53、違えぬ『誓い』②
「お前の泣き顔、好きなんだ」
「――――――――――――――――――――は…?」
ぽかん…
鳩が豆鉄砲を食ったってそんな顔しない、というくらい、イリッツァは呆けた顔を見せた。
なかなか見ない表情を見せてくれたことには感謝しながら、カルヴァンは気まずさをごまかすように視線を逸らせた。
「瞳に涙いっぱいに溜めて今にも零れ落ちそうなのを必死にこらえてるのも――これ以上なく号泣しながらしゃくりあげてるのも。どっちも、いい。何回見ても飽きない」
「――――――――――は――????」
「しかも、俺に向かって『置いてかないで』とか言いながら。――いい。何百回見てもいい。何千回でも見たい」
「は…?お、おま…本気で、何言ってんの…?」
ひくっ…と顔を引きつらせながら言われ、カルヴァンは嘆息した。
ナイードを出立した初日の、馬車の中でのやり取りを思い出す。あの時のイリッツァは最高に可愛かった。相手が親友だとか元男だとかそんなことはすっかり忘れて、思わずその桜色の唇に口づけてしまう程に。
「いや…わけわかんない…今すぐ誓え」
ひくっ…と世界一の美少女が、頬を引きつらせてドン引きしているのがわかる。…怒られることすらなかった。これほど引かれるとは。
「…どうしても?」
「どうしてもだ!!!!!」
食い気味に言われて、諦めて嘆息する。――あの日の記憶だけを頼りに生きていこう。
「わかった。――誓う。もう、お前を置いて勝手に死のうとしたりして、あんな風に泣かせたりしたい」
「ぜ、絶対だぞ!」
「あぁ。――今後、お前を泣かせるのは、ベッドの中だけだ」
きょとん、と薄青の瞳が何度か目を瞬く。
「………?」
意味が分からなかったのだろう。疑問符を上げ、何度か長い睫が上下して風を送る。カルヴァンの言った意味をゆっくりと反芻して考え――
「――――――――!!!????」
意味を理解した瞬間、バッと急に胸に腕をつっぱるようにして逃れようとする。寝台の中でしっかりとこの男に抱き込まれて密着している危機的状況を思い出したのだろう。
「逃がすか」
「や――いやいやいやいや、いっ、意味わかんねっ…おま、何言ってんの!!?そ、そーゆーのは求められても困るぞ!?」
「結婚するんだろう?」
「愛もくそもない結婚に、そんなこと関係あるか!!!」
「ひどいな、お前に愛はないのか」
「ゆ、友愛はあるけど――そんな、爛れた性愛は持ち合わせていない!」
真っ赤になって必死に腕の中から逃れようとする親友を、笑いながら捕まえる。こんな風にじゃれつくようなやり取りが出来る女は、後にも先にも、イリッツァだけだろう。
「ってゆーか、元気になったならもう寝ろ!俺ももう自分のベッドに戻って寝る!」
「ここで寝ればいいだろ」
「下半身暴れ馬な男と同衾するような貞操観念は持ち合わせてねーーー!!!」
バタバタ暴れて寝台から逃れようとする華奢な少女を無理矢理捕まえて腕の中に引き込み、後ろからしっかりと抱き込む。
「――ツィー。いいだろ」
「よ、よくな――」
「今日は、ここで寝てくれ」
「――――――」
囁くように言われた声音に――いつもの軽さがないことに気づいて、イリッツァは抵抗を辞めた。
後ろから抱き込まれているせいで、顔が見えない。
今、雪国の空を瞳に宿した男は、どんな表情をしているのか――
想像するしかできなくて、イリッツァは少し押し黙ったあと、そっと口を開いた。
「…もしかして、さ」
「…何だ?」
「――さっきの夢、昔の俺が、出てきた?」
「――――――――…」
ぐ…と後ろから回された腕に力がこもる。沈黙は、肯定だろう。
「…お前、ほんと、意外と俺のこと大好きだよな」
「悪かったな」
ははっ、と笑って言われて、憮然と呻く。くるり、とイリッツァは器用に腕の中で反転し、体ごとカルヴァンを向いた。
「それって、さっきの事件が関係してるか?」
「――…」
灰褐色の瞳がすっと伏せられる。しばし瞬きをしたあと、静かに口が開かれた。
部屋に差し込む月明かりが、いつの間にか陰っていく。
「あの傷口は、戦士の剣にやられた傷じゃない。職業的暗殺者のやり口だ。喉をぱっくりと、暗器か何かでためらいなく裂かれてた。ほとんど抵抗らしい抵抗をした様子がなかった。相当の手練れだろう」
「…うん」
イリッツァは、つい数刻前の出来事を思い出す。
見張りに立っていたのは、ブリアから借りてきた兵士二人だった。彼らと、拘束していた闇の魔法使いが襲われた。すぐに周辺に兵をやって調べさせたが、犯人の影はどこにもなかった。
王都に入る直前の犯行。国家の精鋭兵である騎士ではなく、ブリアからの借り物の兵士が見張りに立っていた時を狙ったかのようなタイミング。明らかに暗殺を生業としたものによる殺害方法。
誰が見てもわかる――拘束された魔法使いの口封じが目的だろう。
「誰か――後ろで、糸を引いている奴がいる」
「あぁ」
「もし、十五年前の事件も、後ろで誰かが手を引いていたら」
「…あぁ」
「――今回と、同じ、奴らだったら」
「――――…うん」
カルヴァンの声が、微かに震えたように感じた。イリッツァは、ただうなずいて言葉を聞きながら、灰がかった藍色の髪に手を伸ばす。先ほどのお返しとばかりに、さらり、と頭を撫でた。
「結界が外れた瞬間に、ナイードが襲われた」
「うん」
「力を試したいだけなら、騎士団を襲っただけで十分だったはずだ」
「うん」
「騎士団を壊滅させて、十分な力だと、わかったはずだ。きっと――ブリアを攻めたって、軽く壊滅状態に出来た」
「…うん」
「どう考えても、普通ならブリアを攻める。力を誇示したい愉快犯なら、十分な戦力を有するブリアを攻め落とすほうが楽しいだろう。領地の乗っ取りを企てるような奴ならなおのこと、鉄鋼の産地のブリアはこれ以上なく魅力的なはずだ」
「あぁ」
「それなのに――わざわざ、ナイードを、狙った。何のうまみもない、辺境の、小さな領土を」
「…あぁ」
「あの領土には、何もない。何も――聖女の結界以外、何も」
「―――――…」
「闇の魔法使いなら、知っていたはずだ。魔物をけしかけても決して侵攻できない領地――そこに、聖女がいることくらい、予想がついたはずだ」
「そうかもな」
「っ――…聖女をっ…狙った――!」
ギリッ…とカルヴァンの奥歯が不穏な音を立てるほど強く噛みしめられる。ぎゅぅっとイリッツァを抱きしめる腕の力が強くなった。
「聖女を狙っただろう闇の魔法使いが失敗して――王都に着く前に暗殺された。情報が漏れることを危惧した人間による犯行だろう。後ろに、誰かいる。計画的に聖女の命を狙う、誰かがいる」
「…うん」
「十五年前の連中の、報復だったら。リツィードに――"聖人"によって、国家転覆計画を台無しにされた、報復だったら――!」
「……うん」
「っ――――――」
骨が軋むのでは、と思うほど強く抱きしめられ――イリッツァは、なすがままにされながら、変わらずカルヴァンの髪を梳いた。
「絶対に――絶対に、そんなこと、させない」
「…うん」
「今度こそ――守る。絶対に…っ…もう二度とお前を、殺させたり、しない…!」
「はは…相変わらず、俺に対してだけは、やたらと愛が重いな、お前」
茶化すように言いながら、ふわり、と笑う。
「大丈夫だよ。――知らなかったか?俺、たぶん、剣を持たせたら、そこらの兵士より強いんだ」
「…知ってる。そこらの『騎士』より――『英雄』より、強い」
訂正する軽口は、まだ、重い響きを伴っていた。イリッツァは苦い笑みを刻んで、ゆっくりと藍色の髪を撫でる。
「闇の魔法使いは、びっくりしただろうな。ナイードの結界がなんでか急に破れたから、急いで侵攻してきたんだろうけど――死んだと思ってた鬼みたいな騎士団長は生きてるし、強力な光魔法が使える以外は普通のか弱い女の子かと思った聖女は、剣を持って前線で戦うような奴だし」
恐らく、王国最強と言われていた騎士団長が死んで、負傷兵も多く壊滅寸前の騎士団を狙い、再び心の隙をついて闇の魔法で操って聖女を殺させようとしたのだろう。おそらく、イリッツァが頑なに正体を隠していたため、誰が聖女なのかがわからず攻め込めなかった十五年間――あの日唐突に解けた結界を見れば、すぐに察しはついただろう。少女が寝込んで初めて、ずっと解けなかったはずの結界の効力が消失したのだから。
光魔法は直接的な物理攻撃から身を守るような効果はない。光魔法の結界は、魔物の侵攻を防ぐだけで、武器による攻撃は防げないのだ。聖女の正体がイリッツァだとあたりを付けた犯人はほくそ笑んだはずだった。十五年、争い一つない平穏な領土で見習い修道女として育った少女を殺すくらい造作もない――と考えただろう。
――まさかの事態に、すべての計画が狂ったわけだが。
「明日から、不安で仕方ない。――数日、お前の傍に、いられない」
「あぁ――…なるほど。それでお前、そんな、不安そうにしてるわけか」
困ったように笑って、納得する。
すでに、王都には早馬で伝令を飛ばしてある。王都には、聖女降誕の知らせが駆け巡っているはずだ。おそらく明日は、熱狂した王都民が出迎えるだろう。
そして、待ち構えていた教会関係者にイリッツァは引き渡される。カルヴァンは、一度兵舎に戻って事後処理を進める必要がある。
お互いの用事が終わり、顔を合わせられるのは、どんなに早くても一日~二日後になるだろう。王族と教会関係者が出揃う遠征報告のその場で、当初の予定通りの茶番を繰り広げ、結婚を認めさせる。――それが叶ってやっと、晴れて公式に傍にいられるようになる。
「もし、俺が傍にいないときに、お前の身に何かあったら――俺は、今度こそ、自分を許せない」
「はは…心配性だな、お前」
「何せ、屈強な兵士だった時ですらお前はあっさり敵の手に落ちて死んでるからな。今のか弱い女の姿で、何を安心しろっていうんだ」
「うーん、なんか悔しい言われ方だな。それ」
今のイリッツァでも、剣を振らせれば、技の面では最強だろう。だが、力だけは性別の限界を超えられない。前世のころよりも、無理矢理襲い掛かってどうにか出来る可能性は高いはずだ。相手の正体がわからない以上、どんな手で来られるかもわからない。用心は、してもし足りない。
「絶対、常に帯剣していろ。寝るときも、ずっとだ。何かあったら、昼でも夜でも全力で俺のところへ逃げて来い。兵舎の場所くらい覚えてるだろう。全部の仕事放り出して駆けつける」
「過保護すぎないか?」
「うるさい。いいんだ、これくらいで。少し目を離すと、すぐに勝手に死にたがるのはお前も一緒だろう」
「う…」
痛いところを突かれて、気まずげに呻く。
「でも、神殿には帯剣して入れな――」
「わがままを押し通せ。絶対剣を手放すな」
「いやいやいや、さすがに無理だってそれは――」
「なら、今、ここで、お前を攫って逃げる。王都には行かない」
「――――――――――いやだから。過保護すぎだろ、お前」
呆れ返って眉を下げる。親友の愛が重すぎる。
(まぁでも――仕方、ないのか)
カルヴァンは、人生で手を取るのはイリッツァだけだと宣言している。もしも一生涯のうちに誰かに愛を与え、与えられる総量が決まっているとして――本来、複数の人間に分散されるはずのその愛を、彼は、たった一人の親友だけにしか注がないと言っているにも等しいのだ。当然、その重さは尋常ではない。
「ツィー。…誓っただろう。もう、俺を、独りにしないんじゃなかったのか」
「しないけど…うーん…」
困り果てた後、イリッツァは妥協点を探し出す。
「…じゃあ、短刀を懐に隠していく。さすがに、堂々と腰に剣差して入るのは無理だ」
「………神殿には、護衛の兵士や騎士は入らないのか」
「王族付きの近衛兵が、警備するはずだけど。騎士と同じくらい優秀な奴らだよ」
知ってると思うけど、と付け足すと、カルヴァンは少しだけ嫌そうな顔をしながら――しぶしぶ、うなずいた。
「何かあったら、近衛兵を殴り倒してあいつらの剣を奪って戦え。お前が持ってた方が有効に使える」
「お前は、俺を信頼してるのかしてないのかどっちなんだ」
「…剣の腕は、信頼してる。誰よりも。――でも、お前の運の悪さも、痛いほど知っている。目を離すと、すぐに不幸や面倒事に巻き込まれる」
「ははっ…なんだそれ、面倒事に巻き込んでた張本人が、よく言う」
思わず笑い飛ばしてから、ぎゅっと安心させるように軽くその背に抱き付いた。
「大丈夫だよ。神様の名前を出して誓ったことを、俺は違えない。――もう、カルヴァンを置いて、独りで死んだりしない」
「――――いまいち不安だな…」
「そこは信じろよ、親友の言葉を」
言いながら、広い胸板に頭を預けるようにして目を閉じる。
「もう寝ようぜ。――ちゃんと、今日は、ここにいるからさ」
「――…あぁ」
こうして、親友が腕の中にいる間は、安心できる。何物からも守ることが出来るから。
「おやすみ、ヴィー」
「――おやすみ、ツィー」
少年時代、毎日同室でベッド越しに交わした挨拶を、十五年を経て、まるで恋人同士かのような距離で交わす。しかしそこに色めいた響きは全くなく、ただお互いの存在を確かめるようにして目を閉じた。
長いようで短かった旅路の最後の夜が、静かに更けていった――




