内を…?」
(さすがに少し、待遇が厚すぎないか…?)
フィリアの頃でも、さすがに王族が自ら手を引くなどと言うことはなかった。せいぜい、枢機卿の誰かか、夫や息子であり護衛の任を兼ねている二人が手を引くくらいだ。場合によっては、身の回りの世話を任されていた副司祭のリアナが引くこともあったが、それだけだ。
王族と聖女では、王族の方が頭を垂れて教えを乞う存在なのは確かだが――それはあくまで、神事や執政に関する場においてのみ。日常の移動で手を引かれるような関係ではないはずだった。
しかし、絵本に出て来るよな完璧な王子像をそのまま具現化したような目の前の青年は、にこり、とこれもまた完璧な笑顔を向けて口を開く。
「国賓を、王族がもてなすことに、何の疑問がございましょう」
「…国賓…」
そういう言われ方をすれば、確かにそうなのかもしれないが、やや複雑な気持ちだ。戸惑いを隠すように少し瞼を伏せると、ふっと顔にかかっていた日が陰る。傍に控えていたカルヴァンが、その身を折って、耳元にささやいた。
「よかったな。――正真正銘の"王子様"のエスコートだぞ」
「――――…」
明らかに面白がって揶揄する声音に、イラッ…とした気持ちを顔に一切出さなかったことを、心の底から自分でほめたい。代わりに、視線だけで睨むようにして親友を見やると、案の定完全に面白がっている悪童の笑顔がそこにあった。
「それでは、お願いいたします」
親友にこれ以上揶揄いの種を与えないように、完璧な聖女の笑みでウィリアムに向き合う。ウィリアムは、もう一度恭しく頭を下げた後、そっと差し出された白魚のような手を取り、引いた。後ろで、ふっと人を小ばかにしたような笑みを漏らす親友の吐息を感じて、無言の圧を後方に飛ばして黙らせる。
「こちらです」
(…笑顔がまぶしい…)
キラキラと麗しく完璧な王子の笑顔に、イリッツァは目を眇めたくなりながら、大人しくエスコートされることにした。




