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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第四章

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48、ちょうど良い『落としどころ』①

 初めての口づけは、甘酸っぱい味がするものだ――と言っていたのは、ナイードの先輩見習い修道女だったラナだ。女というのは、幼いころからマセガキが多くて、そういう話だけは風のような速さで仲間内を駆け巡る。修道女見習いであるラナも、そうして周囲の女から仕入れた知識を、まるで自分の経験談のように偉そうに語っていた。

(――嘘じゃん)

 イリッツァは、心の中でつぶやく。

 生まれて初めて――前世の分も合わせても、正真正銘生まれて初めての口づけは、直前までぐしゃぐしゃになるまで号泣していたせいか、涙のせいでやたらとしょっぱい味がした。

 重なった唇は、ふわり、と重なった時と同じくらい静かに離れていく。一瞬だけ移った温もりと湿り気が消えて、静かに頬が紅潮するのが分かった。

(よりにもよって――なんで…)

 人生とは、本当に何が起きるかわからない。

 まさか――無二の親友だと思っていた男と、口づけを交わすような日が来るとは思わなかった。恥ずかしさをごまかすように、ぐす、と鼻を軽くすすり、僅かに瞼を伏せて視線から逃れる。長い銀色の睫毛が頬に影を作った。

 このまま王都に連れられて行って――カルヴァンは、本当に、自分を妻にするのだろうか。

 確かに、それはお互いの要求の妥協点を探るにはちょうど良い落としどころだろう。イリッツァは、手を離せば勝手にどっかに行ってしまいかねないカルヴァンの手を取りながら、聖女としての務めも果たせる。カルヴァンは、イリッツァを独り王城に閉じ込めることなく、彼の屋敷にいる間だけは自由なひと時を提供できる。

 だが、やはり今までの関係が関係だから、気まずさや恥ずかしさはどうしても拭えない。それに、聖職者でありながら誰かと婚姻関係を結ぶということへの抵抗感は少なからずある。

 まして、相手がこの王国一の女たらしとくれば――不安がない方が、おかしい。

 初めての口付けだって、緊張で体をこわばらせるイリッツァとは対照的に、あまりにも慣れすぎている。気づいたら、拒否できないくらいの距離まで詰められていて、それでいて、緊張するイリッツァの不安を取り除くようにふわりと優しく触れるような口づけをした。

(女に慣れ過ぎていて怖い…)

 相手との経験値に差がありすぎる。イリッツァは、もはや以前のようにわーきゃー騒ぐことも出来ず、無言のまま、静かにゆっくりと、首筋から耳元まで真っ赤に染まっていくのをどうすることも出来ずに俯いてごまかした。

 ふ、と目の前の男が吐息だけで笑う気配がする。初心な反応を楽しんでいるのかもしれない。

(くそぅ…この、女ったらしめ…)

 少し悔しく思っていると、当たり前のように大きな手が伸びて来て、うつむいたままの頬に触れた。

「ツィー」

「っ……」

 低く響く声は、予想以上に甘い。おおよそ、友人に向けて投げられる響きではないそれに、さっと頬がさらに熱を持つ。

 一際熱くなった頬を包むようにして、優しく顔を上げさせられると、離れたはずの整った顔が、いつの間にか再び至近距離から覗き込んでいた。

 ドキン、と心臓が大きな音を立てたのは、距離の近さに驚いたからか、それ以外の何かなのか。

 余裕たっぷりの灰褐色の瞳がにやり、と笑んだ――と思ったら、ただでさえほとんどなかったはずの距離をさらに詰めて来る

(――え、わ――)

 こういうときの"お作法"はよく知らない。咄嗟にぎゅぅっと瞼を閉じると、再び唇に湿った感触が触れた。さっきは、羽か何かがかすめたのかと思うくらい一瞬の重なりだったそれは、今回はしっとりと確かに重なる。ちゅ、と口の端がリップ音を奏でた。湿ったその音が耳に届くと同時に、心臓がバクバクと尋常ではない音を刻み出す。

 されるがままにぎゅっと目を閉じていると、一瞬唇が離れ――そのまま、もう一度、角度を変えて重なる。羞恥を煽る湿った音が、車内に小さく響いた。

 ひとつ ふたつ みっつ――

「――――――――って、多い多い多い多い多い!!!!!!」

 最初の一回から数えて、合計五回目のキスが降ってきた瞬間、耐えきれなくなってイリッツァは全力でカルヴァンの胸を押し返した。押し返された当の本人は、憮然とした表情で見返してくる。

「なんだ?」

「なんだ、じゃねーよ!何回する気だ、この馬鹿!!!!」

「何回でも。気が済むまで」

「一回で十分すぎるわ!!!!!阿呆か!!!!」

 ぼぼぼぼ、と火がともった頬のまま、全力で息をするように女を誑し込む男を睨む。危なかった。元・男の記憶がある自分すら雰囲気に流されてしまうとは恐ろしい。性別が女ならすべての者を惑わすフェロモンでも出ているのだろうか。くだらないことを考えながら、ぐいっと唾液で濡れた口元をぬぐって羞恥に耐える。

 唇と唇を触れ合わせる行為など、聖職者にはご法度だ。親愛、友愛、恋愛は素晴らしいものとして聖典にかかれているが、性愛は時に身を滅ぼすものとして、不必要に溺れることをエルムは固く禁じている。性愛に触れるような行為である口づけを、相手に許可すら貰わずあっという間に五回も重ねた目の前の男が信じられない。そして、流されて一瞬受け入れてしまった自分がもっと信じられない。

「一回したら、もうあとは何回でも同じだろう」

「そっ…そういう問題じゃ――」

「舌を入れたわけでもなし。リアム並みにうるさい奴だな」

「しっ――!?」

 つまらなさそうな顔で言われ、目を白黒させる。この国の聖職者の頂点であるはずの聖女に対して、なんということを言うのか。今ここにリアムがいたら、その場で卒倒するか、上官を本気で殴り倒すかの二択だろう。

「ちょ――おまっ、いったん、そこに直れ!!!!!」

 ビシッと向かいの席を指さし、有無を言わさぬ声で命令すると、面倒くさそうに肩をすくめた後、カルヴァンは一応従ってくれた。

(こいつにとって、キッ…キスって、そんな軽いものなのか!?)

 単なる皮膚接触、くらいにしか思っていないのではないかと思えるほどあっさりした態度に、カルチャーショックを禁じ得ない。性愛を感じさせる行為については潔癖すぎるくらいが当たり前だったイリッツァからすれば、キスなんて粘膜接触の一つである。つまり――とてつもなく卑猥な行為に近しい。結婚の誓いの場で儀式めいた口づけをしたり、親が子にお守り代わりに額に口づけをするようなものならいざ知らず――男女間で行われる、愛情を示し確かめ合うためのその行為は、近寄りがたく自分とは無縁の世界で行われる行為であり、うっかりどこかで目にするようなことがあれば、それだけで羞恥で頬が染まる。

 だが、目の前の男は、つい今の今まで女性にキスをしていたとは思えないほどいつも通りだ。しかも、普通の女ではなく――聖女であり、二十年以上ずっと友人だと思って来た相手と、キスをしたはずなのに。

 ともすれば感情に任せて叫びそうなところを必死に押さえつける。一瞬、鎮静の魔法を自分で自分に掛けようかと思うくらいに取り乱してしまった。

 ふーーーーっと大きく息を吐いてから、イリッツァもカルヴァンの向かいに腰掛ける。一度瞳を閉じて心を落ち着かせてから、どうにか口を開いた。

「あのな…ついうっかり流しそうになったから、ちゃんとしておこう」

 額を抑えながら、ゆっくりと鼓動を落ち着かせる。

 やっと冷静を取り戻したころに――はぁ、とため息をついて、核心をつく質問を。

「お前――俺のこと、好きなの?」

「――――――――さぁ?」

 王都一の女好きは、羽よりも軽い調子であっさりと、表情一つ変えることなく、最低な答えを返したのだった――

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