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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第四章

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52、違えぬ『誓い』①

 寒い。――凍てつくように、寒い。

 ガチガチと歯が鳴るのを止められない。己を落ち着かせるようにはあっと吐きだした息は、真っ白に染まっていた。

 ――知っている。これは、夢だ。

 わかっている。もう何度――何千回も見た夢。

 それでも――頭の片隅で、これが夢だとわかっていても、震えだす体を止められない。

「っ…ツィー…!」

 はぁっ…ともう一度熱い息を吐き出し、必死に足を動かす。現実よりも若い身体のはずなのに、なぜか思ったように動かない。

 本当は――馬に乗っていたはずだった。だが、なぜか今日は、馬がない。必死に、己の足で、全力でかける。

 セピア色の幻のような王都を必死に駆ける。わき目もふらずに向かうのは、王都中央広場。

 鈍色の空から、絶望を連れてくる白い粉がひらりと舞い始める。

(やめろ――やめてくれ)

 舞い散る雪に、心の中で無意識に、あの感情のない雪女を思い出し、懇願する。

 ――連れて行くな。

 連れて行くな。連れてなんて、行かせない。

 孤独な息子を最後の最後、死の瞬間まで苛み続けた悪魔のような雪女。凍てついた薄青の瞳は、最後まで息子を見て優しく緩むことはなかった。

『なぁヴィー。なんで、母さんは死んじゃったのかな』

 墓標の前で、ポツリとつぶやいた親友の抜け殻のような声。

『――――俺が、いたのに』

「っ――…!」

 凍てつく外気に喉をやられ、カッと喉の奥が熱を持つ。

 聖女でありながら、一人の女として、一人の男を愛した――それだけだ。それは責められることではないだろう。

 だが――どうして、その愛情を、たった一人の息子にも向けてやることが出来なかったのか。

 きっと、一度で良かった。

 「リツィード」と名前を呼んで、優しく笑んで。

 それだけで、よかった。

 神の慈悲などいらない。――母の愛があれば、それだけで。

 夫を亡くし、心を病んだ母に、リツィードは懸命に寄り添った。日に日に、泣きながら狂っていく母を――十五年、一度だって己をその瞳に真の意味で映してはくれなかった女を、それでも、懸命に支えた。

 亡くなった父の分も、自分が支えると。父がいなくても、自分がいるのだと。

 何度も何度も――自分を顧みることのない瞳に、伝え続けた。

 心を壊し、赤銅色の髪を見て、父を重ね、最後は名前さえ呼んでもらえなくなった。現実と幻の間で惑う母を、リツィードは眉根を寄せて、それでも必死に現世に繋ぎとめようと手を取った。

 子供が親の手を取ることに、理由などない。

 聖職者は誰の手も取らない、と言っていたリツィードが、無意識に、生まれた時からずっと握ろうと伸ばしていた掌。

 それでも――彼女は、聖女の責務を守るかのように、子供の手を握り返すことは、なかった。

 己の部屋で――風に揺れるミオソティスを眺めるようにして、部屋の中で首を吊った聖女を、一番最初に見つけた息子は、何を思ったのか。

(今更っ――ツィーのことなんか、愛してないだろう…!)

 灰色の中に混じる白が、すべてを隠していく錯覚。あの雪女が、気まぐれに息子を、生前よりも深く絶望的な孤独の世界に包み込もうとしているようで――

「リツィード!!!」

 叫びながら、中央広場にたどり着く。

 あぁ――夢だ。これは、夢だ。

 だって――本当は、間に合わなかった。

 だが、記憶の中では耳が痛いほどの静寂に包まれ、誰もが絶望に頽れていたはずのそこは、無情な灰色の世界の中で、熱狂の渦に巻き込まれていた。

 勝手な記憶のねつ造だ。人に聞いた情報で、当時を勝手に思い描く、脳の幻想だ。

「くそっ……どけ!」

 わかっていても――熱狂の渦の中に飛び込むことを止めることなどできない。必死に、何も考えずに人ごみの中に飛び込む。

 だって――

 中央の、処刑台には、まだ――

 まだ――生きた、リツィードが――

「火を放て!」

「やめろぉおおおおおおお!!!!!!」

 耳に響く断罪を告げる言葉に、全力で怒号を飛ばす。

 あぁ、どうして、進めない。

 必死に、揉みくちゃにされながら、親友の死に熱狂する狂気をはらむ王都民を押しのける。彼らは手に石礫を持ち――躊躇なくそれを、処刑台へと放る。その瞳に浮かぶのは――狂喜の光。

 ――あぁ、全員を斬り伏せたい。魔法で全部を、焼き払いたい。

 だけどなぜか、夢の中では、どちらも実行に移せない。――もしこれが現実だったら、何一つためらうことなく、ここを地獄絵図へと塗り替えてやっただろう。

 ごおっ

「――――――ツィー!!!!」

 灼熱の業火が、一瞬で親友を飲み込む。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 耳を劈く、絶叫。

「ツィー!!!!!」

 通してくれ、通してくれ、頼む。

 今すぐそこに、行かせてくれ。

 想像を絶する激痛に、いつも張り付けていた笑顔からは想像できない苦悶の表情で叫び声をあげる親友に、必死に手を伸ばす。

 助けられないなら、せめて。

 ――せめて、一緒に、逝かせてくれ。

 耳を塞ぎたくなるような絶叫の中で――もっと、耳を塞ぎたくなる、声が。

「ヴィー!!!!」

「っ――――!」

「助けてっ…助けて、助けて、お願い、ヴィー!!!!」

 あぁ――――――

 やめてくれ

 やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ

 それは、ずっと聞きたかった言葉なんだ。

 いつだって、するりと手を抜けていきそうな赤銅の髪をした天使の手を必死につかんだ十年。

 己の不幸と孤独にひどく鈍感な彼に――ずっと、助けを求めて、欲しかった。

 ずっとずっと焦がれたその言葉を――やっと聞けた、唯一にして最後の彼の望みを、どうして自分は、たった一つも、叶えてやれないのか。

「ツィー!!!!」

「ぁぁああああああああああああああああ」

 なすすべもなく真っ赤な炎に包まれていく親友。

 あぁ――やっぱり

 ――――――やっぱり、神なんて、存在しない――



「――――――――――っ!!」

「ぅおっ…」

 ガバッと全力で布団をはねのけて飛び起きると、寝台の脇にいた薄青の瞳が驚いたように見開かれた。

「ハッ…ハッ……」

「だ…大丈夫か…?すんごい、うなされてた、けど」

 月明かりだけが差し込む薄暗い室内で、薄青の瞳に浮かぶ黄金の聖印。飛び起きた時にひっこめられたらしき右手を見るに、おそらく光魔法で鎮静だか安眠だかの魔法をかけていたのだろう。

 もう冬の入り口だというのに、全身がぐしょりと冷たい汗で濡れそぼっていた。まるで、夢の中のように全力疾走した後かと錯覚するほど、息も脈も荒れ狂う。

「…ツィー」

「お…おう……」

 自分が、どんな顔をしていたのかはわからない。少し驚いたように、少女はうなずいた。

 もう、夢の中の赤銅はない。息子を連れ去った雪女と同じ、白銀の髪。薄青の瞳だけは、あのころと変わらない。

「ツィー」

「な…なんだよ……」

 ふにゃ、と少女の眉が下がる。困ったときにする表情。

 あのころと何も変わらない。――何も。

「っ………!」

「ぅわ!?」

 たまらなくなって、ぐっと寝台の中に引き入れ、そのまま腕の中に閉じ込める。

 ――――生きている。

 生きて、今、ここに、いる。

「ちょっ――おい!!?」

 貞操の危機を感じたのか、慌てたように抵抗されるが、無理矢理力でねじ伏せる。

 どうしてだろう――柄にもなく、泣きたい。

「ヴィ…ヴィー…?」

 親友の様子がおかしいことに気が付いたのか、イリッツァはおずおずと声をかける。ぎゅぅっと腕に力を籠めることで、その問いかけへの答えを封じ込めた。

 十五年前のあの日以来、何度となく見てきた悪夢。

 生まれて初めて助けを求めてくれたはずの親友を、助けることが出来ないまま目覚める、いつもの夢。

 いつもいつも、この夢を見た後は吐きそうだった。夢の中で彼を助けられなかった自分も、現実には助けすら求めてもらえなかった自分も、全てに嫌気が差して、いっそ、自分で命を絶ってしまおうかと思うくらいには死にたくなった。もう一度夢の中に戻って、あいつを助けることが出来たら、もしかして現実が変わる――なんて馬鹿げた奇跡が起きてくれないか、とらしくもなく考えたことが何度もある。

 初めてだ。――目覚めて、安堵の気持ちを、抱いたのは。

「――――――絶対に、助ける」

「へ…?」

「今度こそ、守る。絶対に」

「――――――……」

「もう、独りで――死なせたり、しない」

 ぎゅぅっと抱きしめる腕に力を籠め、蚊の鳴くような声で、耳元に告げる。それは、きっと――己への、誓い。

 イリッツァはしばしされるがままになった後――ゆっくりと、親友の背中に手を回した。

 今日、教えてもらった、ハグの仕方。初めて嗅いだ親友の香りは、とても心が落ち着く不思議な香り。

「うん。――――うん。大丈夫。もう、ヴィーを、独りにしたり、しない」

「――――絶対だ…お前の神とやらに、誓え」

「うん。――誓うよ」

 目を閉じて、ゆっくりと、しっかりと言い切った言葉に、やっと心の奥が解れていくのを感じる。神の名を出してイリッツァが誓った以上、それは絶対に違えることはない約束となる。ふ、と安堵の吐息を気づかれぬように漏らし、ぎゅっとイリッツァを抱く手に力を込めた。

「――…お前も」

「…?」

 胸に顔をうずめているせいか、くぐもった声が聞こえて、カルヴァンは疑問符を挙げながら少し力を緩めた。珍しく大人しく腕の中に抱かれたまま、イリッツァは言葉をつづける。

「お前も、誓え。――もう…俺を、置いていったりしないって――誓え」

「――――――――――――」

 ドクン、と心臓が一つ、音を立てた。

 ずっと欲しかった言葉。

 カルヴァンは望み通り口を開こうとして――

「…ちゃんと、誓ってくれないと安心できない。神様にじゃなくていい。もう、あんな風に泣かせないって、約束してくれ」

「――…あー…なるほど…そうきたか…」

 一度開きかけた口を閉ざしてから困ったように呻く。カルヴァンはごまかすように、少女を胸に抱いたまま、絹のような手触りの髪を梳いて、即答を避けた。

「っ――な、なんでっ…!」

「いや、別に、嫌なわけじゃないんだが」

 ほんの少し震える声で責めるように言い募ろうとしたイリッツァを手で制す。

「というか、昔、誓っただろう。――お前を友にして、常に傍にある。独りになんかしない」

「あれはリツィードにだろ!今の俺にも、誓え!」

「……あー…」

 再び呻いて、手慰みのように青みがかった白銀の髪を撫でる。その小さな頭の向こうにある窓から差し込む月光の薄明りを見るともなしに見ながら、何と答えるべきか窮した。

 ひくっ…とイリッツァの喉が鳴る。親友が答えに窮している気配は、すぐにわかった。

「っ…な、んで――ど、して――!」

「いや、だから。嫌なわけじゃないんだが――…」

「じゃあなんだよ!」

 カルヴァンを睨むように見上げたイリッツァの瞳は、ほんの少しだけ、涙の気配が見えた。

(あー…――正直に言ったら、ブチ切れられそうだな…)

 誓いを立てる前から早速泣かせそうになっている現状に、カルヴァンはため息をついて――怒られるのを覚悟して、本音を告げた。

「泣かせないっていうのも、誓わなきゃダメか?」

「へ――?」

「独りにしない、置いてかない。――それだけ、誓ったら、ダメか?」

「な――…なん、で…?」

 本気で、言われている意味が分からないのだろう。困惑しきった表情でイリッツァが見上げて来る。

 長い睫の縁に、一瞬だけ浮かんだ涙の残滓が残っていた。

(――――あぁ、やっぱり)

「お前の泣き顔、好きなんだ」

「――――――――――――――――――――は…?」


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