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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第四章

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43、『困惑』の求婚①

 あまりにも理解の範疇を超えた出来事が起きた時、人は、言葉を失う。頭の中が真っ白になり、ただ瞬きを繰り返すだけのつまらない存在になる。

 それを、イリッツァ・オームはリツィード・ガエルとしてのものと合わせて計三十年もあった人生経験の中で、今日、初めて知った。

(えーーーーーーーーーーーー…と)

 何度、意味のない瞬きを繰り返したか、わからない。

 たっぷりと目の前に広がる光景を見つめ――その情報をうまく脳が処理できないまま固まる。

 じっと黙っていたかと思ったら、おもむろに取られた左手。その指のあたりを持って、優しくふわりと掲げられたかと思ったそれは、迷うことなく目の前の長身の男の口元に吸い込まれるように持っていかれた。

 そして当たり前のように落とされた、指の背あたりに感じる、柔らかく少し湿った感触。

 ニッ…と静かに笑むように眇められた灰褐色の瞳は、記憶の中にあった雪国の空の印象よりも、ずっと高い温度を感じさせる。むせ返るほどの色香を纏わせるその視線は、長い付き合いの中でも見たことがなかった。

 当たり前だ。――こんなもの、友に見せる視線ではない。

 ギギギギ…と音が出るのではないか、と思うほどぎこちなく、熱っぽい視線から逃れるように無理矢理隣にいるはずのリアムを振り返る。冷静で優秀な頭脳を持つ彼に助けを求めたかったが――助けを期待した鼈甲の瞳もまた、自分と同じく目が乾くのではないかと思うほど真ん丸に見開かれていた。

「リアムさん。…今朝、宿屋では、もしや、幻覚作用のあるキノコでも?」

「――――いや…普通の…ベーコンエッグとパンでした…俺も団長と同じものを食べましたが…変なものは、何も……」

 問いかけに律儀に答えながらも、見開かれた瞳は瞬きすらしていない。どうやらリアムの優秀な頭脳をもってしても、この状況をうまく解釈できていないようだ。

「ひどいな。一世一代の愛の告白を」

「――――いや。――――――――――――――いやいやいやいやいやいやいや」

 ようやく少しずつ頭が働き始め、イリッツァは目を白黒させながら慌てて取られたままになっていた手をひっこめようとする。――が、優しくつかまれていると思ったその手は、思いのほかしっかりと握られていたのか、全く離れる気配がなかった。

「いやいやいやいやいや――え、ちょ――――――――はっっ!!!?????おま――――――――はぁああああっっ???」

「何だ。俺が相手では不服か?」

「お――――――――おおおおおおお前何言ってんの!!!!????」

 ギリギリと両者の手の間で、目には見えないすさまじい攻防が繰り広げられる。全力で手を振り払おうとするイリッツァと、決して手を離さないぞという意思を感じさせるほどしっかりと固定されたカルヴァンの手。

「気は確かか!!!?」

「当たり前だろう」

 しれっといつも通りの顔で答えられ、ますます状況が分からなくなる。リアムの前で、しかも領内――誰が通りかかるかもわからない場所だったが、そんなことは頭から抜け落ちるほど、イリッツァは混乱していた。思わず素の口調に戻る。

「はっ――離せ!」

「嫌だ。了承されるまで離さない」

「何を!!!!?」

「結婚の申し出を」

「全っっっっ力で断る!!!!!!」

 目の前で繰り広げられる、おおよそ男女の求婚のやり取りとは思えぬ光景に、リアムは額に手を当てて呆然とつぶやく。

「いや…えっと…団長、求婚は、男性が跪いて女性に愛を乞うのが正式で、女性にとってすごく大切な憧れの儀式でして、そんな、上から見下ろすようにして自信満々の笑みで言うものじゃなくてですね――っていうか、違う、何を言ってるんだ俺。ダメだ、頭が回らない」

 どうやらとんでもなく混乱しているようだ。冷や汗に近い汗を額から大量に出しながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。

「リアム」

「は――――はいっ?」

「残りの処理はすべて任せた。俺は――王都に着くまでに、こいつを口説き落す仕事に専念する」

「仕事!!!?お前今、仕事って言った!!?」

 イリッツァの鋭いツッコミは黙殺して、ちらりと副官を見やる。

「手が離せなくなるから、頼んだぞ」

「え――――あ、はい…」

 どこか楽しそうな、嬉々とした光を纏わせた視線を寄越され、思わずうなずいてしまった。

「りっ…リアム、お願い、助け――!」

「お前はこっちだ。そうだな、お前の部屋にでも行こうか。ここは人目がありすぎる。ゆっくりと口説くことも出来ない」

「くっ…口説くってなんだ!!!?おい、ちょ、カルヴァン!!?聞け!おい!」

 つかんだ左手を離さないまま、半分引きずるように無理矢理連行されていく聖女を、リアムはなすすべなく見送る。

「えっと……」

 パチパチ、と瞬きを繰り返してから、リアムはもう一度額に手をやった。

(いや…えっと、わかる。団長が何を考えているのかは、わかる)

 どっと噴き出した汗をぬぐいながら、冷静に情報を処理する。

 きっと、本気で惚れた腫れたの類ではない。あの、女嫌いのカルヴァン・タイターに限って、絶対にそれはない。最初にイリッツァをいきなり愛称で呼び始めたときは一瞬関係を疑ったが、あまりにも気安すぎる二人の関係とその間に漂う空気は、どちらかと言えば家族や親友といった親しみを感じるようなものだったし、とても男女の色っぽい空気ではなかった。つい先ほども、彼女の結婚話を聞いて「リアムにしておけ」などと当たり前に自分以外の誰かを進めるような間柄だ。年齢差もかなりある。男女の色恋が発生しているとは思えない。あれでカルヴァンが本気で惚れて求婚したと言うなら、さすがに彼は世間から幼女趣味を疑われる。

 恐らく二人は、騎士団がここに到着するずいぶん前から、旧知の間柄だったのだろう。カルヴァンは最初忘れていたようだったが、聖人祭の日を境に、それを思い出し、昔のような親しい間柄になった。それくらいは想像がついていた。だからこそ、彼はイリッツァを聖女として王都に連れていくことを今までにないくらい頑なに否定していたのだろう。もともと、神をも恐れぬ男だ。エルム教を信じていない身からすれば、旧知の間柄のイリッツァが、非人道的と思われても仕方ない聖女の扱いを受けることが許せないのだろう、ということもさすがに察していた。賛同することは出来なくても、気持ちはなんとなく理解していた。

(だから、結婚とか、言い出した――ん、だよ、な…?)

 今朝からずっと、王都に着く前に彼女を逃がす計画を考えていたが、どんなに考えても現実的なものは浮かばなかった。だから、彼は考えたのだろう――聖女として王都に入ったとしても、非人道的な扱いを受けることなく、『人』としての人生を歩めるような、突拍子もない解決策を。

「いや、確かに――前例がある、といえば、そうですけど――…」

 ひくっ…と頬が引きつる。

 先代の聖女であるフィリアは、長い王国の歴史の中で、初めて一人の男の手を取った聖女だ。本来王城の奥の神殿の中にしつらえられた特別な部屋で生涯を終えるはずが、バルド・ガエルと結婚したことで、六歳で王都に連れられてきてからずっと過ごしていたはずのその部屋を出て、ガエルの屋敷に住まい、死ぬまでそこで暮らしたとされている。自分で命を絶ったという愚かな聖女の自室からは、求婚の際に愛する夫が贈ったというミオソティスの花畑が良く見えたというのは、王都では有名な逸話だ。

 恐らくカルヴァンの狙いはそれだろう。イリッツァを妻として迎えられれば、自分の屋敷に住まわせ、王城の奥で独り孤独に生涯を過ごさせることはない。フィリアが『愚かな聖女』という不名誉なレッテルを張られた理由は、聖女でありながら、一般人の女と変わらぬ愛に溺れたからだ。聖女扱いをしたくないカルヴァンにとって、むしろ彼女がフィリアと同じ道をたどり、『人』らしく生きるのは、喜ばしいことなのだろう。

「でもさすがに――む、無理、でしょう…」

 だって、どう考えても、脈がない。皆無だ。イリッツァ側に、全くその気がない。求婚だって、唐突過ぎて、全力で引かれていたくらいだ。何なら、カルヴァン自身にも、色恋の情があるかどうかが怪しいくらいだ。

 しかし、リアムは先ほどの求婚しているときのカルヴァンを思い出す。

 今まで彼に仕えた三年間の仏頂面からはとても想像できない――女嫌いという噂さえ信じられないほど、色香に満ちた雄らしい表情。そのむせ返るフェロモンは、いったいどこから出すのか、一人の女に縁のない男として、割と真剣に教えてほしい。

「兄貴が言ってた『王都一番の女たらし』だったって…本当だったんだ…」

 兄のファムが、カルヴァンの話をする時にたびたび出て来るその話は、正直、絶対に嘘だと思っていた。あんな、女に近寄られるだけで顔をしかめ、眉を顰め、何なら遠慮なく睨み付けるくらいの女嫌いのいったいどこに『女たらし』要素があるのかと疑問でしかなかった。

 確かにカルヴァンは、今でも王都中の女性の憧れの的ではあるが、それは彼の整った外見に加え、救国の英雄だの騎士団長だのといった肩書が何より魅力的だからだ。誰もが、収入的にも安定した『英雄の妻』になりたいと、半分以上打算を持って接してくる。それに加えて、見た目がやたらと良いから、一獲千金の夢とともに本気になる女性が多いのだ。

 しかし、女どころか、部下ですら容易に近づけさせないほど険しい顔を常に崩さないカルヴァンが、自分から女を口説く姿など、一体だれが想像出来ようか。いや、出来まい。

「本気を出した団長になら…イリッツァさんも…もしかして」

 確かにあれでは、落ちない女はいないと言われても信じられる。あの整った顔で、あのむせ返るような色香を振りまかれては、仮に自分が女だったとしたらひとたまりもないと容易に想像がつく。

「は……はは……ほんと…常人には思いつけないことを、考える人だ…」

 リアムは乾いた笑いをあげて――

 ――それでも、今朝から聞いてきた荒唐無稽な計画の中では一番、反対する気になれないその計画を、リアムは何も言わずに見守ることに決めたのだった。


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