37、神の『奇跡』
「ふ――――――!」
ひどく穏やかな呼吸で。
いつも穏やかなはずの瞳に、燃えるような光を宿して。
イリッツァは目の前に来た魔物をいつものように両断しようとして――
「――――――!」
ぶしゃぁあああっ
刃が届く前に、背中から大量の血を流して地に伏した魔物に、一瞬目を見開く。爛々と輝いていた瞳が一瞬、いつもの薄青の穏やかな光を取り戻す。
「ヴィ――――カルヴァン、さん」
現れた長身に、先ほどまで部屋で見せていた聖女の顔を見せる。
「こちらは大丈夫です。貴方は向こうの――!?」
右端に空気の流れを感じ、一瞬で戦闘態勢に入る。ほとんど相手を視認する前に剣を振るい、一瞬で魔物を絶命させる。
それを見て、はぁ、と息を吐く。すると――トン、とイリッツァの背中にカルヴァンが背を預けた。
「――――…あの。ですから、ここは大丈夫で――」
「帰ったら」
イリッツァの声を無理矢理さえぎり、カルヴァンは有無を言わさぬ口調で口を開く。
「帰ったら、洗いざらい、話してもらうぞ」
「えぇ…またその話ですか。貴方も凝りませんね。どうせ意味がないと――」
「信じる」
きっぱりと――
カルヴァンは、はっきりと、意思を感じさせる声音で言い切った。
「え――」
「信じる。神の、奇跡とやらを。ちゃんと、信じるから――だから、お前の口から、ちゃんと、話せ」
そうして――十五年ぶりに、口にする響きを。
「――――――『ツィー』」
「――――――――――――――――――――」
一瞬――戦闘中にもかかわらず、音が消えたような錯覚に陥る。
鼓膜を揺らすその音は――前世で死の間際、最後の最後まで、ずっと焦がれた響き。
この響きが聞きたくて――この声に、そう呼んでほしくて、もう一度、この生を得た。
「は…ははっ…えーっと…」
嬉しさと、懐かしさと、驚きと――色々な感情が混ざり合って、上手く言葉にならない。それをどうとらえたのか、カルヴァンはもう一度繰り返した。
「ツィー。約束だろ。隠し事はなしだ」
「っ――…」
昔からの、二人の間にあった、暗黙の了解。
愛称で呼び合うときは――「隠し事をするな」「本音で話せ」の合図。
「あぁもうっ…なんで、急に、そんなこと言い出すかなぁ、お前は!」
一瞬涙がにじみそうになり、慌てて憎まれ口をたたいて目の前の魔物を斬り伏せることでごまかす。後ろから、カルヴァンの呆れたため息が聞こえた。
「逆に、なんでバレないと思ったんだ。――――そんな、化け物みたいな剣筋したやつが、お前以外にいるわけがない」
「え、そこ!?そこで判断したの!?」
「それ以外の要素だったら、確かに何を言われても信じなかっただろうな」
何百回、何千回と目にした剣筋だ。強烈に憧れ、焦がれ、最後まで追いつけなかった、芸術の剣。
愛称など、剣の名前など、どこかから仕入れた知識だと、こじつければ何とでも説明できるだろうが――この剣筋だけは、知識だけでは絶対にどうにもならないことを、誰よりカルヴァンが身に染みて知っている。
「ったく…まぁでも、徹底した現実主義のお前らしいな」
「だが、さすがの俺でも目を疑ったぞ。――未だに、何が起きているのかはよくわかっていない」
「ははっ…だから――『神の奇跡』だよ。それ以外、説明のしようがない」
「なるほど?」
いつもの口癖を音に載せて、カルヴァンもまた目の前の魔物を斬り伏せる。
久しぶりの感覚。絶対の信頼を置いた親友に背を預けて戦う、この感じ。
(あぁ――――リアムの言った気持ちが、なんとなくわかる)
今なら――もし、イリッツァが何者かに操られて、剣を翻したとしても。
彼女に刺されるなら、本望だと言って、笑って死ねるだろう。
「どうりで、せっかくわざわざ死者の世界にまで行ってやったのに、迎えに来ないわけだ。冷たい友人だと思ってたぞ」
「代わりにこっちに引き戻してやっただろ。感謝しろよ」
「そうだな。種明かしされれば、戻してくれて感謝すると心から言える」
「なんだよそれ、相変わらずかわいくねーやつだな」
ザンッ――と視界に映る最後の一頭を斬り伏せ、顔を上げる。見ると、後ろでもカルヴァンが同じように最後の一頭を炎で焼き払ったところだった。ぐいっと頬のあたりの返り血をぬぐい、周囲を見渡すと、どうやら厳しい状況は去ったらしい。
すると、目の前に赤い装束が立ちふさがった。
「――――…お前、また背ぇ伸びた?」
「お前が縮んだんだ」
こうして相対して見上げてみると、十五年前との差がどうしても思い返され、可愛くない言葉が口を突いた。記憶にあるよりも、だいぶ首が痛い。
カルヴァンは、じっとイリッツァを眺め――ぐっと歯を噛みしめた。目を眇めたあと、目頭のあたりを抑えて何かを堪える。
「――…?どうした?」
「いや……どうも、ダメだな。感傷的になりすぎる。――日付も日付だし」
「は?――――――あぁ、そっか。そういや、今日だな」
ははっと吐息を漏らすように笑ったその表情は――カルヴァンが、ずっと守っていたかった、リツィードの『人』らしい笑顔。
唯一無二の友になると誓ったあの日に初めて見たときと、何一つ変わらない笑顔だった。
「っ――――――ずっと、逢いたかった…ツィー」
「あぁ。――俺もだよ、ヴィー」
この言葉に、何一つ隠し事はない、と伝えるように、互いを呼び合う。
――こうして、リツィード・ガエルが死んだ日からちょうど十五年後の今日、神の奇跡は、本当の意味で成就されたのだった。




