35、『不可解』な女②
いつぞや、一度だけ訪れたことのある部屋の扉を開けると、当たり前だが数日前と全く変わらない光景が広がっていた。あまり物が置かれていない、モノトーンで統一された、年頃の少女に似つかわしくない殺風景な一室。以前訪問した時と違うのは、部屋の主が静かに寝台に横たわり、固く目を閉ざしていることだろう。
「あっ、団長、待ってください!女の子の部屋なんだから、ちょっとくらい遠慮を――あーもう、お、お邪魔します…」
ずんずんと遠慮なく突き進む上官に泣き言を漏らしながら、リアムもそろりと足を踏み入れた。女慣れしていないリアムからすれば、十五歳とはいえ女性の部屋というだけで緊張するものなのだろう。――まったく理解できない心情だが。
カルヴァンは、その長い足でまっすぐに寝台に歩み寄り、中を覗き込んだ。見ると、髪と同じ白銀の長い睫が、固く閉じられた瞼に長い影を落としている。ただでさえ白い肌が青白く見えるのは、衰弱しているせいかもしれない。
「聖水とやらはないのか?」
「そこの机にあるやつがそうですよ、きっと。司祭様がいらっしゃらない時に目覚められたらすぐに飲めるように、毎日ご用意されていましたから」
光魔法が練り込まれた聖水は、光魔法使いの衰弱とは相性がいい。意識が戻ってその水を飲めさえすれば回復は早いだろう、と司祭は言っていた。
「そうか」
リアムの説明を聞くともなしに聞きながら、用意してあった水差しからグラスに水を注ぎ、カルヴァンは聖女が横たわる寝台へと近づく。それを見て、リアムが慌てた声を上げた。
「わ、ちょ、無理ですよ!完全に意識を失ってる上に、かなり体力も消耗してるのか、口に水を持って行ってもすべて零れてしまって…」
「――…で?」
「え?」
「それで、お前、そのまますごすごと諦めて帰って来たのか?」
「え…な、何で――」
カルヴァンは、童顔ではあるもののその実もう今年二十歳になろうかという青年を見て、呆れて物も言えない、というように頭を振った。
「お前、そんなんだからいつまでたっても童貞なんだ」
「なっっっっ!!!!?どっ…ど、どどどどどっ!?」
「飲めば回復することがわかってるなら、さっさと飲ませればいいだろ」
カッと頬を染め上げて言葉に詰まるリアムを尻目に、カルヴァンはためらうことなく聖水を己の口に含み――イリッツァの桜色の唇に口づけた。
「――――――ん――…」
「――――――――――!!!!!!!!????????」
目を白黒させているリアムの気配を背後に感じながら、そのか細い喉が確かに上下したのを目視して唇を離す。見ると、先ほどまで青ざめていた頬が、ほんのりと血色よく色づいているように見えた。
「――…一杯じゃ目覚めないのか。もう一口――」
「ちょっ――ちょちょちょちょ待っ――だっ、団長ぉおおおおお!!!!?」
ハッとやっとのことで我に帰ったリアムが、もう一度同じことをしようと口に水を含もうとしたカルヴァンの肩を掴んで全力で制止する。
「なんだ、いちいちうるさい奴だな」
「まままままま待ってください!!!何してんですかアンタ!!!!!」
「口移しで飲ませてる。自力で飲めないら、これが一番早いだろ」
至近距離で本気の檄を飛ばしてくるリアムに、見ればわかるだろ、と思いながら半眼で答える。
「いや、だっ…だからって、いくらなんでも躊躇なさすぎ――」
「こんなことで躊躇するか、阿呆。だからいい歳して童貞なんだ、お前は」
「今それ絶対関係ないでしょう!!!!!??」
真っ赤になって本気で怒鳴る。うるさいな、とカルヴァンは面倒くさそうに顔をしかめた。
「あぁ、お前、この女に惚れてたんだったか。それは悪かった。なら、お前がやれ」
「やっ…やれるわけないでしょう!!!!」
「じゃあ止めるな。俺は、この女に聞きたいことがある」
「あぁああああああ!!ダメ!!!絶対ダメです!!!!せっ――聖女様ですよ!!!?聖女様に、聖女様に、なんということを!!!!!」
「はぁ??知るか、そんなこと。とっとと起こして結界張りなおさせることの方が重要だろう」
「絶っっっっ対ダメです!!!!いくら団長と言えども、いちエルム教徒としてこればっかりは譲れません!こんなの、聖女様への、神への冒涜にも等しく――」
ギャンギャンとうるさいリアムとの押し問答が続き――
さすがにうるさかったのか。
「――――…ん…」
ぴくっ…とイリッツァがかすかに声を上げて身じろぎをする気配があった。一瞬、騒いでいた二人ともが口を閉ざして寝台を見る。
聖水が光魔法使いとの相性がいい、というのは確かなのか、たった一口で、イリッツァはかすかに意識を取り戻したようだった。ゆっくりと、小さく震えた瞼が押し上げられる。
ぼんやりと、焦点の合わない薄青の瞳が、宙をさまよった後、視界の端の灰がかった藍色の髪で動きを止める。
「――――――――ヴィー…?」
ざわりっ…
確かにカルヴァンに向けて呼びかけられたその小さな声音に、事前に聞いていたはずにもかかわらず、胸がひどくざわめいた。
その呼び名で、他人に呼ばれるのは何年振りだろう。――いや、数える間でもない。十五年だ。忘れるはずがない。
この世で、この名でカルヴァンを呼ぶのは、確かにリツィードしかいなかったはずなのだから。
十五年ぶりに、もう二度と呼ばれるはずのない愛称で呼びかけられ、一瞬、言葉が出て来ない。
「――――…ゆ、め…?」
少し悲しそうにつぶやいた後――イリッツァは再び目を閉じ、布団をかぶった。
「オイ。何してる。起きろ」
「っ……嫌、だ…起きたくない…」
二度寝を決め込もうとしている少女に、思わずツッコミを入れてシーツをつかむ。必然的に、布の端を握りしめるイリッツァとの攻防になった。
イリッツァは、ぎゅぅっと力強く布団をつかんだまま、眦にかすかに滴を浮かべた。
「っ…嫌っ…だ……ヴィーがいない、世界に、なんて…っ……戻りたく、ない…っ」
「―――――――――」
「神様っ………」
頼りなさげに神にすがる震える声は、確かに涙にぬれていた。恐怖に震えるその薄い肩を見て、カルヴァンはつい毒気を抜かれて剥ごうとしていたシーツから手を離す。
「………ね?これで他人、っていうのは、さすがに無理がありませんか?団長」
「――――そういわれてもな…」
左耳を掻いて、心底困った声を出す。心当たりがないのは本当なのだ。ヴィー、と呼ばれる心当たりも、ここまで大切に想われる心当たりも。
布団を頭からかぶって、震えながら再び夢の世界に旅立とうと現実逃避する少女に、リアムはゆっくりと近づいてそっと布団の上から手を触れた。なるべく怖がらせないように、ゆっくりと落ち着いた声音で語り掛ける。
「イリッツァさん。――落ち着いてください。これは現実です。どうか、顔を出して」
「っ……リアム…」
ゆっくりと布団の中の塊が動き、眼だけをそっとのぞかせ、はちみつ色の髪をした青年の姿をとらえる。その瞬間、意識を閉ざす前の夜の光景がまざまざとよみがえり、ぶわっとイリッツァの瞳に涙の膜が張った。
「――っ…ご、めん、なさっ…私っ……ヴィ、ヴィーを、助けられ、なかっ…っ!」
「あぁぁぁ、ちょ、ちょっと待って、落ち着いて!…あぁもう、なんだって泣き顔だってそんなに可愛いんですか反則です!」
ぼろぼろぼろっと零れ落ちた大粒の涙に驚愕しつつ、ついうっかり心の声が漏れる。
それから、リアムはゆっくりと布団の端を握りしめていた手を取って、寝台の脇に跪くと、額に当てて頭を垂れた。まるで、神の御前にいるかのように。
「イリッツァさん。心から、貴女に感謝いたします。貴方のおかげで、俺たちの大事な団長が、帰って来てくれました。神の奇跡は、あるんですね。最後まであきらめなかったあなたと――奇跡を起こしてくださったエルム様に、心からの感謝と、永遠の忠誠を誓います」
「――――――――え…?」
イリッツァは、鼻声のまま聞き返し――ゆっくりと視線をめぐらす。そこには、灰褐色の瞳をした長身が、静かにイリッツァを見下ろしていた。
何度も、何度も瞬きをする。涙の膜が邪魔で、慌てて目をこすり――もう一度、視線を戻しても、その懐かしい顔は、幻のように掻き消えることはなかった。
「夢――…じゃ、ない…?」
「ああ。――夢じゃなくて悪かったな。お前のおかげで、この通り、死の淵から舞い戻って来たらしい」
「ちょっと、団長!"お礼"は!!!!!約束したでしょう!!!!」
「あー……イリッツァ・オーム。助けてくれたとのこと、感謝する。後日、褒美を贈らせるから、俺たちが帰るまでに考えて何でも好きなものを言え。俺で調達できる物ならなんでも贈ろう」
「ちょっ…可愛げがない!即物的!もうちょっと情緒的な言い回しとかできないんですか!?」
「うるさいな…この俺が聖職者に礼を言うだけでも進歩だろう」
ギャンギャンと言い合いを始めた二人を前に、イリッツァはゆっくりと現実を噛みしめる。
(――――――…ヴィー、だ)
見上げるほどの長身も、雪国を宿した切れ長の瞳も、リアムの小言に目を眇めて面倒くさそうにしている表情も、低く響く落ち着いた声音も。
全部――全部、リツィードが、イリッツァが、二人ともが知っている彼だった。
「っ―――――――!」
ぶわっともう一度熱い衝動がこみあげ、息を詰めて目頭を押さえる。
(夢じゃない。――――――――夢じゃ、ない)
カルヴァンが、生きている。
生きて、呼吸をして、動いている。いつも通りの彼が、ここに、いる。
「っ…神様――!」
(ありがとう。ありがとう。ありがとう)
聖印を切って頭を垂れ、心の中で、何百回と感謝を伝える。これが、神の奇跡でなくて何だというのか。神を信じられる喜びに打ち震えながら、イリッツァは静かに涙を流した。
「――熱心にお祈りしているところ悪いが、お前に聞きたいことがある。イリッツァ・オーム」
「ぅ……え…?」
ぐすっと鼻をすすって聞きかえすイリッツァに、カルヴァンはこれ以上ないほど眉間にしわを寄せて口を開いた。
「お前は何者だ?――――――リツィードと、どんな関係がある?」
「え――――――」
声を上げたのは、リアムだった。ぱちくり、と鼈甲の瞳が驚きに見開かれている。
「だ、団長…?えっと…それは、どういう――」
「どういうもくそもない。どう考えても、この女、リツィードとつながっているとしか思えない」
「――――――――…」
「俺を『ヴィー』と呼ぶのは、俺の知る限りあいつだけだ。それに、あの剣。『カルア』なんて名前が付いていたことを知っているやつがあいつ以外にいるか。しかもそれが、俺が持っているあの剣のことだと知っている奴なんて、もっといるわけない。おまけに、光魔法が発動する仕掛けなんてとんでも技、あいつ本人しか知らないだろう」
「あー…」
イリッツァは、涙をひっこめて後ろ頭を掻く。なんだかんだ言って、カルヴァンがあの仕掛けを使ったことが何より驚いた。正直、昔、日常の合間にさらりと話題に触れただけの剣の名前なんて、絶対に覚えていないと思っていたし――奇跡的に思い出したとしても、光魔法嫌いのカルヴァンが、大人しく使うとも思えなかった。それほど追い詰められていたと言うことだろうか。
やや現実逃避気味にそんなことを考えるイリッツァを置いて、カルヴァンは厳しい顔のまま言葉を募らせる。
「最初はあいつの生きていたころの知り合いなのかと思ったが、どう考えても年齢のつじつまが合わない。お前がそんな成りをして実は三十路手前の若作り女なのかとも考えたが、さすがに赤子のころからここの司祭が拾って育てたという話はごまかせないだろう。周囲の目もある」
「…うーん…」
「あいつが手記か何かを残していて、それが母親の生地だったこの領地に送られて司祭経由でお前の手元にわたって――とかも考えたが、どうにも考えにくい。死亡後あんなに騒ぎ立てられて奉られたあいつの手記が出てきたら、それこそお祭り騒ぎで国宝扱いされるだろう。辺境の領地の教会になんて贈られるわけがない。今頃王立図書館か王立博物館あたりに寄贈されて公開されてるはずだ」
「あー…まぁ、確かに…」
「一番可能性としてありそうなのは、司祭が文通していたあの聖女との手紙の中に、リツィードのことが書かれていたという説を思いついたが――あの、息子にまったく興味がなかった雪女が、息子の剣の名前やら息子の友人の愛称やらをわざわざ郷里の知人の手紙に書くなんて、正直天地がひっくり返ってもないと思っている。万が一そんなことがあったとして――それをお前が読んだとして、俺を当たり前に『ヴィー』と呼ぶ理由もよくわからん。まして、全魔力を使い果たしてまで救おうとする理由なんか、これっぽっちもわからん」
「まぁ…そりゃそう…ですね…」
周囲が思いつく三倍の速さで仮説を口に出してはそれを五倍の速さで打ち消していく頭の処理速度は、昔と何ら変わらない。イリッツァは久しぶりに、カルヴァンと真面目な話をしていると途中で会話に置いて行かれるこの感じを味わいながら小さくため息を吐いた。だから、いつも思うのだ。自分はとんでもなく頭が悪いのだと。
客観的に見れば、リツィードは決して頭が悪いわけではないだろう。それなりに察しもよく、優秀な部類に入る。
ただ、幼い頃から側にいる親友が常人の域を超える頭の回転速度を誇るせいで、自分は頭が悪いと思い込んでいるだけだ。カルヴァンが、かつての親友の剣と比較して、己の剣は決して誇れるものではないと思っているのと同じように。
「あ、あの、イリッツァさん。団長のこれはいつものやつなので、落ち着いて考えてくれていいですよ。この人の頭についていくのは一般人には無理なので」
「はは…リアムさんは優しいですね。ありがとうございます」
およそ上官に対するものとは思えないフォローを聞いて、イリッツァは思わず微笑む。一瞬リアムの頬が紅潮したのを視界の端でとらえながら、とりあえず場を持たせるために、傍にあった聖水と思しき水の入ったコップを取って一口飲んだ。冷たく喉を滑り落ちる感覚が心地よく、飲んだ瞬間から魔力がみなぎり、回復してくるのがわかる。光魔法を使う者にとって、聖水はこれ以上ないほどの万能薬だ。
(うーーーん…どうやって説明しようかな…)
事実を伝えることは簡単だ。だが、それではカルヴァンは絶対に納得しないと言うこともわかっている。
なにより、仮に伝えるにしても、リアムがいるこの場で真実を伝えるのはなるべく控えたい。大事になっても困る。
水を飲み終えるのを見届けると、カルヴァンは眉間にもう一つ皺を刻んで、言い募った。
「さぁ、考える時間はやった。さっさと俺を納得させる答えを言ってもらおうか」
「短っっ!団長、いくら何でも短いです!ひどいです!」
「リアムさん、大丈夫です。知ってます、こういう人だって」
苦笑して、イリッツァのために上官に歯向かおうとするリアムを押しとどめる。ぴくり、とカルヴァンの眉が跳ねあがった
「ほう。『知っています』ときたか」
「あー…まぁ、はい。その…説明することは、簡単なんですけど――でも、意味ないと思います」
どうせ、カルヴァンの頭脳の前で、下手な言い訳など通用しない。嘘やごまかしなど、本気になったカルヴァンを前にすれば、その観察眼でどんな小さなほころびでも見つけ出し、一瞬で詳らかに偽りが明らかになってしまうだろう。
イリッツァは、覚悟を決めて――真実を告げて、全力で、逃げることにした。
「どうせ貴方には、何一つ信じてもらえないと思うので」
にこり、と。それはそれは完璧な聖女の微笑みで言い切る。
「――――イリッツァさん…前から思ってましたけど、可愛い顔して、結構いい性格してますよね…」
「ふん…なるほど、面白い。何が何でも聞かせてもらいたくなったな」
ひくり、と頬を引きつらせるリアムと対照的に、カルヴァンの瞳には好戦的な光が輝く。挑戦状をたたきつけられたように思ったのだろう。
イリッツァは、余裕の表情を崩すことなくまた一口聖水を飲み込むと、ゆっくりと神の教えを説くような調子で口を開いた。
「そうですね――まず、貴方は、『神の奇跡』を信じますか?」
「信じるわけないだろう」
「はい。ですよね。――――――以上です。貴方が神の奇跡を信じない以上、私が何を話しても無意味です。真実を話しても、どうせ、難癖をつけられて信じられない、真実を話せと無用な押し問答が続く未来がありありと見えます」
ぴしゃり、と話を打ち切って、完璧な笑顔でそれ以上の追求を避ける。『話はこれで終わりだ』とその薄青の瞳が物語っていた。
そのまま、完璧な笑顔でリアムの方を向く。
「ところでリアムさん。――貴方に、お願いがあるのですが」
「えっ…は、はい、なんでしょうか?」
「――――――――私を、王都の教会に連れて行ってくれませんか?」
「え――」
リアムは、驚いた顔で言葉を失う。イリッツァは、完璧な笑顔を崩して――その顔に、苦笑を刻んだ。
「ありがとうございます。――きっと、私が眠っていた間、黙っていてくれたんですね」
「えっ…あっ…そ、それは――」
何の話か思い至り、リアムは気まずそうな顔をする。
イリッツァは、この部屋の様子を観察したときに、リアムが今回のことで明らかになった秘密――イリッツァが本物の聖女である、という事実を、ずっと秘密にしてくれていたことを察していた。
もしもそんなことが公になっていれば、今頃、領民が殺到していたはずだ。伝説の聖女が伏せっているとあれば、かわるがわる見舞いに訪れ、花や見舞いの品があふれんばかりになっているだろう。
それが、この部屋には全くない。きっと、大量の死傷者が運ばれてきたことはさすがに領民も知るところとなっているだろうから、単なる治療疲れによる疲労で寝込んでいるとでも広報されているのではないだろうか。
「お気持ちはとてもうれしいです。でも――ダメですよ。"優秀な光魔法使い"ならともかく…さすがに、"聖女"の隠匿ともなれば、反省文と罰金だけでは済まされません。領地の皆にも迷惑がかかるし――敬虔な信徒たる騎士の貴方も、知っていたのに隠したと知れれば、ただではすみません」
「っ…で、でも、あの時周囲にいたのは俺だけですっ!貴女は、俺の無茶なお願いを聞いて、神の奇跡を起こしてくださった――それだけで、十分です!その恩を返すためなら、俺は、あの夜のことを誰にも言いません!」
「――何の話かは知らないが」
カルヴァンが、静かに、わざとらしく割って入る。今、この場で話を終えるなら、カルヴァンも知らぬ存ぜぬで通す、という意思表明もかねて。
「リアムは伊達に俺の補佐官を三年も勤め上げてるわけじゃない。口の堅さは俺が保証する。根が優しいやつだから、惚れた女が必死に隠していたことを無理に暴くことなんか絶対にしないし、仮に知っても口外なんてしない」
「団長…」
「俺はお前に何の個人的感情も持っていないが――いや、リツィードとの関係を吐くつもりがないというのはかなり癪に障っているが――俺個人としても、リアムの意見に賛成だ。この時代に、そんな"秘密"を引っ提げて王都入りしたらどうなるか、なんて、子供でもわかる」
「――――――…」
「お前に与えられる自由なんてなくなる。神を狂信するやつらによって王城の奥深くにある神殿に幽閉されて、孤独なまま一生を終える羽目になる。…お前は先代の聖女や生きているリツィードを知らないだろうから想像できないかもしれないが――あれは、外から見ても異常な世界だ。国民を守るというお題目のもと、国家繁栄のための奴隷として、ただひたすら孤独に滅私奉公させられ続ける。――先代の聖女が心を壊して死んだことくらい、話に聞いて知っているだろう」
「はは……もちろん知っています。きっと、貴方よりも、ずっと、ずっと、詳しく」
少しだけ笑って、イリッツァは肯定した。一瞬だけその瞳によぎった影が、十五歳の少女が抱える闇とは思えず、カルヴァンは咄嗟に息をのむ。
「でも、いいんです。もともと、自分が聖女だと気づいて――それを隠そうと決意した日から、『もし誰かに知られるときがあったら、その時は大人しく聖女としての生を受け入れる』と決めていました。どうせ、一生ずっと隠し通せるとは思っていませんでしたし――自由に生きた、この十五年の想い出があります。何も、寂しいことなんてないです」
「で、でも――」
「リアムさん、いいんです。私は、この生で、やりたいことが、たった一つだけあった。その一つを叶えるためだけに、生まれてきたと言っても過言ではないんです。その願いを叶えるためには、どうしても聖女であると露見するわけにはいかなかった。――でも、それは、もう、叶った。あとは、いつ死んでも未練がないこの生をどう生きるかですが…十五年も、聖女としての役割を放棄して生きてきてしまったのですから、残りは、少しでも多くの人の役に立ちます。この生の目的はもう、果たされたのですから」
「イリッツァさん――…」
にこり、といつもの笑みを刻んだあと――ふ、とイリッツァは少し困ったように眉を下げた。カルヴァンが、ピクリと反応する。
その、表情は――どこかで見慣れた、その表情は――
「リツィード・ガエルも…十五年、聖人としての責務を放棄して、結果、国民を危機にさらしてしまいました。私も、貴方たちが来た時に、聖女としての責務から逃げていたせいで――たくさんの人が、傷つき、命を落としました。貴方たちの、大切な戦友たちです。…もう、これ以上、同じ轍は踏めません。私の力で、救える命があるのならば――私の自由など、些細な問題です」
(あぁ――吐き気がする)
この、聖女という十五歳の少女は――
あの時の、親友と、同じ造形の顔で、全く同じ表情で――
まったく同じことを、言ってのける。
十五年前に凍てつかせたはずの胸が微かに痛みを発する。まるで、お前には決してこういう運命の人間を救うことなどできないのだと、まざまざと神とやらに見せつけられているようで――
たかだか十五とは思えない、決意に満ちた凛とした瞳の少女を前に、カルヴァンもリアムも言葉を探せないでいると――
バタバタバタっ
「――?」
遠くからあわただしい足音が近づいてきたことに気が付き、三人が扉を振り返る。
「失礼しますっ!!!!団長!!こちらにおいでですか!」
ノックすら忘れて、いきなり扉が開いたかと思うと、隻腕の騎士が蒼い顔で飛び込んできた。
「どうした!」
その様子にただならぬ気配を感じ、リアムとカルヴァンの顔に緊張が走る。
「まっ…魔物が出ました!領内に、複数!」
「「な――――――――!」」
驚きの声を上げたのは、リアムとイリッツァだけだった。カルヴァンは、予測していたかのように高速で非凡な頭脳を回転させる。
「わかった、すぐに向かう。――リアム、指揮系統を整理して隊を分けて指示を下せ。お前が一番、今の隊の様子を把握している。動けるが戦闘に加われないほどの負傷兵は領民の避難誘導に回せ!」
「はっ!すぐに!」
「あっ、ま、待って、私も――」
「お前も動けるなら、領民の避難誘導に加われ!ひとところに集めたら、その魔法で避難所に結界を張って領民を守っていろ!」
「っ――!」
返事をするより早く、二人は部屋を駆けだしていってしまう。
おそらく、カルヴァンの指示は的確だろう。『聖女様』がいるだけで、領民は安心するだろうし、イリッツァの光魔法があれば、どんな魔物が来ようとその結界を破ることなどできない。
だけど、どうしても――二日前の、悪夢がよみがえる。
もし、また――彼が命を落とすようなことがあったら…?
神の奇跡を二度も起こせるほど、イリッツァは楽観的になどなれなかった。
領民を全員守り切ったその先の未来が――同時に、カルヴァンが命を落とす未来なのだとしたら――?
「っ――――――――!」
イリッツァは、覚悟を決めて、布団をはねのけ寝台から飛び降りた。
今度こそ――一番近くで、悔いなく親友を守るために。




