55、過去との『対峙』
小さく馬が嘶き、ギッ、と小さな車輪の軋んだ音と共に、馬車が停止する。
(あぁ――着いた、のか)
我知らず、ぎゅっと己の服を握りしめる。御者が、王都の門を守る衛兵と何か会話している。通行許可証を見せて入都申請をしているのだろう。王都の出入りの審査は大陸有数の厳しさだ。
ふるっ…と力を入れ過ぎて真っ白になった拳が揺れると、そっと大きな手がそれを包み込むように置かれた。
「少し、待っていろ」
「え――あ、うん…」
いつもの無表情なのに、包まれた手のぬくもりは、酷く優しい。思わず、ふっ…と手から力が抜けるのを感じた。
カルヴァンは、馬車の扉を内側から開けると、狭い車内では窮屈だったろうその長身をかがめて馬車の外へ出た。
「王国騎士団長、カルヴァン・タイターだ。急ぎ王城へ向かわなければならない用事がある。身元は俺が保証する。急いでくれないか」
「え、あ、は、はいっ!」
ぬっとあらわれた長身の真紅の騎士装束に、衛兵の緊張した声が答える。この国で、カルヴァンのことを知らぬものなどいない。普段であれば、申請も何もかも部下任せのため、いち衛兵ごときが言葉を掛けられることなど、天地がひっくり返ってもなかった。衛兵とて戦士の端くれだ。救国の英雄に憧れを抱かないはずがない。
憧れの騎士団長からの直々の頼みとあり、衛兵はいつもの倍以上のスピードで許可を下ろした。通行証をカルヴァンに渡し――ちらり、と馬車の方を見やる。
「あ、あの――もしかして、今、馬車の中にいらっしゃるのは、噂の――」
「お前ごときが目にしていい存在と思うな」
「ひっ…は、はいっ…!」
野次馬根性が垣間見える好奇に染まった不快な視線に、冷徹な一瞥をくれて黙らせる。殺気に近い圧に、衛兵は無意識に敬礼をして姿勢を正した。
冷ややかな目のまま車中に戻って来たカルヴァンに、イリッツァはかすかに苦笑した。
「お前、怖い」
「俺はお前を見世物にするつもりがないだけだ」
言って、扉を閉めた後、ついでとばかりに軽く舌打ちして窓とご丁寧に目隠し用のカーテンまでしっかりと閉めてしまう。外から覗かれぬように引かれた目隠し用の布は、外のキラキラした陽光を遮り、馬車の中を薄暗い闇で満たした。
「…もしかして、なんか、不機嫌…?」
「当たり前だろう。俺としては、今すぐにでもこんなところからお前を連れ去りたいんだと、一体何回言ったら理解するんだ?」
呆れた顔で言われ、う…と小さく呻く。
すると、キュッと手綱が軋む音がして、御者が馬に鞭打つ音が響いた。小さなうめきにも似た嘶きと共に、ゆっくりと馬車が進み始める。
王国一綺麗に舗装された道は、今までの道中と比べれば格段に進みやすく乗り心地も良い。門を通る際、敬礼をしている衛兵が、何とか中を覗こうと窓を注視している気配を感じたが、カルヴァンによって遮られたその窓は、きっと外から何も映すことはなかっただろう。
カポカポと、馬の蹄が規則正しい音を立てる。しん…と車内に沈黙が下りた。
ぎゅ…と己で己を抱きしめるように、イリッツァは腕を体に回す。前世よりも華奢な体が、今は一層弱弱しく頼りなく感じられた。
「ツィ――」
カルヴァンが、何かを、話しかけようと、して
おぉぉおおおおおおおおおおおおおお
「「――――――!」」
急に、雄たけびに近い音が馬車を揺らした。ビクリ、とイリッツァの肩が跳ねる。
「聖女様!聖女様だ!!」「聖女様、万歳!!」「あぁ神よ――この奇跡に感謝を――」「見せろ!聖女様のお姿はどこだ!?」「あぁ!聖女様、どうか我らにお顔をお見せください!」「聖女様」「聖女様」「聖女様」
都中に響き渡る、王都民の歓喜の叫び。祭りの日でもここまでではない、というほどに沸き立っている。街中に王国建国祭の時のような豪華な飾りが至る所に飾られ、イリッツァの乗る馬車が通ろうとする道に、惜しみなく花吹雪が降らされる。もう冬だというのにどこから調達してきたのか。もし、まだこの時期でも温かい他国から購入した分を使ったのなら間違いなく高値だっただろう。そんなものを惜しげもなく舞散らすこの景色こそ、王都民の浮き立つ心をまさに映し出していた。
寒く厳しい冬の入り口とは思えぬほどの熱狂。馬車の外に渦巻く熱気とは裏腹に、すぅっとイリッツァは肝が冷えていくような感覚を覚えていた。
「――――――ぁ…」
口の端から零れ落ちる音は、周囲の歓声にかき消された。
歓声が――記憶の中で、重なる。
十五年前の、歓声。神の名のもとに、聖女と英雄の息子でありながら闇の魔法使いの疑いをかけられた、愚かな少年を断罪する歓喜に沸く、王都民。
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「神の名のもとに!」「浄化の炎で焼き払え!」「石を放て!断罪を!」「王都を救え!」「聖女と英雄の血統を汚した愚かな男に制裁を!」「聖なる裁きを!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
耳の中で蘇る叫びは、今と真逆の言葉だったはずなのに――狂喜に渦巻くその様は、今の熱狂とひどく似ていた。
「っ――――!」
ぐ、と当時の記憶が鮮明によみがえり、口元を抑える。際限なく降り注ぐ石の雨。足元から一瞬で立ち上った灼熱の業火。胸を貫く、槍の――
「――――」
目の前のカルヴァンが、何か口を開くのが視界の端で見えたような気がしたが、外から響くうるさい歓声にかき消され、何も耳に届かない。
ぶわっと全身に冷たい汗が噴き出すのを感じながら、ぐっと体を折って悪寒と吐き気に必死で耐える。何かを告げているカルヴァンの顔すら、視界から外れた。そこで初めて、座席に座っていることすらできなくなり、馬車の中に頽れたことを頭の片隅で理解する。
心臓が、運動もしていないのに力強く忙しく拍動を刻む。ドッ…ドッ…とうるさいそれは、しっかり閉じられたはずの扉も窓も突き抜けてくる歓声の中でも、しっかりと耳に響いた。その音に急かされるように、呼吸も荒く早くなっていく。うまく息が吸えなくて、新鮮な空気を求めるように顔を上げたいのに、恐怖で支配された体はそれを許さない。
頭の隅ではわかっている。
ここはもう、十五年前の処刑台ではない。自分は転生して、声も、姿かたちも、何もかも変わってしまった。自分がリツィード・ガエルと同一人物だなどと、誰も思いはしないだろう。
だが、それでも――今、顔を上げたら――また、あの、冷たく固い、石の雨が無数に降ってくるような気がして――
「――――――」
耳の奥が、何かの声を拾った。
低く響く――落ち着いた、声。
「――ぇ」
反射的に、顔を上げると――
ぐいっ
「ぅわ――――」
もう、声は聞こえなかった。
無理矢理、口元を抑えていた手をつかまれ、力任せに引き上げられる。不意を突かれて抵抗する間もないまま、されるがままに立ち上がり――そのまま、気づいたときには、真紅の装束の胸の中に納まっていた。
「――――え。…ヴィー…?」
「そこで深呼吸でもしていろ」
ぎゅ、と優しく抱きしめられながら、耳元で零距離で告げられた声は、さすがにこの歓声の中でもしっかりと鼓膜に響いた。
低く響く、落ち着いた声音。
十五年、ずっと――――――処刑台の上から、ずっと、ずっと、聞きたかった、声。
「俺の匂いは、『落ち着く』んだろう?」
「――――ぁ――」
ほんの少し揶揄するような響きに、昨晩のやり取りを思い出す。
「――…は、はは…確かに」
ふにゃ、と眉が下がるのを自覚しながら、遠慮なく肩口に顔をうずめて深呼吸する。
ふわりと鼻腔をくすぐるのは、転生して初めて知った、親友の香り。
「ん――…やっぱり、落ち着く…俺、この匂い、好き」
「それはよかった」
さらり、と銀髪をあやすように梳きながら、いたっていつも通りの声が耳元で響く。
この男は、知らないだろう。
絶望のどん底に叩き落とされたあの日――本当に、ずっと、ずっと、この声が聴きたくて、たまらなかったことを。
「…憎いか?」
「…え?」
「外の連中が」
ポツリ、と言われた言葉に顔を上げる。いつも通りの平静な声で、カルヴァンは淡々と続けた。
「お前が望むなら、全員蹴散らすが」
「は?」
「剣で薙ぎ払っても、魔法で焼き払ってもいい。――ちょうど、静かになっていい。うるさい」
「いやいやいや…お前、ほんと、十五年前に関係することになると急に過激になるの、何なんだ…」
雪国を宿す瞳が、いつも以上に冷たい輝きを放つのを見て、呆れながら諫める。どうやら、自分だけではなく、この目の前の男にとっても、十五年前のあの日は、なかなか忘れがたいトラウマになっているようだ。
「夢の中では、どんなに頑張っても焼けなかった。――ちょうどいい。憂さを晴らすいい機会だ。昔から、お前に石を投げた連中を一人残らず殺したいと思っていた」
「いやいや、落ち着け。頼むから落ち着いてくれ」
冷ややかな瞳のまま、どんなテロリストよりも過激なことを言ってのける親友を必死でなだめる。
静かな瞳と表情は、凍り付くほど激しい怒りの炎を燃やしていることの表れなのだろう。イリッツァは、眉を下げてからそっとその背に腕を回して抱き付いた。
「今のお前は、俺を『安心させる』っていう仕事があるだろ」
「――…」
「おとなしく嗅がれてろ」
言いながら、再び顔を肩口にうずめるようにして肺一杯に息を吸い込む。ふわりと香るのは、交じり気のない親友の香り。
(あぁ――安心する)
今、ここに、カルヴァンがいてくれることに。
あの時とは違う――それが、五感全てで理解できる。それが、何よりも、安心する。
「――なぁ」
「なんだ」
「お前はさ、きっと、俺にこう言ってほしいんだと思うから、言ってやる」
肩口に顔をうずめたまま前置きして、「感謝しろよ」と憎まれ口をたたく。
そして、小さく息を吸い込み――十五年もの間、親友を縛り付けてきた、見えない鎖に手をかけた。
「――なんで、あの日、お前――来てくれなかったんだ」
「――――……」
ひゅっとカルヴァンの喉が鳴った音がした。
そっと、真紅の装束に包まれた背中を抱く腕に力を込めて、耳元にささやく。
「あの日、お前が、あの場にいてくれたら――あんなことに、ならなかったんじゃないか、って、思うときがある」
「リツィー――」
「ひでぇ奴」
「っ――」
カルヴァンは息を詰め――ぎゅっと痛いほどに、イリッツァを抱きしめた。
わぁっと歓喜に沸く歓声の中で――零距離から、押し殺した声が、耳元で呻く。
「すまない――――――すまない」
「…うん」
「許してくれとは言わない…ずっと、ずっと――ただ、謝りたかった」
「……うん」
「どんな時も、常に傍にあると誓ったのに――――約束を違えて、すまなかった」
「………うん」
「もうしない。――二度と、同じ轍は、踏まない」
言いながら、折れそうなほどに抱きしめ、少女の耳にささやく。
「何度でも誓う。一生守る――二度と、お前を、独りにしない」
「うん。――今度こそ、約束な」
へらっと笑って、藍色の髪を撫でる。
きっと、この十五年――誰一人、カルヴァンを責めるものなどいなかっただろう。当たり前なのだが――それでも、きっと、彼は、責められたかったはずだ。
お前のせいで、リツィードが死んだのだと。
お前がいなかったから、リツィードは独りで旅立ったのだと。
半年もの間、リツィードがいつもと様子が違うことには気づいていた。それなのに、深く追求することもないまま、挙句、些細な言い合いをして、永遠の別れを迎えた。
リツィードを、最後まで孤独から救えなかったせいで、こんな事態を招いたのだと――彼は、きっと、ずっと誰かに、責めてほしかったはずだった。
(馬鹿な奴)
そんなくだらないことで――十五年。ずっと、孤独に、独り死を見つめて生き続けてきたなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
彼を十五年も縛り付けてきた見えない鎖を――イリッツァは、残酷に、しかし確実に、解き放っていった。
「じゃあ――もし、今度、俺がまた誰かに捕らえられて命の危機に陥ったとして」
「やめろ縁起でもない」
カルヴァンの、割と本気の怒りがにじんだ声がする。はは、とイリッツァは笑いながらつづけた。
「いいじゃん。今度こそ、新しい誓いだ。――その時は、俺のこと、一番最初に、全力で助けに来てくれるって、誓えるか?」
「当たり前だろ。今すぐ誓える。――誓いの証明が必要なら、キスでもしてやろうか?」
「ははっ、お前は相変わらずぶれないな」
灰褐色の瞳に、少し暗い影を落としながらも茶化すように言うカルヴァンに、思わず笑ってしまう。
「じゃあ、それで、十五年前、お前が助けに来なかったことは許してやる。――次は、俺、可憐なお姫様よろしく『助けてヴィー!』って叫ぶから、お前は王子様みたいに格好良く助けに来いよ」
「何だそれは」
ふっと思わず笑いが漏れる。笑みと共に細められた雪国の瞳から、やっと、すべての闇が掻き消えた。
それを見て、イリッツァもふわりとほほ笑む。いつの間にか、馬車の外の歓声など気にならなくなっていた。
「俺と結婚するんだろ?女の子は誰でも、王子様にピンチを助けに来てもらえるのに憧れてるんだ」
「よく言う…」
はっと鼻で嗤って、カルヴァンはさらりと銀髪の小さな頭を抱えるようにして己の方に向けた。そのまま、ぐっと顔を近づける。
「――ぇ、いや、ちょ、待――言葉で!誓いの言葉だけで十分だから!」
「うるさい黙れ」
「っ――せ、せせせせめて今回は一回で終われよ!?」
「黙れ」
この数日で、どうやらこうしたことに対しての察しも良くなったらしい。真っ赤になって慌てた後――観念したように、ぎゅっと目を閉じた。
(あぁ――いいな)
この顔は――きっと、誰も、知らない。
カルヴァンしか知らない、イリッツァの表情。
「どんな時も、俺が、全力で助けてやる。――約束だ」
囁くようにして――そっと、静かに、唇を重ねる。
永遠に違えぬ誓いの、確かな証として――




