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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第四章

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45、『神聖』なる口づけ

 外に広がっているのは、冬の空の隙間に現れた陽光だった。分厚い雲の切れ間から、キラキラとまぶしい光が斜めに差し込んでいる。今日は、最近にしては珍しく温かい。

 馬車の窓からそんな景色を眺めながら、イリッツァは憮然とした表情でため息を吐いた。ガラガラと車輪が回る音が響き、時折ガタンッと大きく馬車が揺れる。

「そうむくれるな」

「馬車なんて、そうそう乗る機会ない物に乗せてくれたことは感謝してるよ」

 まったく思ってないことを口の端に乗せてつぶやき、頬杖を突きながらイリッツァは視線を移しもしなかった。そう広くはない馬車の中で、カルヴァンはやれやれ、とため息をつく。

「仕方ないだろう。『聖女様』を馬に跨らせるなんて言語道断だと、部下たちが頑として首を縦に振らなかった」

「……はぁ…別に、もう、いいけどさ」

 憮然とした表情でつぶやく。

 彼女の自室で本気の貞操の危機を感じていたまさにその時、二人を引き裂いたノックの主は、リアムだった。予想以上に早くブリアからの使いがやって来たとのことで、すぐに出立準備に追われることになった。カルヴァンはいいところを邪魔された、とひどく不機嫌だったが、イリッツァは深くリアムと神に感謝していた。

 そこからはとてもあわただしかった。イリッツァは生まれてからナイードを出たことがなかったので、慌てて旅支度を進め、ダニエルに別れを告げることになった。

「お前、本当にナイードには戻らないつもりか?」

「…お前もたいがいしつこい奴だな…」

 カルヴァンの言葉に、大きく嘆息しながら、やっとイリッツァは視線を車内へと戻す。長身を狭い馬車の中に押し込めるようにしている騎士団長は、じっと雪国の空を瞳に宿してこちらを眺めていた。

「あの司祭も、戻ってきていいと言っていただろう。ナイードに迷惑は掛からないようにする、と」

「それは確かにありがたかったけど――でも、無理だろ。そんな簡単な話でもない」

 言いながら、イリッツァは十五年、自分を本当の娘のように育ててくれた司祭の顔を思い出す。

 ナイードを発つということはつまり――今生の別れになる、ということだ。どうしても、本当の親子の愛を教えてくれたダニエルにだけは嘘がつけず――イリッツァは、正直に、今までだましていたことを打ち明けた。そして、おそらく二度と戻れないことと――もしかしたら、聖女隠匿の罪に問われてしまう可能性があること。

 しかし、魔法の才以外はまさに聖人然としたダニエルは、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべ――何も心配いらない、と朗らかに告げた。

「まさか、司祭様がずっと気づいてたとは思わなかった…」

「……まぁ…親っていうのは、子供をよく見てるものだ。子供が思っている以上に」

 ポツリ、とつぶやいた声にカルヴァンは答える。イリッツァは少し苦笑して、もう一度窓の外に目をやった。

 記憶が戻ったばかりのころ、夜ごと悪夢にうなされていた。前世で処刑される日をなぞる夢だ。

 毎日毎日うなされ、そのたびにダニエルが部屋にやって来てはそっと起こして鎮静と安眠の魔法をかけてくれていたことは知っていたが――

 まさか、自分が、寝ていながら無意識に、自分で自分に鎮静の魔法を使用していたとは思わなかった。

 おかげで、ダニエルは、ずっと知っていたのだ。

 イリッツァが悪夢から目覚めると――いつも、その瞳には、光る聖印がしっかりと浮き出ていたのだから。

 しかし、彼は決してそれを口に出さなかった。悪夢にうなされていたのは、見極めの儀よりも前だったはずだ。瞳を閉じて、彼を謀ったあの日――彼は、少女が聖印を隠したことに気づいた。

 うなされる夢の内容も、記憶が戻ってから急に大人びた理由も、恐らく何もわからなかったはずだが――それでも、何か深い事情があるのだろうと察したのか、ダニエルは最後まで、何も言わなかった。

 そして、ついに秘密を打ち明けた娘に、ふわりとほほ笑んで告げたのだ。

『貴女は昔から不器用で、何かに集中するには瞳を閉じる癖があっただけでしょう。瞳を閉じないと、魔力をうまく練れなかったから、誰に言われるでもなくそうしていただけで――貴女自身も、もちろん私も、ナイードの皆も、その閉じられた瞼の裏に聖印が浮かんでいたことなど、知る由もなかった。故意に隠していたものなど、誰もいなかった。ナイードが襲われ、悠長に目を閉じる暇などなく――初めて、貴女は瞼を押し開いた状態で、魔法を使った。そうしたら、聖印が浮かんでいた。――そうでしょう?びっくりですね』

 にこにこと、邪気など感じさせないような笑顔で言い切られてしまい、イリッツァは口を閉ざした。同席していたカルヴァンは、苦い顔でやはり笑っていた。

 ナイードも、司祭も、誰も責めることが出来ない言い訳。きっと、ダニエルは、初めてイリッツァの瞳に聖印を見た時から、この言い訳を用意していたのだろう。さすが、齢五十の声を聴くほどの人生経験は伊達ではない。笑顔で、当たり前のように、それが事実だろうと言い切ってしまった。

 そうして、少しだけ寂し気な笑顔で、続けた。

 イリッツァが決めた道なら、とやかくは言わないが――逃げたくなったら、いつでも逃げて来て構わない、と。

 いつだってダニエルはイリッツァを歓迎するし、世界中の何からも守る覚悟がある。

 何せ、たった二人きりの親子なのだから――と。

 思わず、ぐっと目頭が熱くなってしまったのは仕方ないだろう。

「しかし…お前と結婚することになったら、あの男に許可をもらいに行く必要があるのか。――やっぱり、殴られたりするんだろうか」

「な――――おい!?お前まだあきらめてなかったのか!!!?」

「当たり前だ。いつ誰が諦めたと言った?」

「いい加減諦めろよ!」

 しれっといつも通りの涼しい顔で言ってのける親友にかみつくように叫び返す。カルヴァンは、左耳を掻きながら嘆息した。

「お前を口説くためでもなければ、どうして俺がこんな狭い車内に押し込められなければならん」

「そういう理由!?」

「他に何がある」

 言われてみれば、カルヴァンには乗ってきたはずの愛馬があるはずだった。なんで一緒に馬車に乗り込むんだ、と不思議に思ってはいた。

 闇の魔法使いが収容されているのはブリアから取り寄せられた特注の頑丈な馬車で、カルヴァンとイリッツァが乗る馬車の少し前を走っている。魔法使い自身が頑丈に拘束されているのはもちろん、しっかりとイリッツァによって馬車全体にも封殺の魔法をかけられ、何かあればすぐに対応できるように常に並走に近しい距離で走っていた。

「あいつの方が快適な広さを満喫していると思うとムカつくな」

「仕方ないだろ…今日、ナイードにある馬車の中では、これが一番大きくて一番いいやつだったんだ。…っていうか、お前がでかすぎるんだよ」

 長身のカルヴァンは、頭も天井に近しく、長い足も窮屈に縮めて乗っている状態だ。これでここから先の王都までの長い旅路を思えば、不平が出るのも仕方あるまい。

「…しかし、参った」

「は?」

「……お前ほどなびかない女は初めてで、どうしていいかわからない」

「―――――…なんか、元・男としてはムカつく言葉だけど、突っ込んだら負けな気がするから無視するぞ」

 ひくひく、と頬を引きつらせると、カルヴァンは大きく嘆息した後、馬車の中で座る位置を変えた。向かい合っていたはずのイリッツァの、真横に。

「ちょ――近い!」

「口説くって言ってるだろ。これくらいの距離慣れろ」

「慣れるわけないだろ!!!!!!」

 ぴったりと寄り添うように座られ、全力で距離を開けようとするが、するりと腰に腕を回されてぐっと無理矢理密着させられる。――完全に、恋人同士の距離感だ。

「ちょ――だからっ…俺は、お前とそういう関係になるつもりはないって、何度も言ってるだろ!」

「耳元でキャンキャンとうるさい奴だな。――口ふさぐぞ」

「!!!!?????」

 ぐっと顎を持ち上げられて顔を近づけられ、イリッツァの目が白黒する。

「ま――まままままま待て!!!」

「何だ。色気のない奴だな。――こういうときは、目を閉じるもんだ」

「そんなこと聞いてない!ちょ――待て、ダメだ、キスはダメ!絶対、絶対にダメだ!!!」

 ぐいっと口元に手を差し込まれて抑え込み、必死で言い募る。いつになく真剣に拒否をされて、カルヴァンは半眼で目の前の女を見返した。

「俺にキスされそうになって、そんな反応する女初めて見た」

(――――――――いや、突っ込まない。突っ込まないぞ。突っ込んだら負けだ)

 唯我独尊を地で行くような態度に、イリッツァは必死に自分を落ち着かせる。確かに、この色気に満ちた視線で流し目を受け、ぐっと腰を寄せられて顔を近づけられれば、うっとりと目を閉じてしまう女が多いだろう。少しくらい強引なこの手法も、男らしいと言ってしまえばそれまでだ。

 うっとりとはしなくても、一瞬近づいた距離にドキッとしてしまった心臓には気づかぬふりをして、イリッツァは大きく深呼吸をした。そして、灰褐色の瞳を見据えて、真剣な顔で伝える。

「いいか。――エルム教において、口づけって言うのは、重要な意味を持つんだ。お前は知らないかもしれないけど」

「…ほう」

「基本的に、男女で結婚の誓いを立てるときに、お互い以外の相手を愛さないという証として、司祭の前で口づけをするんだ。司祭はいわば誓いの証人で、それを見届ける役割がある」

「…それで?」

「結婚の誓いの前に、口づけは出来ない。――いや、最近は婚約してる状態でする人もいるって聞くけど、それでも、キスをしたらそれはもう一生相手を変えないっていう意思表明と一緒だ」

「…なるほど?」

「そして、聖職者にとっては、一般人以上に重い意味になる。額とかに与える口づけは、神の守護を与える意味があるけれど、唇にするのは、御法度だ。聖職者は性愛に触れることをこれ以上ない禁忌としている」

「性愛、ねぇ…」

「唇への口づけは、性愛の行為の一種だ。愛の誓いという意味だけじゃなく、聖職者が異性とキスなんかしようものなら、もうそれはとんでもなく破廉恥な行いで、すぐにでも還俗をする必要が――」

「――ちなみに、お前の言うキスの定義ってなんだ」

「へ?」

 カルヴァンは、至近距離から薄青の瞳を覗き込んで、言葉を遮る。思わずイリッツァの口から間抜けな声が出た。

「え…?て、定義…?」

「あぁ。例えば、愛し合っていたり、将来を誓い合っている男女でないといけない、とか。それとも、唇同士が触れ合ったら、すべて性愛を表すキスになるのか?」

「そんなこと考えたことなかったけど――…まぁ、無理矢理唇を奪われて破門になった修道女がいたって聞くくらいだから、愛の有無とかは関係ないんじゃないか?」

「――――――――――――――へぇ」

 すぃ、とカルヴァンが急に視線を不自然に逸らす。少しだけ気まずそうに、口元を軽く押さえてそっぽを向いた彼に、イリッツァは怪訝な顔を向けた。先ほどまで、こちらがどれだけ拒否しても無理に顔を覗き込んできたくせに、急に何事か。

「何だよ。何か問題でも?」

「いや――…あー…」

 珍しく何やら歯切れが悪い。イリッツァは、追求するようにその灰色の瞳を追いかけ、覗き込んだ。

「何だよ。まさかお前、昔、修道女にも手を出したとか――」

「いやさすがにそれはない。どんなに美人でも聖職者を抱くなんて御免だ」

(なら俺のことも諦めろよ)

 心の中でつぶやくが、どうやらカルヴァンが気まずそうにしているのはそれが理由ではないようだ。眉根を寄せて、さらに覗き込む。

 すると、観念したのか、ふーっと大きく息を吐いて、カルヴァンはイリッツァへと視線を戻した。

「その定義で行くと、すでにお前は、俺と性愛の行為の一種である口づけとやらをしてるわけだが」


「―――――――――――――――――――――は――――――?」



 薄青の瞳が、これ以上なく大きく見開かれ、ぽかん、と間抜けな顔をさらす羽目になった。


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