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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第四章

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【断章】懐かしい『記憶』

 ガタガタと、馬車の揺れが少なくなってくる。王都に向けて綺麗に舗装された道に入ったのだろう。快適になった車中で、目的地が近づいてきたことを悟る。

「――はぁ…」

「大丈夫か」

 憂鬱なため息を漏らしたのを目ざとく見つけて、目の前のカルヴァンが声をかけて来る。いつものように大して表情筋を動かしていないくせに、本当はイリッツァ以上に彼女の心の傷を心配していることを知っている。

 イリッツァは、ゆっくりと、何とか笑顔の形を作った。

「大丈夫。――まだ、街にも入っていないし」

「…逃げたくなったらいつでも言え。たとえそれが、王都のど真ん中でも、お前を抱えて飛び出してやる」

「はは……ほんと、過保護」

 力なく笑って、親友の重たい愛を受け止める。くだらない言い合いが、今は気が紛れて助かる。

 ふと、小さな車窓に目をやると、まぶしい陽光が降り注いでいた。陰鬱な気持ちに引きずり込まれそうな自分と対照的なキラキラとした美しい光景に、我知らず自嘲の笑みが漏れる。自分が昏ければ暗いほど、外の明るさを直視するのは眩しくてたまらない。

「十五年――か…長かったな」

「……あぁ」

「自分からここに来ることはない、って思ってたんだけどなぁ…」

 自嘲の笑みを深めてから、目を閉じる。外の眩しさから逃げるように。

「ここに来たら、お前に会えるって、わかってたけど。――それでも、どうしても、来られなかった」

「……あぁ」

「はは…情けねーな。親父に聞かれたら、間違いなく鉄拳制裁だ」

 軟弱者!と怒鳴られ殴り倒される光景が、やすやすと瞼の裏に浮かぶ。どこまでも厳しい、かつての父親。あの鉄拳は本当に痛くて堪らなかった。

 それでも――あの、この世の厳しさ全てを煮詰めて固めたような父親が、自分から息子に触れるのは、そういうときだけで。

 ごく稀に彼の逆鱗に触れた時は、心底恐怖に震え上がり、二度としないと誓うのだが――物理的な痛みと共に、心に切ない痛みを抱え、それを排せない複雑さに吐きたくなったものだった。

 叱られているのは、愛されているからだと――あるはずもない幻想に、弱い心が、勝手に縋り付こうと、して。

「今頃親父、どうしてんのかな」

「…どう、とは?」

「いや――エルム教的には、自死を選んだ人間は、天に迎えに来てもらえない。母さんは、親父とは違うところに行ったはずなんだ。――あの、見かけによらず妻を溺愛してた男は、当然いつか後から来ると思ってた女が永遠に自分の下には来ないと知って、どうしてるかなって」

「あぁ――…そうだな。お前の母親がいるのが仮に地獄だとするなら、天とやらを脱走して地獄に殴り込みに行ってるんじゃないか。あの鬼みたいな強さで、天使も地獄の番人も当たり前みたいに虐殺しそうだろ、あの人」

「ははっ…ありうる」

 その光景がありありと浮かんで、今度は、心からおかしくて、思わず笑いが漏れた。

 カルヴァンが英雄と呼ばれるまで、国民に英雄と呼ばれていた男は、まさに神も恐れぬ鬼神だった。

「お前と一緒で、あの人、神様とか信じてなかったからなぁ…」

「そうだったのか?」

「あれ、言ったことなかったっけ。――ないか、そりゃ。王国騎士団長が、実はエルム教を大して信仰してないなんて世間に知れたら大問題だ。…しかもそれが聖女と結婚とか」

 くく、と喉の奥で笑う。

「一応、あんな顔して、世間体を考えて隠してたからな。母さんと結婚するにも、エルム教徒ってことにしておかないと、絶対に許してもらえなかっただろうし――まぁ、本当に敬虔なエルム教徒なら、聖女と結婚しようとか、考えるはずもないんだけどさ」

「…なるほど」

 神の化身たる聖女を、『女』として見るなど、エルム教徒であれば天地がひっくり返ってもありはしない。まして、その神の化身とちゃっかり子作りまでしたわけだ。神を堕とすようなそんな所業、仮に信徒だったならば、神罰が恐ろしくて絶対に出来ない。

 昔はそんなことに思い至ることもなかったが、冷静に考えれば、『鬼神』バルド・ガエルがエルム教を信仰していないというのはしっくりとくる事実だった。

「ったく…師弟そろって、似た者同士だな。親父が、なんだかんだお前をいつも構ってたの、よくわかる」

「それは光栄だな。――女の趣味も似てるらしいし」

「ははっ…確かに!」

 つい最近知った衝撃の事実を思い出し、屈託なく笑う。まさか、カルヴァンが昔から言っていた『タイプ』というのが、あの氷の女とは思いもしなかった。

「あー…なんか、懐かしい」

 ふ、と遠くを見るように再び車窓を見やる。視界の端で、母と同じ白銀の髪が揺れた。

「王都は――嫌なこともいっぱいあったけど…でも十五年、生きた記憶も、ある土地だもんな」

「…そうだな」

「――お前と初めて出逢えた街でもある」

「…――そう言われれば、そうだな」

 そう考えれば――悪い記憶ばかりでもないのかもしれない。

 イリッツァは、気を取り直すように瞳を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

 清浄な空気が肺に満たされ――吐き出すと同時に瞳を開く。

 外は相変わらず陽光降り注ぐ明るさに満ちてはいたが――眩しさに目をそらすほどでも、なかった。

「なぁ、ヴィー。なんか、話してくれよ」

「?…雑な振り方だな」

「なんでもいい。――なんか、王都が、怖くなくなるような、話」

「――――……難しいことを言う」

 途端に渋面を作って、カルヴァンは呻いた。

 そのまま、ふ、と少しだけ目を伏せて数度瞬きした後、口を開く。一瞬、高速で非凡な頭脳が回転したのだろう。

「…昔のお前の知り合いが、今どうしているか、とかどうだ。――聞きたいか?」

「へぇ。それは確かに、面白そうだな。なるべく、楽しい話題を聞きたい」

 ふ、と笑みを作るイリッツァは――まだ少し、具合が悪そうだが、最も苦しそうだった状態よりは回復していそうだった。カルヴァンはその白い顔を見ながら、話題を探す。

「そうだな――ファムは今、退役して、若い連中相手に剣術道場を開いてる。結構人気で、兵士になるやつの登竜門的な存在になってる。ああ見えて意外と、教育者としての適性があったらしい」

「あー、わかる。なんだかんだ、面倒見いいよな、あいつ。兵団に入団したばっかりのころの、めちゃくちゃ生意気だったお前にも、カル、とか言ってぐいぐい距離詰めてたのはびっくりした」

「……まぁ、あいつの女とひと悶着あった時は、さすがに殴られたが」

「あれはお前が悪い。まぁ、笑わせてもらったけど」

 懐かしい話を思い出して、思わず笑みが漏れる。

 ファムが殴りこんできた最初の一度だけは匿ってやれたが、狭い兵舎で永遠に遭遇しないことなど不可能なわけで――最終的にはブチ切れていたファムに『決闘だ!』と言ってその場で手袋を投げつけられていた。

 『いつの時代の男だ、お前は』とうんざりと言ったカルヴァンは、面倒くさそうに『もう金輪際あの女とは関わらないから、一回殴って終わりにしてくれ』と投げつけられた手袋を拾うことなく、あっさりと降参した。言葉通り、遠慮の"え"の字もないファムに思い切り殴られていたが、兵舎の往来激しい廊下でそんなことをしていたものだから、翌日には面白おかしく噂が兵士中に駆け巡ったものだった。大人しく殴られて左頬を赤く腫らして帰って来た相部屋の友人に話を聞いて、リツィードは自業自得だと笑ったのを覚えている。女を賭けて『決闘だ』などと時代錯誤甚だしい仰々しいことを言い出すファムもファムらしくておかしかったし、申し込まれた決闘を受けないなどという男の沽券に関わるような事態も飄々と受け入れて、さっさと面倒事を終わらせることを優先して大人しく殴られてやるのも、カルヴァンらしくておかしかった。

「リアムって、ファムの血縁だろ?目がそっくりだ」

「あぁ、年の離れた弟だ。兄貴と同じで剣の腕は確かだし――兄貴と違って、頭の回転が速い」

「ははっ…兄貴と一緒で、人付き合いも上手そうだ」

「そうだな。あいつが補佐官になって、格段に仕事がしやすくなった。感謝してる」

 本人の前ではめったに言わない、何の裏もない賞賛をさらりと口に出す。本人を前に言ってやればいいのに、とイリッツァは苦笑した。

「それから…そうだな、お前がいたころの兵団長は今――」

 カルヴァンは、記憶をたどりながら目の前の少女を見やる。

 少女が、ほんの少しの間でも心安らかにいられるように。

 王都の中でも、楽しかった記憶を、少しでも思い出せるように――


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