42、再び廻る、不思議な『歯車』②
「リッツァ!」
場に響いたそれが、目の前の少女の愛称なのだと気づくのに一拍かかった。
(…あぁ、そうか。リツィード、じゃないのか)
当たり前すぎる事実を、今更ながらに思い出す。確か、今の名前は『イリッツァ』だったはずだ。
カルヴァンは、今目の前にいる少女のことを、それが男だろうが女だろうが外見など関係なく、『リツィード』だと認識している。だから、一瞬、誰のことかわからなかった。
響いた声の方を見やると、やたら馴れ馴れしそうな青年が、にやにやとした笑みを浮かべながら近づいてくるところだった。
「…フランドル…」
振り返りながらつぶやいたイリッツァの声に、珍しく苦み走ったものを感じ取り、カルヴァンは昔よりも頭一つ分ほど低くなった白銀のつむじに向かって尋ねる。
「知り合いか?」
「…ナイード領主の息子ですよ。この領一のボンボンです」
角度的にイリッツァの表情は見えなかったが、声にはこれ以上ないほどの疲労がにじんでいた。
(珍しいな)
リツィードは、とにかく表情のバリエーションが少ない男だった。カルヴァンの前では聖人らしい笑顔以外の表情をいくつか見せていたが、それでも一般人からすると多いとは言えなかっただろう。特に、負の感情に関する表情は格段に少なかったように思う。怒りや悲しみ、嫌悪や憎悪といった表情など、記憶の中にあるリツィードとのどの時間を思い描いても、殆ど見たことがなかった。――呆れたような表情だけは、カルヴァンの女関係のトラブルに巻き込まれることが多すぎて、よく見ていたような気がするが。
そんな親友が、ここまで露骨に、嫌そうな声を出すなど。
(…どんな表情してるんだ?)
純粋に、興味がわいた。昔から、リツィードが初めて見せる表情を見つけるのが好きだった。徐々に『人』に近づくその様子を知れるのが、彼を孤独から救い出す一歩のようで。
再会したイリッツァは、昔と性別は変わってしまったが、顔の造詣だけは昔の面影を残している。ふとしたときの表情は、リツィードとそっくりだった。
しかも、昔よりも、格段にたくさんの表情を見せる。
これが、彼女が十五年、ここで暮らして得たものなのだろう。彼女自身、前世では知ることが出来なかったという『愛』を知り、『人』らしさを知り、『幸せ』を知ったとその口が語った。
昔から、己の孤独と不幸にひどく鈍感なはずの親友が――ここでの暮らしが『幸せ』だったと語ったのだ。
だからこそカルヴァンは、決して、彼女を王城に――『孤独』に縛り付けることなど、どうしても許容出来ない。
今の、『幸せ』を知って、心から綻ぶ笑顔を見せ、人らしく喜怒哀楽を表す彼女を――このまま、この温かな世界で、守ってやりたかった。誰からの繋がりも得られない、孤独の闇に縛り付けるなど、たとえそれが本人の、国民の総意だと言われても納得など出来ない。
ひょい、と興味からイリッツァの顔を覗き込むが、一瞬遅かったのか、イリッツァはいつもの聖女然とした笑顔を張り付けていた。
(――これは、本当に嫌なんだな)
誰も寄せ付けないその笑顔に、彼女の本気を感じて、ニッと片頬が上がる。聖女としての義務ではなく、意図的な『心の壁』を作り出すためにこの表情を作るなど、とても『人』らしくて、たまらなく、いい。
そんなカルヴァンの心のうちなど知る由もなく、イリッツァは張り付けた笑顔でフランドルに向き直った。
「何か御用ですか?領内の皆の手伝いで、領主様も今日は天手古舞と聞いていますよ、フランドル」
言外に、お前もそっちに向かえという圧を加えるが、目の前の男には通用しなかったようだ。
「相変わらず、婚約者相手につれないな。フランと呼べ、と言っているだろう?」
「「――――――婚約者――…」」
フッと気障な微笑みを浮かべた痛々しい青年の芝居がかった言葉に、カルヴァンとリアムの口から同時に声が漏れた。二人とも、やや呆然とした顔でイリッツァを振り返る。
(あー、やっぱり誤解された…)
領内の人間は、フランドルとイリッツァのこのやり取りを何度も目にしているし、全く相手にされていないこともわかっているので、フランドルがどれだけ声高に主張しようとも、彼とイリッツァが婚約しているなどと誰一人信じることはないが、つい数日前に来たばかりの二人には、驚きとともに真実として捉えられてしまったようだ。この国では、十五歳の少女に婚約者がいることなど何一つおかしいことではないという常識もまた、その誤解を推し進めただろう。
「あー…えっとですね」
誤解を解こうと二人を振り返ると、カルヴァンが心から呆れた顔をしていた。
「おい、お前、まさかこんなのと結婚するつもりだったのか?」
「こ、こんなの!?」
いくら天下の騎士団長とはいえ、さすがに聞き流せなかったのだろう。フランドルがカッと真っ赤になる。
「これが、お前が言っていた『恋愛』を知った、とか言う相手か?」
呆れを通り越して、哀れみに近い視線を投げられ、ひくっとイリッツァの頬が引きつる。いくらなんでも、心外にもほどがある。
「誤解です」
「恋愛は個人の自由だし、昔のお前を考えたら、恋愛に興味を持ったというだけで仰天するところだが――いくらなんでも男の趣味が悪すぎる。こんな男とくっつくくらいなら、まだリアムの方がマシだ。男としては物足りないだろうが、こいつも金はそこそこ持ってるぞ」
「だから、誤解です!!彼が勝手に言っているだけで、私は誰とも婚約なんかしてないしする気もない!」
「いやいやいやいや、団長、ついうっかり流しそうになりましたが、嬉しいような微妙に失礼なようなこと言わないでください!!!?っていうか、聖女様相手に結婚とか婚約とか、そんなのありえないですから!」
リアムが慌てて否定する。そして、目の前の最近成人したばかりであろう、世の中を全く知らないボンボンの肩に手を置き、そっと口を開いた。
「えっと――あの、貴方。フランドルさんでしたっけ?…えー、悪いことは言いません。彼女だけは諦めた方がいいです。あとひと月もしたら、きっと、今日までの自分を黒歴史だと忘れたくなるはずです。知らないと言うことは罪ですね…」
そうして、心からの哀れみの表情を浮かべる。
この王国において、聖女は神の化身だ。神には、気安く触れることすら禁忌。まして、普通の人間のように扱うことなど、不敬以外の何物でもない。それが――婚約しよう、と迫っていた、などと。しかも、相手に全力で拒否されているというのに、無理矢理、痛々しさ全開で、愛称で呼べなどと言って迫っていた、と。
これが、黒歴史という以外のなんだというのか。
「なっ…なんなんだお前ら!き、騎士団だからって――」
「フランドル様!!こんなところにいらっしゃったのですか!」
赤い顔のまま小物丸出しの発言をしそうになったフランドルの背後から、身なりのきちんとした男性が走ってくる。
「また聖女様にちょっかい出してたんですか!?もういい加減諦めなさいって皆に言われてるでしょう!?」
「なっ――お、俺は!」
「そんなことしてる暇があるなら、さっさとこっちを手伝ってください!人手が足りないんです!旦那様に言いつけますよ!」
「ちょ――待て、待てわかった、わかったから引きずるな!」
どうやら、領主の部下か何からしいその男は、容赦なくフランドルの首根っこを捕まえ引っ張って行ってしまう。
残された三人は、はぁ、とため息を吐いた。なぜか、どっと疲れる相手だった。
「さすが領内一のボンボンと言われるだけのことはありますね…狭い世界の中で見える物だけを見て生きてきたんですかね」
「はは…まぁ、それもこれも、ある種の幸せの証拠ですから」
リアムの同情めいた哀れみの声に、苦笑いで答える。
「あの、念のためにお聞きしますが――本当に、あの男とは、何でもないんですよね?」
「もちろん。もともと、還俗するつもりなんてありませんでしたから。一生独身で、神様にお仕えするつもりでしたよ」
いつもよりも優しい顔でふわりと笑って、イリッツァはカルヴァンの長身を見上げる。
「だから――王都に行っても、ここにいても、独り身なのは変わりません。誰の物にもならない『聖女様』――それで、いいじゃないですか。ナイードも、王都も、王城も、何も変わらないですよ」
だから、もう、気にしないで。
言外に込めたメッセージを、カルヴァンはこれ以上ないほど嫌そうな顔で受け止める。どうやら、全く納得してくれていないらしい。上官の頑なな表情を見て、リアムがそっとイリッツァのフォローをした。
「団長、諦めましょう。確かにイリッツァさんは可愛いですが、この底抜けの優しさは、まさに聖女になるべくして生まれてきたお方ですよ。きっと、国を良い方向に導いてくれます」
「だが――」
「俺だって、あの領主の息子を笑えません。知らなかったとはいえ、イリッツァさんと結婚したいとか一瞬本気で思いましたし。――でも、今はあの頃の自分をぶん殴りたい。雲の上の人間に、何を分不相応な気持ちを抱いているのかと。俺ごときに、彼女の手を取る資格なんてないんだと」
「――――――――手?」
ぴくり、とカルヴァンの眉が動いた。眉根を寄せたいつもの少し鋭い視線を寄越され、リアムは少し戸惑い、言葉をつづけた。
「え、や、比喩ですけど。求婚の仕方はご存じでしょう」
「………あぁ…なるほど。あったな、そんな習慣」
「三十路手前の癖に何言ってるんですか…他人事じゃないですよ、団長…」
呆れた声が聞こえるが、本当に忘れていたのだから仕方ない。求婚など、自分にとってあまりに遠すぎる世界の出来事過ぎて、思わず失念していた。
王国の一般的な求婚は、男性から行うのが習わしだ。何かプレゼントを用意して、男性が跪き、手を取って口づけを落とす。その昔、聖典の中で語られる騎士が神に忠誠を誓うエピソードになぞらえた、永遠の愛を誓うためのそれを指し、王国で決まった女性の「手を取る」と言えば、それは求婚すると同義だ。一夫一婦制のエルム教において、手を取り合う男女は互い以外の誰かと手を取ることを禁止される。
聖典の中では、「手を取る」というのは、恋人に限らず親や友人など、自分以外の誰かと愛を分け合う行為の比喩として何度も登場する。市井の民の間では主に男女の恋愛で用いられる慣用句だが、聖職者は聖典の中に描かれる意味での「手を取る」行為を民に解く。だからこそ、王国民でありエルム教徒であれば、日常的に非常になじみ深い表現の一つであり――つまり、カルヴァンにとっては、馴染みがなさすぎる表現だった。
「――待てよ…?」
ふ、と。
灰褐色の瞳がほんの少し伏せられる。考え込むように顎に手をやり、そのまま、一点を見つめてカルヴァンは押し黙ってしまった。
「だ……団長…?」
これは、もう完全に一般人を置いてきぼりにするモードだ。リアムは、尋ねても無駄だろうとわかりながら声をかけたが、案の定整った思案顔に当たり前のように無視される。
きっと、人並み外れた頭脳は、このまま周囲を置いてきぼりに、一足飛びに結論を出すのだ。凡人には思いつかないような結論を。
「――――」
一瞬考え込んだ後、伏せられていた灰褐色の瞳がふいに上げられる。目の前のイリッツァの顔をじっと見つめ――その後、ゆっくりと足のつま先まで視線が下ろされたかと思うと、そのまま戻って来て、再度美しい顔で止まる。薄青の瞳を守る長い白銀の睫毛が二度、三度と風を送る。
「…え。……何ですか」
まるで品定めでもされるかのような不躾な視線に、怪訝な顔で問いかけるも、カルヴァンは聞いていないようだった。二、三度瞬きをしてから、じっとその薄青の瞳を見つめ――
「――――――――アリだな」
「――――――はい?」
完全に周囲を置いてきぼりにして一人納得したようにうなずいたカルヴァンに、これ以上ないほど眉根を寄せる。意味が分からない。
しかし、もの言いたげなイリッツァの様子など全く気にした様子もないまま、カルヴァンはずいっとイリッツァに近づくと、あっさりとその手を取った。
「は?」
「イリッツァ・オーム」
思わず間抜けな声が漏れるが、カルヴァンは気にすることなくそのままその手を己の口元に持っていった。
そして――ふ、と妖艶に微笑む。
それはかつて――王都中の女性を虜にした、むせ返るような色気に満ちたまなざし。
「――――――――――――愛している。結婚してくれ」
「――――――――――――――――――――は――――――――?」
おそらく、頭にあるだけの三十年分のすべての記憶の中で、一番間抜けな声が、口から洩れた。
――運命の歯車は、いつの間か、妙な方向に回り出していた。
お待たせしました。やっと次の章からジャンルの(恋愛)要素が絡んできます。
ジャンル詐欺疑惑な展開が続いたにも関わらず、ここまで読んでくださった方には本当に感謝です…
まだしばらく続きます。




