50、事態の『急変』①
「んぁ~~~っ…」
馬車を降りたとたん、イリッツァは間抜けな声を上げながら大きく体を伸ばした。すでに西の空が朱くなり始め、東にはひときわ輝く一番星。
王都に一番近いここ、レーム領の一番端の街で一泊することになった騎士団一行は、目的地を目前につかの間の休息に入ることにした。ナイードを出立してから約三日。何も問題がなければ、明日の昼には、王都に着くはずだ。
「あ~~~…もう、体、バッキバキなんだけど…途中休憩したり街に寄ったりしたとしても、馬車で三日はさすがにキツイ…」
「車中で寝なかったのか?」
「少しだけ。さすがに振動と騒音でゆっくりとは寝られなかった」
宿の厩に愛馬を繋いで帰って来たカルヴァンの前で、ぐっ、ぐっ、と腰を回しながら答える。おしとやかな聖女様とは言い難い仕草だが、本人は全く気にしていないようだ。
「やっぱり、俺も馬に乗せてもらえばよかった」
「…リアムあたりが卒倒するからやめてくれ」
「暇で暇で仕方なかった。お前が馬車に乗ったの、初日だけじゃん。ずるい」
「目的は果たしたからな」
しれっと涼しい顔で受け流され、イリッツァは苦い顔をする。
王都までに口説き落す、という宣言通り、カルヴァンはしっかりとイリッツァを口説き――説得し、結婚を承諾させた。彼が、乗り慣れた愛馬ではなく、わざわざその長身を窮屈な馬車に押し込んでまで達成したかった目的は、あっさりと初日で達成されてしまったので、カルヴァンは翌日からは車中にイリッツァを置き去りにして普通に愛馬に股がり旅路を進んだ。
初日の夜、車窓からとんでもない行いをしていた上官を見かねたリアムに懇々と『聖女に対する正しい振る舞い方とは』というテーマで、イリッツァの目がない場所で小一時間ほど説教されたということも背景にあるのだが、格好がつかないので黙っておく。
「闇の魔法使いは大人しくしてるのか?」
「あぁ。最初のうちは往生際悪く色々試していたみたいだが、そのうち無駄だと悟ったらしい。虚ろな目で大人しく従ってる。ただ――道中、騎士が入れ代わり立ち代わり、車中で何度も情報を引き出そうとしたが、口は堅い。目は虚ろなくせして、そこだけは頑固だ。――諦めてるわけじゃなさそうだ」
「ふぅん…一応、後から騎士の皆の聖印に加護かけなおすから集まれって言っておいてくれ。何かあってからじゃ遅い」
「あぁ」
出立前に、騎士の胸に輝く聖印飾りに、イリッツァは光の加護を付けておいた。闇の魔法に決して屈さないお守りだ。魔法使いは、馬車そのものに掛けられた光魔法によってその力を封殺されただけではなく、周囲を取り囲む騎士も加護を身に着けているせいで、完全に無効化されていた。
「宿には入れないんだろ?」
「あぁ。見張りを立てて馬車の中でお留守番だ。――外に出して、領民に魔法でもかけられたらたまったもんじゃない」
「…宿全体に封殺の魔法張るか?」
「そんなことしたらお前が目立つ。――そもそも、闇の魔法使いなんぞに配慮なんかいらない。お前が言うから大人しく見逃してやってるが、俺は本音を言えば今すぐにでもあの首を叩き落としたいんだぞ」
表情を変えないまま、ぞっとするほど冷え切った声で言われ、ごくり、とイリッツァはつばを飲み込む。この友人は、十五年前のトラウマに触れられるたび、思い出したように冷酷無比な鬼神の顔をのぞかせる。
「なんていうか――…お前がそうやって静かにブチ切れてるの見ると、俺、意外と愛されてたんだなーって思うわ」
はは、と苦笑いで言うと、灰褐色の瞳がちらりとこちらを見た。
「自覚がないようなら、今日は同じベッドで寝るか?」
「いやいやいやいや、ベッドは!!!ベッドは!!!!別で!!!!出来る限り距離を離した状態で!!!!!」
本気で冷や汗をかいて必死に言い募る。
「聖女様に野営などさせられない」と言って、夜は必ずどこかの街に寄ってちゃんと宿屋で暖かい布団で眠らせてもらえている。初日の夕方、兵士時代に野宿など何度も経験しているから気にしない、それよりも行軍を早めようとカルヴァンに告げようとしたが、真っ青な顔で檄を飛ばすリアムの悲壮な顔を見て、可哀想になって思わず口をつぐんだ。きっと、王都に帰ってから、彼には今の五倍くらいの心労をかける。主に、神の化身たる聖女と結婚するのだと言い張り周囲を振り回す騎士団長の傍若無人な振る舞いによって。
確実に訪れる哀れな近い未来を思って、せめてあと数日は、リアムの心が平穏であるように――と願わずにはいられなかった。
「いい加減お前も慣れないな」
「女の聖職者が男と同じ部屋で寝る時点でかなりの譲歩だろ!!!!!」
「ついこの間まで普通に二人部屋で暮らしてただろ。兵舎の大浴場で当たり前に風呂も入ってた」
「いつの話だ!」
十五年も前の話を、『ついこの間』とか言い始めたら、それはもう完全にイイおっさんだ、という言葉は一応心にしまっておく。自分も、昔のことを『ついこの間』と感じることがあるので、いつか口を滑らせたときに特大ブーメランになること必至だ。
カルヴァンが言うところの『慣れる』ために、宿泊する宿屋では、部屋を同室にすることを強制された。当然、リアムやそのほかの騎士たちは顔面蒼白になったが、万が一の事態に備えて護衛を付けておく必要があると告げると、ぐっと全員が黙った。『お前たち、護衛のために、聖女と同室で一晩、二人きりで夜を明かす勇気があるのか?』というカルヴァンの問いかけに、全員が緊張で顔を白くしたからだ。
そんな神に触れるかのような罪深い行為――神を信じないカルヴァンにしかできない。
その後、承諾したくせに何やら神妙な顔をしたリアムに、宿の裏手に連れていかれて、懇々とお説教と万が一の過ちなど絶対にないようにと念押しされたのは別の話。
「お前はもう少し甘い雰囲気とか色気とかを出せるようにしておけ。一回、そこらの女ひっかけて来てお手本の反応見せてやろうか。トロンとした目で即抱いてとか言ってくるぞ」
「お前…結婚を申し込んだ相手に何見せようとしてるんだ…」
ひくっ…と頬を引きつらせて全力でドン引きするイリッツァに、左耳を掻いて嘆息する。どうにも将来妻になる予定の女は、考えが固すぎる。
「とりあえず、抱き寄せられたくらいで真っ赤になって硬直するのを明日までに何とかしろ。失敗はできないぞ」
「ぅ…はい…」
口の中で呻くように返事をする。未来の夫と交わすには色気のない会話だが――それでも、お互いの要求を通すためにはやり通さなければならないことなのだ。
イリッツァは、今から夜の時間を思って憂鬱なため息を吐いた。




