47、涙の『懇願』
前から後ろへと流れていく風景を車窓から眺めながら――珍しく、弱音が漏れた。
「お前は、また――――――――俺を独りに、するんだな――」
ひゅ――と、イリッツァが息をのむ音がした。
ガタン、ガタン、と何度か馬車が揺れる。
沈黙に、耳が痛くなってきた。
(――らしくない)
カルヴァンは、イリッツァにわからないようにこっそりと息を吐く。
渾身の愛の告白を、真面目なトーンで断られて、少なからず傷ついたのは確かだ。何度手を伸ばしても、何度捕まえたと思っても、相変わらずするりと抜け出していくのは、十五年前から変わらない。
わかっていた。昔から、変なところで頑ななところがある男だった。つい最近まで親友でしかなかった男に求愛されたくらいで、すぐに口説き落せるほど簡単な奴でもないこともわかっている。不幸体質も、やたらと独りになりたがることも――こっちの手を決して握り返そうとしてくれない、この無力感は、何なら出会った時からなじみ深い感覚だ。
それでも、すべてを賭けてこいつを救うと、己に誓いを立てた。独り寂しい闇の世界に戻っていこうとするのを引き留め、光の世界へ引きずり出すと、決めていた。どうしてもというなら、一緒に闇の世界に沈んでもいいとすら思っていた。
ただ、一言でいい。
『独りにしないで』『傍にいてくれ』と、そう望んでくれたなら――そこがたとえ地獄の底でも、絶対に、永遠に、離れないのに。
だから、多少拒絶されたくらいで諦めるほどやわではない想いなのは確かなのだが――さすがに、さっきのは、少し、堪えた。思わず意図しない弱音が漏れるくらいには。
(さて…次は、どんな手を考えるか)
女として口説く方針は諦めた方がいいのかもしれない。やはり、王都に着く前に無理矢理その身をかっさらって雲隠れするのがいいのか。その後のことは、そのあと考えよう。
ただ、この最終手段を取るなら、逃走経路とタイミングが重要になってくる。リアムに持ち掛けたところで、協力者にはなってくれない可能性が高いから、単独で行わなければならないだろう。格段に難易度が上がる。
カルヴァンは、一瞬漏れた弱音からすぐに頭を切り替え、いつものごとく高速で頭を回転させ――
ぎゅっ…
「――――――ん…?」
服の裾を握られた感覚に、いったん思考を止めて車窓から視線を車内へと移す。
イリッツァが、騎士装束を握りしめ――今にも泣きだしそうな顔で、こちらを見上げていた。
(――――可愛い――――――じゃない。なんだ?)
「どうした?」
昔のリツィードは、笑顔以外では呆れた顔と困った顔くらいしか見せなかったから、こんな泣きそうな顔は珍しい。上目遣いで眉を下げ、不安そうに薄青の瞳を揺らすイリッツァは、どこか庇護欲を誘う可愛らしを纏っていたが、表情に出すと怒られそうなので、努めて冷静を装って無表情で尋ねる。
イリッツァは口を開き――一度閉じて、涙の気配を堪えてから――もう一度口を開いた。その声は、聴き間違いでなければ、微かに震えている。
「ヴィ…ヴィーは…独り、じゃない…」
「……?」
「騎士団の皆がいる…っ…王女様だって、王様だって、お前の理解者はいろんなところに――」
「…………?」
(――何の話だ?)
一瞬、本当に何の話が始まったのかわからず、眉根を寄せて考える。それをどうとったのか、イリッツァはなおも震える声で必死に言い募った。
「おっ……俺が、いなくても――ヴィーを、引き留める人は、いっぱいいる――!」
「――――――――あぁ」
やっと、話の筋に思い至って声が出た。さっき、思わず口を突いた弱音のことだろう。
「誰に引き留められても、関係ない。俺は誰にも――」
今まで何度か繰り返した話をもう一度口に乗せようと、して。
(――――ん…?もしかして、こいつ、こっちの路線の方が利くのか?)
はた、と思い至って少女の顔を覗き込む。ぎゅっと唇を噛みしめた不安そうな顔は、色を失って蒼白になっていた。それは、先ほどまでの、頑なにこちらを拒否する聖女との顔とは真逆の表情。
(――――なるほど。自分の不幸と孤独には、驚くくらい鈍感な奴だが――"俺"の、不幸と孤独には、そうでもないのか)
思い至った瞬間、ニヤリと口元がゆがみそうになり、慌てて手で押さえて隠す。
『お前を独りにしたくないんだ』とどんなに説得しても、いつもの笑顔でその心に踏み込ませてすらもらえないが――『俺を独りにするのか?』と縋られる方には、めっぽう弱いらしい。
カルヴァンは、必死に口元を引き締めながら、なるべく神妙な顔を作り、ゆっくりと言葉を紡いだ。やっと見つけた攻略の糸口だ。焦らず、慎重に――確実に、落とす。
「そもそも、お前が聖女としての務めを果たすなら、俺なんて引き留める奴はいない。必要ないからな」
「な――そ、そんなわけ――」
「聖女様が、強力な結界で、魔物から守ってくれるわけだ。騎士団なんていらない。もちろん、討伐任務がなくなるわけじゃないだろうが、どこの任務でも、今までとは緊急性が全く違う。そもそも、お前が昔張った結界がなくなってから、王国を守り抜くための強い騎士団を作ってきた。昔の騎士団とは練度が違う。そこに、お前の結界が張られるなら――もう、この国に、『英雄』なんて、必要ない」
「っ、で、でも――」
「リアムは優秀な奴だし、王都にいる副団長も強い奴だ。俺がいなくなっても、騎士団の連中は何も困らない」
「そんな――」
「そもそも、お前が死んでも俺がこの国にとどまっていたのは、お前がその命を賭してでもやり遂げたいと思ったであろう遺志を継ぐためだ。――王国と、国民を、守る。だが、お前は生きていた。――しかも、これからは、お前が自分で、守るんだろう」
「――――――!」
はっとイリッツァが目を見開く。
カルヴァンは、その人並み外れた観察眼で慎重にイリッツァの心が揺さぶられる方向を探り、言葉を選ぶ。
「お前がいれば、王族だって惑わない。国民も守られる。騎士団の仕事は減る。――俺を必要とする奴が、どこにいる?」
「それは――!」
イリッツァは咄嗟に口を開いて――はっと我に返って、口元を手で抑え込んでぐっと言葉を飲み込む。
(俺が、と言いたくなったんだろうな)
思わず笑いそうになる口元を引き締める。いい傾向だ。
昔から、息をするように『己』を殺す奴だった。「俺がお前を必要としている」など、聖女としてはあるまじき我欲。口に出すことは憚られたのだろう。
だが、それでも――思わず口をついてそれを音に乗せてしまいそうになるくらいには、心が揺さぶられているらしい。
(エルムの教えでは、孤独をどう捉えていたんだったか…)
聖典を開けば書いてあるであろう事柄を、カルヴァンは一度だって読んだことはない。彼の中にあるエルム教の教えとは、大概がリツィードが生前、呆れながら教えてくれたことばかりだった。馬車の中で少し視線をめぐらせ、遠い記憶をたどる。
(あぁ――そうだ。孤独は、人を――死の恐怖から、遠ざける。生への執着を、捨てさせる)
それは、リツィードと"友人"になった日の、一番最初の記憶。
聖人たる彼が、それでもカルヴァンの手を取りたい、と言った理由を、あの時しっかりと説明してくれていた。
(まぁ…一理、いや百理くらいあるな)
珍しく、心の中でエルムの教えを肯定する。
誰にも縛られないカルヴァンが唯一つないだ手は、リツィードだけだった。彼がこの世から去った後――誰とのつながりも持たなくなったカルヴァンは、確かに、生への執着を捨ててしまった。死の恐怖など、久しく感じたことはない。むしろ、あの絶望に黒く塗りつぶされた毎日の中で、死は、友との邂逅を果たすための、唯一の救いですらあった。
ただただ、毎日、死を見つめて生きるその様は――きっと、幼いあの日、リツィードが何をおいても救いたいと願った、カルヴァンの姿だったのだろう。
だからこそ、そこを敢えて突く。このままでは再び、自分が生に執着しない人生を歩むことになると。――そしてそれは、おそらく、脅しでも何でもなく、純然たる事実だろう。
「お前が、王城の深くにある神殿にもぐって聖女としての責務とやらを果たすとしたら――他の王国民全員を救える代わりに、確実に一人、不幸になるやつがいる」
「っ――!」
「ずっと、お前が、友として手を取ってくれているならと、今日まで生きてきたが――お前が、そこまではっきりと『握り返すことはない』と断言するからには、そういうことなんだろう。晴れて俺は、自由の身になるわけだ」
「ぁ――――」
イリッツァの眉が、これ以上ないほど下がる。ここまで困り切った表情は初めて見た。ただでさえ白い肌が、青白くなり、ふるっ…と長い睫が惑うように揺れる。きゅ、と小さく眉根が寄って、今にも泣きだしそうになるのを必死にこらえているのが分かった。
(そういう表情が可愛いのは事実だが――もう少し、苛めさせてもらうぞ)
カルヴァンがわざと追い込むような発言を繰り返しているとは気づかぬ無垢な少女に、淡々と言葉をつづける。
「まぁ…お前に会えるわけでもなくなるわけだし、そもそも俺はエルム教信者でもない。こんな俺にとって、この国は生き辛いだけだから、お前が王城に引っ込むというなら、さっさと退役して国外にでも気ままに旅立つさ」
「待っ――――」
ぎゅっとイリッツァが握りしめる拳の力を強める。装束が、これ以上ないほど深刻な皺を刻むのを視界の端にとらえながら、カルヴァンはじっと薄青の瞳が揺れるのを観察した。
(…まだ決意を翻さないのか。強情な奴だな)
国外へ行くと言えば、引き留めて来るだろうと思ったが、必死に自分と葛藤しているらしい。我欲を消すべしという『聖女』としての自分と、友を引き留めたい『人』としての自分。イリッツァは何度もその桜色の唇を開閉させて、言葉を生み出そうとしては飲み込み、飲み込んでは口を開いて、泣きそうな顔でカルヴァンを見る。
「っ…て、手紙っ…」
「は?」
「っ――――手紙、寄越せっ…絶対っ…!」
「――――はぁ?」
思わず、あきれ果てて面倒臭さを隠しもしない声が出た。しかし、イリッツァは真剣な顔でつづける。
「独りは、絶対ダメだっ…お前は特に、絶対、ダメだっ…だってお前、すぐっ――すぐ、簡単に、どっか行くだろっ!」
「…まぁ、特にこの国にいる意味なんてないからな」
「しかも、勝手にどっか行くくせにっ―――勝手に、すぐ、死のうとするっ…!」
「――…まぁ。積極的に死にたいわけじゃないが、生きていても、特に楽しいことがあるわけでもないからな」
「絶対ダメだっっ!!!!!」
はらり――と。
薄青の瞳から、ついに涙がこぼれた。
(――――泣いた)
陶器のような白い肌に滑り落ちた滴を見て、カルヴァンは心の中で驚嘆する。
生前、リツィードが泣くところなんか、見たことがなかった。今、イリッツァが泣くのを見て――あぁ、こいつ、ちゃんと泣くことができたんだな、と妙な感心を覚えていた。
「手紙、でもいいからっ…ちゃんと、生きてるって、知らせてくれ…っ…し、死ぬのは、ダメだ…俺の知らないところで、とか、絶対ダメだっ…もう、あんな想いをするのは、絶対に嫌だ――っ!」
「あんな――って、あぁ…」
そういえば、つい数日前、一度確かに心臓が止まったことを思い出す。
息を止めて、心臓の音を止めて。物言わぬ躯として対面した夜のことが、思いのほか彼女の中で拭うことの出来ぬトラウマとなっているらしい。
一筋だけこぼれた滴が呼び水になったのか、はらはらと、続けざまに透明な雫が薄青の泉から後から後からあふれ出す。さすがに少しばかり気まずくて、カルヴァンは左耳を掻いた。
イリッツァの気持ちはわからなくはない。――カルヴァンも、十五年前、目の前で物言わぬ躯となった親友と対面したのは同じだ。イリッツァと違って、それを生き返らせるような神の奇跡は起こせなかったが。
あの光景は、十五年たった今でも、当時の匂いや気温まで鮮明に思い出せる。出来ることなら、もう、絶対に、二度と体験したくない経験だ。魔物に腹を食い破られたこの前の激痛の方が、まだマシだったと思うくらいには、思い出す度に死にたくなる記憶。
その気持ちが分かるからこそ、ここを責めるのはやや心が痛むが――目的の前には仕方ないだろう。カルヴァンとて、譲れるものと譲れないものがある。――これは、どんなに泣かれたとしても、決して、譲れない。
心の中で嘆息して、カルヴァンは口を開いた。より、少女を傷を抉る言葉を。
「手紙なんて面倒なもの、俺が律儀に書くわけないって、お前が一番知ってるだろう」
「っ…!」
「そんなに生死が気になるっていうなら、死んだら躯は王国に返すよう取り計らっておく。それでい――」
「いいわけないだろ!!!!!!!!この馬鹿っっ!!!!!」
「っ、う、るさ…」
狭い車中でとんでもない大声を出され、思わず耳をふさぐ。イリッツァはあふれる涙をぬぐうこともせず、憤慨したように立ち上がった。ガタン、と馬車が大きく揺れる。
イリッツァにとってそれは、決して、誰に何を言われようと、許容できない申し出だった。
物言わぬ躯となってカルヴァンと対面する未来など――そんな、あの絶望的な夜をなぞるような、そんな未来は、決して。
「お前はっ…お前は、知らないっ…かも、だけどっ…死者の蘇生なんて、何回も出来る物じゃないんだ!この間だって、なんで出来たのかなんてわかんないっ…もう一回、同じことがあっても、また、同じように蘇らせられる保証なんてな――」
「必要ないだろ」
イリッツァの言葉を静かに遮る。灰褐色の瞳が、ひたと少女の瞳を見据えた。
「というか、出来ないはずだ。――お前は、"聖女"なんだろ?」
「え――?」
「誰の手も握り返さない――誰も『特別』は作らない、そう言っていたのは、お前じゃないか」
「――――――――」
激昂の勢いが止まり、イリッツァは言葉を失う。
カルヴァンは、淡々と続けた。
「俺は、お前が王城に引っ込むなら、この国を出る。そうなればもう、王国民ではなくなる。――お前が守るべき"民"ですらなくなるんだ、俺は」
「――――…」
「信者でも国民でもない奴がどこで野垂れ死のうと、聖女様には関係ないだろう。まして、その躯が返って来たとして――蘇らせる?何の理由が、大義があって?」
「っ――――…」
「そういう『特別』を作らないために、今、俺の手を拒むんじゃなかったのか?」
ぐっ…とイリッツァは言葉に詰まり――ゆっくりと、膝から頽れるようにして車中に蹲る。
しん…と、一瞬、痛いくらいの沈黙が下りた。
「お、前…ほんと、性格……悪い…」
「――…誰かさんが強情だからな」
「っ…なんでっ…そ、んな――そんなっ…」
ぎゅぅっと自分の服の裾をつかむイリッツァの声は、これ以上ないほど震えていた。
「お前が素直に俺の申し出を受ければ済む話だろ」
「な、んで…」
「お前が俺の手を離すとか言うから、俺は勝手に放浪の旅に出ると言っているんだ。――お前が、俺の手を取るというなら、俺は、この国を出て行ったりしない」
「ぇ――」
「お前が、独りは嫌だと言って、傍にいてくれと縋って俺の手を取るなら――俺は、どんなにこの国がエルムの教えとやらでひどく窮屈だろうが、聖女を"人"扱いするなんてと世間の目が厳しかろうが、ここにとどまってお前を助けて、守ってやる」
「――――――」
「お前が、そんな助けはいらない、独りがいいんだと俺に背を向けるなら――まあ、仕方ない。俺は、また――十五年前と同じく、親友を、助けることが出来ないらしい」
「っ、違――!」
「俺が言っているのは、酷く簡単な話なんだ」
嘆息しながら、頽れた少女に目線を合わせる。ゆっくりと上がった薄青の瞳は、まるで彼女がいつも宗教画に向けるように、何かに縋るような目をしていた。
カルヴァンは、そのまま静かに少女に問う。
「お前は、俺を"独り"にしないために――俺を勝手に死なせないために、代わりに、何を差し出せる?イリッツァ・オーム」
「――――――っ…!」
イリッツァは、一瞬、酷く苦しそうに顔をゆがめ――ぎゅっと瞳を閉じて、うつむいた。
「――――――…だ…」
「…?聞こえない」
しばしの沈黙ののち、ポツリと流れる銀髪の隙間から洩れた声に、聞き返す。イリッツァは、震える声で――もう一度、しっかりと、問いかけに応えた。
「っ…全部――全部、だよっ…!お前の命と引き換えなら、俺は、俺が持ってるもの、全部と引き換えにしたっていいっ…!これで満足か!?」
バッと顔を上げる。その顔は、やはり、今にも泣きだしそうにゆがんでいた。
それを見て――ニッとカルヴァンはいつもの人を食った笑みを浮かべる。
さすがにもう、堪えることが出来なかった。
「全部、じゃわからない。――もっと、具体的に」
「な――おっ…前、ほんっと――性格、悪い…っ!」
ひくっ…と喉が音を立てる。カルヴァンの顔を見て、やっと、親友の意図を理解したイリッツァは、絶望的な表情を向けた。
高速で回転する頭脳。常人よりも優れた観察眼。
彼のそれらは、この一連の会話でずっと――ずっと、己が導き出したい結論へと、イリッツァを誘導し続けていたのだ。
くっと喉の奥でひとつ笑って、カルヴァンは言葉をつづける。
「お前が後生大事に抱えてるのは、聖女としての責務だの、聖職者としての矜持だの――ずいぶん御大層なものらしいからな。全部、なんてあやふやな言葉だけでは、何を捨てられるのか、わからない。土壇場になって、やっぱりやめたと言われるのはたまったもんじゃない。きちんと言質を取っておきたいんだ」
「っ………」
「ほら、答えろ。――――イリッツァ」
ピクリ、と少女の肩が震える。
くっ、ともう一度、カルヴァンは喉の奥で笑った。今までの会話の中で、一番イリッツァが反応した単語は――カルヴァンの想像もつかない、意外な一言だった。
(まさか――最後の最後、こんなことが後押しになるとはな)
もう、笑いを堪えることが出来ない。ニヤリと頬をゆがめて、カルヴァンはもう一度、『最後の後押し』を告げる。
「イリッツァ。――――お前が、俺の望む答えを言わない限り、俺は永遠にこうやって呼び続けるぞ」
「っ……ほ、ほんっと…性格、悪すぎるっ…!意地悪っ…悪魔っ…!最低野郎っ…!」
情けない捨て台詞を吐きながら、イリッツァは顔をこれ以上ないほどゆがめ――ぎゅっと瞳を閉じた。眦に、一粒、透明な雫が浮かぶ。
そして――聖女としてはあるまじき、心の奥底を、喉の奥から音に乗せた。
「全部っ……っ、聖女としての責務も、聖職者としての矜持も――全部、お前が、生きててくれるなら、捨てられる…っ……お前が、独りで、俺がいないところで、勝手に死ぬ方が、嫌だっ…!」
情けない泣き顔を隠すように両手で美しい顔を覆いながら、正直な気持ちを吐露する。
「だから――もう二度と、俺を、置いてかないでっ…ヴィー…!」
カルヴァンの口の端が、これ以上ないほどに吊り上がった。
初めて出逢った日から数えれば、およそ二十五年ほど。――ずっと、ずっと聞きたかった言葉を、やっとその口に言わせることができた。
「さ、最低、だっ……ほんと、お前、最低っ…」
「そうか?俺は今、最高に気分がいい」
「っ…くそっ……お前、いつか、本当に、罰が当たるからなっ…!」
ひくっと喉の奥でしゃくりあげて、情けない捨て台詞を吐く。
情けなさ過ぎて、涙が出て来る。
孤独と向き合うのが聖職者だとか、格好いいことを言っておいて――
カルヴァンの問いに、愕然としたのだ。
カルヴァンの孤独と――命と引き換えに、何を差し出せるのか、と聞かれて。
――――――――何も、一瞬も、躊躇しなかった、自分に。
あっさりと、聖女の責務など投げ打って、当たり前のようにその手を取る未来が見えた、自分に。
それ以外の答えなど、微塵も見いだせなかった、自分に。
唯一無二の親友が死んだと思ったあの夜の絶望と孤独は、聖職者としての矜持だの聖女としての責務だのという言葉ごときで乗り越えられるようなものではなかった。
あんな風に、また、この世界に独りぼっちで置いて行かれるくらいなら――それを防ぐ術があるというのなら、きっと、何でも差し出せる。悪魔にだって、魂を売れる。
世界中の誰とも繋がっていない孤独には耐えられるが――どこを探してもカルヴァン・タイターという男が一人いなくなった世界にだけは、耐えられそうになかった。
「ヴィー、俺、ちゃんと、言った」
「ん?…あぁ、言ったな」
「だからっ……だから、ちゃんと、お前も、呼べっ…!」
「…?――――…あぁ」
涙にぬれたままの瞳ににらまれて、一瞬何を言われているか考え――思い至って、カルヴァンは思わず吹き出すようにして笑う。
「っ、笑うなっ…!」
「いや、笑うだろ。予想以上に、気に入ってくれてたらしい」
「お前っ――俺が、どんだけ――どんだけ、十五年、聞きたかったと思ってるんだっ…」
「くくっ…はいはい」
笑いながら、カルヴァンはイリッツァの顔にかかった白銀の髪を取り、その耳にかける。十五年前とさほど変わらない造詣の顔が、そこにはあった。
「ツィー。――これからも、よろしくな」
「っ――――」
はらはらっ…と薄青の瞳から、花弁がこぼれるように透明の滴が落ちる。
カルヴァンは、知らないだろう。
本当に――本当に、この、今となっては誰も呼ぶことのない愛称を聞きたくて――十五年、ずっと、諦められなかった。何度も何度も、夢の中で、繰り返し、懐かしい光景を見た。人を食ったような笑みで、低く響く落ち着いた声が、『ツィー』と呼ぶのを、何度も思い返しては、焦がれていた。
最後の最後――認めないと、『イリッツァ』と呼び続けると言われて――二度と、『ツィー』と呼んでもらえない恐怖で、本音を吐露してしまうくらいには、彼に『ツィー』と呼ばれることは、イリッツァにとって、何よりも大切なことだった。
それはきっと、カルヴァンが、イリッツァ以外の誰のことも愛称で呼ばないことを知っているからだろう。
男も女も、決して愛称で気安く呼んだりしない。それは、独りを愛し、誰にも縛られないと豪語する彼の矜持なのかもしれない。
だからこそ――そんな彼が、『ツィー』と愛称で呼ぶのは、自分が彼の『特別』なのだと実感出来て――
彼が、確かに自分の手を取ってくれていると実感出来て、安心できた。
彼が自分の手を取ってくれている限り――彼は、勝手に独りでどこにもいかない。自分を置いて、消えたりしない。
それが、イリッツァにとっては何よりも大切なことだった。
聖女としての責務よりも、聖職者としての矜持よりも――
――――――王国民全員の幸せなんかよりも、ずっと、ずっと。
「交渉成立、だな。――もう、逃げるなよ」
「ぇ――」
言われた言葉に目を上げると、すぐそばに雪国の空があった。
それは、記憶にある中で、間違いなく一番近い――吐息がかかるほどの距離。
イリッツァはその意味を理解し、一瞬体をこわばらせ――
「――――――――」
しかし、静かに瞳を閉じて、身を任せた。
車輪の音がうるさい車内で――
静かに、密やかに――二人の唇がそっと、重なった――




