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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第四章

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54、『因縁』の場所

 目を閉じれば、思い出す。

 きれいに舗装された石畳。にぎわう人ごみ。大通りに出れば、どこかの店から食欲を誘う香しい香りが漂ってくる。やさしく敬虔な信者が住まう、エルムのお膝元は、明るく華やかな、一大国家の首都にふさわしい街並み。

 それは、かつて、自分が生まれ育った故郷であり――

 ――――自分が非業の死を遂げた、因縁の場所でも、あった。



「馬車にはリアムが乗れ。俺は外を護衛する」

「え?」

 朝になり、日がやや高く昇ったころ――レーム領からの出立準備の最中、当たり前のように言われた言葉に、思わず振り返る。しかし、声の主はすでに軽々と愛馬の馬上に居場所を移し、いつも以上に高い位置から灰褐色の瞳でイリッツァを見下ろした。

「馬車の中で、剣なんか振れるか。襲われるなら、外からなんだから、俺は外にいた方が有効だろう」

「いや…えっと…」

 それは、予想外の展開だった。イリッツァは、視線を迷わせ、額に汗をにじませる。

 確かに、昨晩の襲撃が、カルヴァンの危惧するように、聖女を狙う何らかの組織による犯行だったとして、もし王都に入る前に襲ってくるとしたら、この一団で最も戦闘力が高いカルヴァンは外にいるべきだろう。馬車の中で襲われるのを待っているよりも、馬車に敵がたどり着く前に迎撃してしまう方が格段に安全だ。車内で戦闘などできるはずもない。

「俺の魔法は火だからな。車内で使ったりしたら全員もれなく火だるまだ」

「それは困る…けど…」

 カルヴァンの言いたいことはわかる。わかるのだが――

「えっと…馬車に、一人で乗るのは、ダメなのか?」

「ダメだ」

 きっぱりと言い切られ、ぐっと言葉に詰まる。灰褐色の瞳は、感情を感じさせない乾いた瞳で少女を見下ろす。

「絶対に安全、なんてものはない。万が一っていうのは、どこにでもある。万が一、車内にまで敵がたどり着いたとき――剣なんか振れない車内で、お前はどうやって身を守る?」

「いや…それはこう、素手でなんとか…」

「お前は素手でもやたらと腕っぷしが強いのは知ってるがダメだ。万全を期す。リアムの属性は風だ。車中でぶっ放しても、巻き添え食って死ぬことはない」

 言って、イリッツァの後ろにいる蜂蜜色の髪をした青年を見やり、冷たく言い放つ。

「リアム。――万が一の時は、命を賭して聖女を守れ。骨は拾ってやる」

「ちょっ――!」

「言われなくても。――でも、なんか、団長に言われるのは気味が悪いですね…」

 敬虔な信徒たる一人として、神の化身たる聖女を守るために命を落とすことに、何のためらいもない。最高に栄誉な死に方だ。末代まで誇れる偉業だ。リアムは、そこに何の疑問も抱かないが――それを、神など信じないと豪語するカルヴァンに命じられるのは、なんだか複雑な気分だった。

「そんな、縁起でもない――っていうか、そんな命令を、上官が下すな!」

「はは、イリッツァさんはお優しい。大丈夫ですよ。神に殉ずるのは、これ以上ない誉れ。この命に代えて、貴女をお守りします」

 すっとひざを折って、完璧な所作で騎士の誓いを立てる。ぐっとイリッツァは言葉に詰まった。

 この敬虔な信徒にとって、正式な礼を取った『誓い』は、とんでもなく重い。本当に、有事の際には何のためらいもなく、その身を盾とし、凶刃の前に差し出すのだろう。そして、心から笑って逝くのだ。

 エルム教徒として、騎士として、それは息をするように当たり前のこと。

 ぐっと眉間にしわを寄せて、イリッツァは奥歯に力を入れる。

(そんなこと――これっぽっちも、望んじゃいないのに…)

 信徒は、聖女が守るべき対象だ。守られる対象ではない。少なくとも、イリッツァはそう考えていた。

(あぁ――母さんが、心を凍らせてたのは、こういうとき、なのかな)

 『聖女様のために』と言って、笑いながら喜んでその身を差し出す信徒。望むと望まざるとにかかわらず、有事の際にはわがままなどいっていられない。見極めの儀で聖女であると判明した六歳のころからずっと、王城の奥の神殿に囲われた少女に身を守る術などあろうはずもなく――そんなものを身に着ける必要性もない、と言われていただろう。そんなもの身につけなくても、周りが、彼女を、命に代えて守るのだから。

 だが、イリッツァはフィリアとは違う。自分の身を守る術を持っていた。それも、尋常ではない練度の術を。

 だからこそ、信徒は、彼女がその手で守るべき存在なのだ。聖女として、心も、その身も、すべてから守る力を、前世の時から授けてもらった。決して――聖女を守って死ぬ、など、そんなことは、してほしくない。

 もともと心が強くはなかった母は、六歳から放り込まれたその異常な世界に耐え切れず――心を、凍てつかせてしまったのだろうか。

「カルヴァン、やっぱりやめよう。一人で大丈夫だから」

「お前もしつこいな。聖女なら聖女らしく、大人しく騎士に守られていろ」

「いや、そうじゃなくて…」

 珍しく歯切れ悪く、イリッツァは言いよどみ、視線をさまよわせる。

「――…?どうした?」

 馬上から、不思議に思い声をかける。長い付き合いだ。――吐息一つで、お互いの機嫌や感情は、なんとなくわかる。

 よく見ると、イリッツァの美しい額には、陽光をはじくようにじっとりと汗がにじんでいた。

「――…ツィー…?」

 睫を伏せて、視線をさまよわせるようにする少女は、何か様子がおかしい。騎士に守られることを嫌がっているとか、何かあった時に死なせてしまうことを恐れているとか、そういうことではない、何かへの躊躇。

 イリッツァは、静かに瞳を閉じた後、苦し気に深呼吸をして――低く、静かに、口を開く。

「馬車には、一人で…乗る。誰も、乗せるな」

「……おい…?」

「どうしても、っていうなら、お前が乗れ。…お前以外は、認めない。騎士を誰も寄せ付けるな」

 ぎゅっと、視界の端に揺れる真紅のマントをつかむ。皺の入り方が尋常ではない。渾身の力で、つかんでいる証拠。

 どうにも様子がおかしいのを察し、カルヴァンはヒラリ、と馬上から地上へと降り立った。

「どうした。具合でも悪いのか」

「あぁ…お前、本当に、性格悪いよな…」

 やっと同じ高さに降りて来てくれた親友を見上げる。

「ツィ――」

 思わず言葉を失う。イリッツァの顔面は、蒼白を通り越して真っ白だ。

「わかっててやってるなら、ほんと、いい性格してる――」

「おい、急にどうした、大丈夫か!?」

 ふらっとよろけるように胸に飛び込まれ、慌ててその体を支える。

 イリッツァは、その逞しい胸に飛び込み――小さく、口を動かした。

 周囲には、聞こえない、微かなつぶやき。

「――――――――」

 一瞬、カルヴァンが硬直する。

 イリッツァは、再び口をかすかに動かし――

「……あ、あの…い、イリッツァさん、大丈夫ですか?宿に引き返して、薬でも――」

「いや、いい。――リアム、配置換えだ。馬車には俺が乗る。お前は外だ」

「えぇっ!!?」

 リアムの声は無視して、バサッと騎士団長の装束についたマントでイリッツァを隠すように包み込む。まるで、周囲の目から隠すように。

 長身のカルヴァンの腕の中にすっぽりと納まるほどの小柄な少女は、特に抵抗することもなくされるがままに従った。

 少女を一人腕の中に収めた英雄は、そのまま、ギロリと童顔の青年を睨む。

「走行中、誰一人馬車には近づくな。燃やすぞ」

「えええええ!?ど、どういうことですかそれ!?」

「うるさい、さっさと準備しろ」

 それ以上の追求を避けるように更ににらみつけると、釈然としない顔をしながらも、仕事人間のリアムは素直に従った。

 蜂蜜色の髪が完全に後ろを向いて去っていくのを見送った後、カルヴァンはマントに包んで隠した少女に目を落とす。

「…もう大丈夫だ」

「……あぁ…わり……ははっ…情けねー…」

「そんなことない。――すまない、完全に俺の落ち度だ。気が回らなかった。すまない」

「別に…てっきり今日も、一人で馬車に乗ると思ってたから…悪い、世話かけた。馬車、行く。わがまま言って悪かった。お前も馬に――」

「阿呆か。俺も一緒に乗る」

 きっぱりと言い切られ、驚く。

「え…なんで」

「逆に、なんでお前はこの状況で、お前を一人で馬車に乗せると思ってるんだ?」

「……お前、なんか、やたらと過保護だし。自分で言ったんだろ。車内じゃ守れないって――」

「今にも吐きそうな顔して、強がるな」

「ぅ……」

 イリッツァは、軽く目を眇めてぐっと喉を上下させる。確かに、酷く気分が悪い。

「いや…お前がいても、吐きそうなのは変わらな――」

「最初から、馬車の中で、独りで、恐怖に耐えるつもりだったのか?」

「――――――…」

 遮るように言われた言葉に、口をつぐむ。

「そんなに震えて――もう冬だぞ。汗が尋常じゃない」

「……ぅ…」

「お前――馬車で、独りで、隠れて、怖がってるお前を、どうして俺が放っておくと思ってるんだ。――俺の過保護を舐めるな」

「――――…自分でそれ、認めるのかよ…」

 憎まれ口は、力が籠められなかった。その弱弱しく震えた声に、カルヴァンはつい先ほど己の鼓膜を揺らした声を重ねる。

 倒れ込むようにして――周囲に聞こえないように、ほとんど吐息だけで告げられた言葉。

『――――あそこに行くのは――怖い、んだ』

『頼む――――信者に、こんな姿、見せられない』

 掠れるほど小さな声は、微かに恐怖に震えていた。

「あぁ――くそ、思い至らなかった自分に腹が立つ」

「いや…だから、別にお前が悪いわけじゃ――」

「やめるか、王都行き」

「はっ!?」

「いい。このまま俺と馬で逃げよう。――聖女の責務だのなんだの、くそくらえだ」

「いやいやいや…お前…ほんと、すぐ王都の前で逃げようとするよな…」

「悪いか。――お前のトラウマ刺激してまで連れていく場所じゃない」

 チッと口の中で、自分自身へのいら立ちをあらわに舌打ちする。

 王都は、イリッツァにとって――リツィードの、最期の記憶の場所だ。

 住民に石を投げられ、火をかけられ、胸を貫かれ――この世のものとは思えぬ苦痛を受けた。謂れのない罪に浴びせかけられる怨嗟の声。早く殺せ、とはやし立てる、自分が聖人として守るべきはずだったはずの信徒たち。

 記憶が戻ってしばらくは、毎晩夢に見てうなされるくらいには、嫌な記憶だった。のちに『稀代の聖人』の美談として語られるあの日の出来事は、何も知らない国民にとっては涙なくして語れぬ美しい悲劇だろうが、渦中の本人からすれば、激痛と絶望の記憶以外の何物でもない。

 そんな、自分が死んだときの最悪な記憶をまざまざと思い出す場所へ、当たり前のように連れていこうとしていたのだ。つい、外見がイリッツァになっているから失念していた。そんな自分が、カルヴァンは本当に許せなかった。

 もし今、イリッツァが「王都になんか行きたくない」と泣いて縋れば、カルヴァンはたやすくその小柄な体を小脇に抱えて愛馬にまたがり、何のためらいも見せず、颯爽とこの場から王都と真逆の方向へと駆け出すだろう。――イリッツァのそういうときの泣き顔はきっとこれ以上なく可愛いし、それくらいはお安い御用だ。

「というより――俺は、今、お前にもムカついてるって、ちゃんとわかってるか」

「え…なんで」

「こっちのセリフだ。――何故、最初から、頼らない」

「――――…」

 ぱちり、と薄青の瞳がカルヴァンを見上げて瞬かれる。

「その顔は、そんなこと思いつきもしなかったって顔だな…」

 渋面を作って呻く。――本当に、この親友は。

「お前、これで過保護になるなって、無理だろう。――お前は本当に、すぐに、独りになろうとする。人に偉そうなこと言える立場じゃないぞ」

「え…あ…これも、そうなる…のか…?」

「当たり前だろ。もし、お前が独りで乗って馬車の中でガタガタ震えながら絶望の記憶と隠れて戦ってたとして――後からそれを知ったら、俺は少なくとも、死にたくなる」

「えぇ……過保護……」

「守るって言っただろう。――命だけじゃない。お前の、心も、全部、守る。お前を苛むものから、すべて、守るんだ」

 いつになく真剣な顔で告げてから、大きく嘆息する。

「…やっぱり、そこまでして行かなくてもいいだろう。聖女なんか居なくても国は回る」

「はは…そういうわけにもいかないだろ。きっと、王都は今頃お祭り騒ぎで俺を待ってる」

「――くそくらえだ」

(お前に石を投げた奴らだぞ)

 心の中で吐き捨てて、カルヴァンはイリッツァの肩を支えるようにして馬車へと歩き出す。

「お?…行ってくれるんだ?」

「――何かあったら、すぐ連れ出すからな」

 本当は、連れて行きたくなんかない。ただでさえ、聖女として幽閉される可能性がある場所だ。ごまかして存在を隠してしまえるなら隠してしまいたかったが――彼女の嫌な記憶を呼び起こす場所だと思い至った今は、前にも増して、今すぐにでも連れ去ってしまいたい。

 それでも――きっと、連れ出したら、イリッツァは瞳に影を宿すだろう。

 今にも吐きそうな顔をして、がたがたと恐怖に震えて――それでも、王都を目指すことを選ぶ。

 そこに――聖女の救いを求める、信者がいるから。

 彼らの期待を裏切ったことを、彼女はずっと、心の中で己を責めるだろう。カルヴァンは、イリッツァに暗い顔で一生を過ごしてほしいわけではない。

(――俺が、守ればいい)

 恐ろしい記憶に震えるなら、しっかりと抱きしめてやればいい。怨嗟を晴らしたいというなら、代わりに剣を振るおう。安寧がほしいというなら、自分が与えてやればいい。

 神になんぞ、任せてやらない。

 自分が――自分の手で、彼女に、与える。

 彼女の心に、救いと永遠の安寧を。


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