39、十五年ぶりの『対話』①
部屋に帰ってくると、ひやりと冷たい風が吹き抜けた。モノトーンで統一された殺風景な部屋は、冬も間近な外気を受けて、いつもよりさらに寒々しい。
「あ、窓、開けっぱなしだったか」
「不用心すぎないか?」
「いや、この非常事態に物取りなんて来ないだろうし――そもそも、来たところで取るような物も特にないよ。せいぜい下着泥棒くらいだろ」
「………お前、さらっと凄いこと言うな」
カラカラ…ぴしゃん、と窓に近寄って戸締りをするイリッツァに呆れる。窓の下の中庭には、秋に種をまいた勿忘草の花畑が見えた。
「どうやら、女になっているのは本当らしいな」
「はは…記憶が戻ってから、初めて女物の下着を着けるときは、さすがにものすごい抵抗があったぞ」
「……十五…まぁ…そこそこだな」
じ、と上から下まで灰褐色の瞳が品定めするように行き来して、ぞわっと悪寒が走り抜ける
「オイお前、今何考えた!?絶対よからぬこと考えただろ!?」
「別に。スリーサイズを目測で測っただけだ」
「よからぬことって言うんだ、それは!」
「安心しろ。十五にしては悪くない発育だ」
「今すぐその口を閉じろ女の敵!」
飄々と言ってのける幼馴染に、傍にあったクッションを投げつけて黙らせる。
「そりゃ、確かに、大前提の記憶は男だけど――一応、ちゃんと、十五年分は女として生きた記憶もあるんだから、女としての自覚も半分あるんだ。そこはちゃんと気を遣ってくれ、頼むから」
「…なるほど?例えば、男のころと違う感覚とは?」
「――――下着姿や裸を見られるのは恥ずかしいと思うようになった」
「…なるほど。確かに昔のお前とは違うらしい」
ふ、と少し馬鹿にしたように笑うカルヴァンに、眉根を寄せる。兵舎で男社会にまみれていたあの時代の感覚とは違うのだ、ということは伝わったようだ。男としての尊厳をやや失った気もするが、仕方ない。
「きっと、お前も女になったらわかる。男なんて基本的にデカくて力強くてスケベで、女からしたらすごく怖い。少なくとも俺は世界で一番お前みたいな人種の男には近づきたくない」
「失礼な。俺は女を無理矢理襲ったりはしないぞ。相手から勝手に寄ってくるだけだ」
「…相変わらずムカつくな…」
女性関係に関しては十五年間何一つ進歩していないらしい幼馴染を見て、もはやため息しか出て来ない。
イリッツァは、机の上に出しっぱなしになっていた水差しに近づくと、グラスに聖水を注いで一口飲む。もう一杯注いで当たり前のようにカルヴァンに差し出すと、カルヴァンは受け取った後に少し顔をしかめた。
「…こういうのは昔と変わらず抵抗ないのか」
「は?」
「いや、こっちの話だ。お前の言う『女の自覚』とやらがどの程度か図りかねただけだ。気にするな」
軽く手を振ってあしらわれ、首をかしげるもそれ以上の答えは返ってこない。イリッツァはカルヴァンに手近な椅子をすすめた後、自分はそのまま寝台に腰かけてカルヴァンと向き合った。
「そこに座るのか…なおわからないな」
「は?」
「いい。何でもない」
女の敵、と言って警戒するそぶりを見せる癖に、自分から簡単に押し倒されそうな場所に腰掛ける意味が本当にわからない。彼女の言う『女の自覚』とやらは、せいぜい『昔とは違う』という程度で、一般的な十五の少女よりもかなり薄そうだ、と心の中で考える。男も女も十七で成人を迎えるこの国では、十五と言えば婚約者がいてもおかしくない年齢だ。十七になると同時に結婚することも珍しくない。
「それで?…結局お前は、なんでこんな辺境の領土で、女の姿になってるのか、説明してもらおうか」
「あぁ…うん。じゃあ、話すけど――もう一回だけ言うけど、どうせお前からしたら信じられないことばかりだろうから、途中で口挟むなよ」
最初に前置きをして、イリッツァは静かに口を開いた。
十五年前――カルヴァンの遠征の出立を兵舎の屋上で見送ってから、投獄されて、死ぬまでのこと。死ぬ直前に不思議な声を聴いて、気づいたらイリッツァ・オームとしての人生が始まっていたこと。五歳でそれに気づいてからは、素性を隠して静かに生きることを決めて、未だに前世の記憶のことは誰にも告げず、聖女であることも隠してここでずっと生きてきたこと。
さすがに、前世のころの最後の記憶の話をする時はカルヴァンの視線が鋭くなり、不用意に触れればざっくりと斬れそうなほどのとがった気配をまとっていたが、最初にした前置きを守り、彼はずっと口を挟まずに聞いてくれた。その後、イリッツァとして転生してからの話に関しては、逆に思い切り呆れた顔で、こちらの気が抜けるほど間抜けな顔で、それでも一応最後までしっかりと聞いてくれた。
「――と、いうわけで…転生したはいいけど、実際問題、もうたぶん二度と会うことは無理だろうなーと思ってたところに、お前が何の前触れもなく現れたのが、この前の出来事だ。そっからは、お前も知ってる通りだよ」
「はぁ…なるほど…?――――――お前は今の話を、俺に信じろと?」
「……だから、言っただろ。――『神の奇跡』を信じないなら、意味ないって」
渋面を作ったカルヴァンは、一度宙を見上げてから大きく息を吸って――しばらくして、ゆっくりと、肺の中の息をすべて吐き出した。
「…いや。わかった、信じる。信じよう。――人生で、神とやらの気まぐれを信じてやるのは、これだけだ」
「――――――!」
驚きと感動に息を詰まらせる少女を前に、カルヴァンは先ほどの光景を思い出す。
血臭が立ち込める広場で、死んだはずの親友と全く同じ剣筋を持った少女を見た時――
柄ではないとわかっていたが――確かに、思ったのだ。
神の奇跡を、信じてもいい、と。
あの時、この胸に広がった感動を――きっと、この親友の魂を持った少女は、想像もしないだろう。なんだか癪だから、絶対自分からは伝えてやらないが。
「まぁ…あらましはわかった。最後の半年、お前が何かを隠してやたら思いつめた顔してるのは気づいてたし――お前が死んでから、あぁ、これのことだったのか、とは思っていた。まさか、俺に嫌われるかもしれないとか、そんなくだらない理由だったとは、さすがに思いもしなかったが」
「う……だって…お前、あの時それ聞いてたとしても同じようにくだらないって言えるか?」
「――――…さぁ。どうだろうな」
灰褐色の瞳を少し伏せて、じっと一点を見据える。考え事をする時の癖。
カルヴァンはしばしその頭脳を回転させた後、正直に伝えた。
「お前が死んだあと、どうして打ち明けてくれなかったのかと、何度かお前を恨めしく思ったのは確かだ。あんな死に方して、独りで俺を置いていくくらいなら、どんな真実だって受け入れたと――確かにそう思っていたが、それは、お前が死んだ未来を知ってるからそう考えただけだ。まだ何も起こっていない状態で打ち明けられていて、それでもお前を受け入れたかどうかは、わからない。裏切られたと感じる可能性もなくはないだろうな」
「そうだろ?…だから、怖くて言えなかったんだ。――まぁ、そんな理由で、色々な人に迷惑をかけて、国家を巻き込んだ大騒ぎを巻き起こしてたら、世話ないんだけど」
決して歴史書に乗ることのない真実は――聖人と呼ばれる存在が、確かに『人』らしくあったが故の物語を紡いでいた。
「ちなみに、今は?」
「は?」
「今の俺だって聖女だ。しかも、今度はお前の大嫌いな聖職者になってるわけだけど」
「あぁ…」
カルヴァンは、何を馬鹿なことを、という様子で呆れたため息をつく。
「言っただろう。お前が死ぬ未来を知らない状態ならわからないが――今の俺は、お前が秘密を抱えたまま勝手に死んだ世界を知っている。今の俺にその質問は愚問だろう。――お前がお前なら、聖人とかどうとか、そんなの関係ない。お前は大事な友人だし――昔誓ったように、お前が勝手に独りで死んだりしないよう、守るさ。何からも」
「ははっ…それ聞いて、安心した。ありがとう、ヴィー」
こころからほっとした声と表情で伝える。カルヴァンからすれば愚問でしかないその問いかけは、イリッツァの中では真剣な問いかけだったのだろう。
「ほら、俺の話は終わりだ。お前の話もしろよ。俺が死んだあと、救国の英雄とか言われるようになるまでのこととか、めっちゃ聞きたい」
「……お前、馬鹿にしてるだろう」
「だって、お前が英雄とか…初めて聞いたとき、噴き出すのこらえるのに必死だったんだぞ」
くくっとおかしそうに笑いをかみ殺す親友に、カルヴァンはきまり悪そうな顔で視線を逸らす。
「…別に。なりたくてなったわけじゃない。お前が死んで、当時の状況が明らかになって来て――元凶だった魔法使いはすでに殺されてるし、処刑執行人は罪の意識に耐えかねて自殺した。王都中が悲嘆に暮れて、毎日懺悔室に行列ができた。敵国が攻めてきそうだっていう情報まで入ってくる。そこまで困窮を極めていた中で――お前の仇を取るためには、誰を殺せば満足するのか、俺はずっと考えていた」
「…い…いきなり物騒な話になるな……」
「仕方ないだろ。誰かを、何かを恨んでなきゃ、俺も生きてる意味を見いだせなかった」
左耳を掻いて、当時を思い出す。
兵舎に戻れば、ついこの前まで同室で暮らしていた親友の気配が至る所にあった。眠りに就けば、処刑台で苦悶の声を上げて、助けてと懇願する親友の悪夢を見る。いつも夢の中で、助けられずに――起きて、すでに親友がここにいないことを知る。現実は、夢の中よりも残酷だった。現実では――親友は、彼に、助けを求めることすらしなかったのだから。
誰の道連れも許さなかった。弱さを、秘密を、誰にも打ち明けず、たった独りですべてを抱えて、すべてを解決して、死をもって『国』を救った。
十年間、ずっとつないでいたと思っていた手は、一方通行だったと思い知らされた。最後に親友は、自分を頼ることなく、たった独りで、死地に赴いたのだ。
どうしても、許せなかった。
恩人を、あの昏い孤独から救い出すと十年前に誓ったはずだったのに――結果、その孤独の中に置き去りにした、自分が、どうしても。
「まぁ、それで――…とりあえず、誰かを恨んで、ぶっ殺そうと思って、兵舎に残っていたお前の剣を持って、王城に乗り込んだ」
「えっ!?」
「別に、本気で王族を殺そうと思っていたわけじゃないが――まぁ、殺してもいいとは思っていた。当時の俺は、『国』を恨むくらいしかできなかった。お前を殺したこんな国、ぶっ壊れればいいって思ってた」
「おいおいおい…」
「途中で阻止されて処断されることなんてわかってたさ。――それでもよかったし、むしろ、その方が都合がよかった」
そうして、たったひと振りの剣を抱えて走った王城。のちの英雄譚として描かれるそのエピソードは、何ということはない。ひどく個人的で身勝手な仇討の物語だったのだ。
「まぁ、当然途中で捕らえられ――思いのほか、玉座に迫ったのは我ながら驚いたが――そこで、恨みごとを垂れ流して、さっさと不敬罪でその場で首でも落としてくれと思っていたんだが、何故か知らんが、王が命を狙ったやつを許せと言い出した。リツィードの死から何も学ばず、ただ悲しみに暮れるだけの国なんかぶっ壊れればいいと、そんな妄言に耳を貸して、己の行動を顧みて正すと平民に約束した。国を守るために、と聖人面して頭を下げて頼む姿が――どこぞの馬鹿に似てるな、と思ったから、この王を殺すのはやめようと思った」
「……馬鹿で悪かったな」
「そのままそこで、騎士団に入団することを進められて――今後、王家が惑った時は諫める役割を担ってくれと頼まれた。親友の死を無駄にしたくないというのなら、国を守り、魔を殲滅する騎士団に入れ、と。――やることもなかったし、兵士でいるよりも危険な任務が多い騎士団に行けば、余計なことを考えなくていいとも思った。お前は、王族を殺したりするより、そっちの方を望んでそうだし」
「そりゃそうだろ…」
本当に、改心してくれてよかった。イリッツァは心から安堵のため息を漏らす。
そうして、十五年にわたるカルヴァンの騎士団生活が始まる。
ただただ――死に場所を探すためだけの、十五年間。
「入団したら、がむしゃらに働いて――そうしたら、とんとん拍子に出世した。いつの間にか騎士団長なんて役職がついて、周りが騒がしくなっていったが――俺としては、ただお前が命を賭して守りたいと言った国民を、お前の結界が消えても守り続けるためにどうしたらいいかを考えていただけだし、その過程のどこかで自分が死ぬならそれもいいと思っていた。――昔のどこぞの誰かみたいに、独りで突っ走る俺のことを引き留めようとする奇特な人間もいなかったしな」
イリッツァは少し眉を下げて――痛ましげな表情で、口を開く。
「なんで――誰かは、いただろう。十五年も、あったんだ」
「………さぁ。もしかしたら、いたのかもしれない。ただ、俺の方に、その手を取る意思がなかっただけだ。――俺は、基本的に自由でいたいし、誰にも縛られたくないんだ。だから、あの日以来、お前以外の手は絶対に取らないと決めている。面倒なものが増えるのは御免だ」
事実、カルヴァンにとって、リツィードの存在は面倒なものに違いなかった。
自由を愛し、何者にも縛られない生き方を貫いていたならば――リツィードが死んで、こんなにも心をかき乱されることもなかっただろう。リツィードが残した遺志に沿うよう働くことなど、考えもしなかっただろう。
だからこそ、もう御免だと心から思っていた。
心を分かち合った親友が消え――文字通り、心臓の半分を持っていかれたような苦しみを味わった。心が引きちぎられるような痛みに、心を凍てつかせることでしか、耐えることが出来なかった。
こんな想いをするのは、人生で一度きりでいい。また誰かの手を取って――一瞬得た穏やかな色合いの世界から、真っ暗闇の孤独な世界に突き落とされるのは、たまったものではなかった。
「でも、結婚するんだろ?」
「はぁ?」
「王女様との結婚話が進んでるって聞いたぞ」
唐突な話題に、カルヴァンは半眼で左耳を掻く。
「外堀埋められそうになってるのをのらりくらりと躱し続けてるところだ。何度断っても、なぜか聞き耳を持ってもらえない」
「そりゃ…お前に惚れてるって有名だからな…本気なんだろ、相手も」
「勘弁してくれ…」
「なんで。俺が直接見たことあるのは十五年以上前だけど、確かすごい可愛かっただろ。昔のお前だったら、是も否もなく、とりあえずのつまみ食いくらいするだろ」
「――…お前こそ、俺のこと、十五年前の思春期のガキまっさかりのころのままだと思ってるだろう…」
げんなりと呻く。人生で一番性欲が強い時代と同じ下半身事情を三十路手前になった今も抱えていると思われるのは心外だ。それなりに成長くらいする。
「…昔から言ってるだろう。俺は、誰とも結婚するつもりなんかない」
「それは――やっぱり、独りでいたいから、か…?」
額を覆って呻く声に、控えめに問いかける。
その声に、心配するような響きを感じて。
カルヴァンは、小さくふっと嘆息してから、顔を上げていつものように片頬をくっと上げて笑った。人を食ったような、悪童らしい表情。
「いや?――タイプじゃないんだ」
「っ…ふ………ははっ…お前、まだ言ってるのか、それ。三十路手前のくせして」
きっと今、二人の間には、同じ記憶が思い出されている。そんな些細なことが、何よりもうれしかった。




