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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第三章

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32、『始まり』の記憶②

 それからの日々は、しばらく本当に悪夢のようだった。

「カルヴァン!カルヴァン!」

「来るなっっっ!近寄るな!!!帰れ!!!」

「なんでそんなこと言うんだよ!」

「お前みたいな気持ち悪い奴、相手してられるか!俺は逃げる!」

「あっ、待て!」

 今日もまた始まる、不毛な鬼ごっこ。広大な王立教会の裏庭で、おおよそ子供らしい可愛らしい声とは無縁の殺伐とした声が響く。本物の鬼にでも追いかけられているかのように、必死に逃げるカルヴァンと――日々の鍛錬ゆえに、あっさりと追いついてしまうリツィードの、不毛なやり取り。

「捕まえた!!!」

 バシッ

「ぐっ…!」

 一瞬、足に衝撃を食らったかと思うと、綺麗にひっくり返される。――後ろから足払いを掛けられたのだと気づいたのは、真っ青な空を仰いだ後だった。

「――大丈夫か?」

「――――…後ろ頭が痛い…」

「お前が逃げるからだろ」

「お前が追いかけてくるからだ」

 あの日以来、リツィードの丁寧な言葉遣いは鳴りを潜めた。最初のころは、慣れない言葉遣いに苦戦していたようだが、最近では、何の違和感もなく自分のことを『俺』と呼んで、カルヴァンの生意気極まりない口調を真似している。

 リツィードは倒れたまま嫌そうに呻くカルヴァンの腕を取り、ゆっくりと体を起こした。

「さて、今日は何を話してくれるんだ?」

「はぁ…ったく…なんで俺は余計な約束したんだ…」

「お前が自分で言い出したんだろ。捕まえたら、一つ何か教えてくれるって」

 追いかけっこ初日に、壁際に追い詰められたカルヴァンは、恐怖のあまり約束してしまったのだ。捕まえられたら、素直に一つ何でも言うことを聞く。そのかわり、頼むから一つだけで解放してくれ、と。

 何でも言うことを聞く、という申し出に、リツィードは少し困った顔をした後――自分の知らない"何か"を教える、という条件を出した。

 それ以来、毎日欠かさずこの恒例行事が行われることになったのだ。

「はぁ…そうだな……じゃあ…ファム―ラ共和国って、知ってるか」

「お、初めての話題だ。…名前だけは知ってるぞ。確か、北の方にあるんだろ?」

 リツィードはきらりと瞳を輝かせてカルヴァンを振り返った。

(……だいぶ、いろんな顔をするようになったな。こいつ)

 不毛な追いかけっこを続けてもうどれだけ経ったかなど数えてもいなかったが、意外と長くこんな関係を続けている。あんなにも真面目腐った口調だった彼が、今のぶっきらぼうな口調に違和感なく慣れてしまう程度には、長い関係性だ。

 つまり、それだけたくさんの時間を、リツィードと過ごしたことになる。未だに、リツィードのことはよくわからないことが多く、自分から積極的に近寄ろうなんてことは全く思わないが、それでも当初の背筋が凍るほどの恐怖は感じない。

 話をすれば分かった。――彼は、『無垢』なのだ。教えたことを素直に吸収して自分の物にしてしまう。そして教えてくれたカルヴァンに感謝して、また翌日笑顔でやってくるのだ。

 感謝、などというものは、両親が死んでからというものされた記憶がなかった。今のカルヴァンに『ありがとう』などという言葉を発するのは、世界を探してもリツィードだけだろう。

 最初は気味が悪いと恐怖の方が勝っていたはずなのに、今は、なんだかんだと流されて、最初の追いかけっこはほとんど習慣だから行うだけで、毎日の対話自体に嫌悪を抱くことはなくなっていた。

 カルヴァンにとって、腫れ物に触るわけでもなく、蔑みんだ目で見られるわけでもなく、対等な立場で、"友人"になろうと語り掛けてくるリツィードは、遠慮なく素で接することが出来る数少ない人物だった。

 どんなに拒絶してもしつこく追いかけてくる執念に負けて、一つ、また一つと話をしていくうち――昔は、思い出すことすら辛くてたまらなかった、父と母の生きていたころの思い出も、気負うことなく、リツィードだけには話せるようになっていた。

 両親が死んで以来、昼も夜も真っ黒に塗りつぶされていたはずの世界は、リツィードと一緒にいるときだけは、不思議と少しだけ、穏やかな色合いを見せる。

「俺の親父は王都の出身だが、母さんはファム―ラの出身だ。商売に行ってた時に出会って、結婚したらしい」

「へぇ…あぁ、だから、お前、珍しい色してるのか」

 リツィードは、納得したようにカルヴァンの顔を覗き込む。

「…色?」

「あぁ。――瞳の色。雪空みたいな色で綺麗だなって、ずっと思ってた」

「――――――それ、綺麗か?」

 呆れた顔で返す。目の前にある薄青の瞳の方が、可憐な花の色のようで、よほど美しい。

「そういえば、髪の色も少し灰色っぽいよな、お前」

「さぁ…あまり気にしたことないから知らん」

「えー、もったいないだろ。俺がお前みたいな色してたら、絶対自慢するのに」

「……気味が悪い、としか言われたことないぞ」

 呆れたように吐き捨てて、ふいっと視線を逸らす。聖女と同じ瞳の色と、英雄と同じ髪の色。これ以上光栄で自慢出来る容姿がどこにあるというのか。

「で?ファム―ラ共和国ってどんなとこなんだ?」

「さぁ…俺も、直接行ったことがあるわけじゃないから、話にしか聞かないが――すごく寒い地域で、一年の半分以上が冬なんだと」

「えっ!?」

「凍土っていうところがあって…国中、雪もすごくたくさん降るらしい。晴れる日の方が少なくて、部屋にこもってることの方が多いから、家の中で出来ることがたくさん発達したらしい。珍しい糸を使った独特な柄の刺繍とか、織物とか、ファム―ラ共和国の布製品が素晴らしいって世界でも有名なのは、そういう気候が影響してるんだと」

「へぇ~!すごいな、それ。毎日雪が降る…寒そうだな」

「母さんは、今にも折れそうな細い体だったけど、昔から薪割りばっかりやらされたから、少しの力で薪をたくさん割れるんだって言ってたな。手先も器用でよく裁縫関係の内職もしてた」

「そうなんだ。お前の母さん、会ってみたかったな」

「――――ひっくり返るんじゃないか。聖女の息子なんて」

 これ以上ない敬虔な信徒だった母親を思い出してつぶやくと、リツィードはふ、と瞳を緩める。

「カルヴァンの母さんだろ?きっと――絶対、優しい」

「―――――お前、本当に、頭のねじ一本どころか三本ぐらい、どっか行ってるだろ」

 呆れかえって、耳を掻きながらつぶやく。今や手の付けられない悪童と言われる子供の母親に、何を期待するのか。

「そういえば、お前が昔言ってた、『訛り』って、ファム―ラの訛りことか?」

「?……あぁ。そういえば言ったな、そんなこと」

 一瞬何の話か分からず記憶をめぐらせ、思い当ってつぶやく。

「母さんはよく、王都に来てから、訛りがひどい、汚いって言われて苦労したって言ってた。そもそも、王国の言葉自体を覚えるのも大変だったらしい。親父と夫婦喧嘩するときは、いつもファム―ラの言葉を使ってた」

 感情的になるからか、子供に喧嘩の内容を聞かせたくなかったのかはわからないが…と心の中で付け足す。

「お前も話せるのか?」

「さぁ…もうだいぶ忘れた気もするが、昔は話せた」

「へぇ、すごいな!」

「むしろ、お前たちの方がすごいだろ。こっちの言葉は、未だに発音が難しいと思うときがある」

「へー、そんなもんかなぁ…雪国の言葉ってどんなんだろう…」

 リツィードは空を仰いで空想の世界を広げる。

 一年の半分以上が冬の国。毎日雪が降って、晴れ間が覗かない、美しい織物が盛んな異国。その空の色は――やはり、隣にいる少年の瞳の色をしているのだろうか。

「行ってみたいな、一度でいいから」

「別に…友好国なんだし、いつでも行けるだろ」

「――――――…そうだな」

 ふっ、と笑った顔は――いつもの、完璧な笑顔だった。

(――――――…こいつは、笑った顔が、一番不愉快だな)

 すごい、と知らない知識に目を輝かせているときは、歳相応の子供らしさを感じる。時折、何かの幻のように、ふ、と緩む瞳は柔らかく、彼の心のどこかを仄かに溶かしているようだった。

 それなのに――誰が見ても完璧な天使の微笑みだけは、彼の本心が見えなくて、相変わらず気味が悪い。

 『わからないこと』は、昔のカルヴァンにとって、確かに恐怖を伴うことだった。それが、今は『興味を引くこと』になっているのだから、不思議だ。リツィードの真意が、本音が、知りたい。

「なぁ――お前――」

 カルヴァンが、浮かんだ疑問を言葉に載せようと口を開いたときだった。

「リツィード様!」

「――!」

 裏庭に響いた硬質な声音に、リツィードがさっと背筋を伸ばして立ち上がる。

「悪い、カルヴァン。俺、もう行――」

「やはり、こちらにおいででしたか」

 リツィードが立ち去る前に、ザッと芝生を踏みしめて、険しい目つきをした初老の痩せ細った女が仁王立ちになって尊大な態度で見下ろしてきた。その瞳に、カルヴァンへの明らかな侮蔑の色を感じ取り、真正面から睨み付ける。

「なんだババァ」

「なっ――なんですってぇ!?」

 思ったままを口に出すと、女はヒステリックにキンキンと叫ぶ。うるさくて、うんざりとした顔で耳をふさいだ。

「ごめん、リアナ。すぐ行くから――」

「リツィード様!このような悪童とは縁を切りなさいと、何度も申し上げたはずですっ!」

(――――――――――――あぁ。なるほど)

 カルヴァンは、左耳を掻いて呆れた顔でリツィードを見上げる。

 よく見ると、女は、何度か教会で見たことがある。確か、王立教会の副司祭だ。聖女に心酔しているとかで、家事など身の回りのことなどするはずもない聖女に傅き、昔から彼女の家に出入りしていると聞いたことがある。結婚してからはだいぶ頻度が減ったと聞くが、それでも聖女の家――すなわち、リツィードの家に出入りして、身の回りの世話を時々焼くのは変わらないのだろう。

 そうして、こうして教育係まがいのことをしているわけだ。聖女に心酔している彼女は、さぞや高尚な教育をリツィードに施しているのだろう。初老の声を聞こうかという年齢のくせに、たかだか五歳の子供にすら敬語をつかうくらい、高尚な教育を。

「リアナ。何度も言うけど、カルヴァンは悪童なんかじゃない」

「何をおっしゃるのですか!暴力を働き、盗みを働き、まっとうとはいいがたく生きてきた、まぎれもない悪童――」

「五歳の子供が、生きるために働いた盗みを、死なないために振るった暴力を、エルム様は決して裁かない。それよりも、子供が、そんなことをしないと生きていけない王国を作り出した、執政者こそを裁かれるはずだ」

「ですが、そのエルム様すら信じないと、この悪童は――」

「っ、だからそれは――!」

「いい、放っておけ」

 なおも言い返そうとしているリツィードを言葉だけで制して、カルヴァンはゆっくりと立ち上がる。

 ふと、忘れかけていたが、こういうときに嫌でも思い出す。

 やはり、天使様と自分とでは、生きる世界が違うのだ、と。

 ――さっきまでは、確かに穏やかな色合いを見せていたはずの世界が、徐々に暗闇に取り込まれていく錯覚。

「リツィード様に、なんという物言いを――恥を知りなさい!貴方ごときが口を利くことすら許されぬ、至高の存在ですよ!?金輪際、リツィード様に近づかないでくださいませ!」

「俺が近づいてるんじゃなくて、そいつの方から寄ってくるんだ。頼まれたって俺からは近づかない」

 呆れたため息を漏らしてつぶやく。リツィードが、ほんのりと眉を寄せたのが見えた。

(――――珍しい顔だな)

 この顔は初めて見た気がする。少し感心した。――こんな顔も、出来るのか。

 まるで――傷ついた、みたいな、表情を。

「リツィード様もリツィード様です!聖女様のご子息たるご自覚をもって――」

「リアナ。もう口を開くな。――カルヴァンをこれ以上悪く言うのは、許さない」

「っ…その、ような――そのような、汚らしい言葉遣いをっ…誰が教えたのですか!フィリア様は貴方に――」

「母さんは今関係ないだろ」

「かっ――――――『母さん』!!!!!?」

 キィン――と耳鳴りがするほどの耳障りな大音量で叫ばれ、思わず耳をふさぐ。

「うっ…るさ…」

「『母さん』!!?『母さん』と、今、そうおっしゃいましたか、リツィード様!!!」

「言ったからなんだ。間違ったことは言ってない」

「間違っております!!!間違っておりますとも!!!」

 ギャンギャンと、耳元で叫ばれているような錯覚を起こすくらいの大音量で、リアナと呼ばれた女は叫び続ける。

「あのお方は、至高の御方――人の世の理とは異なるところに生きる御方なのです!神の化身であり、神の寵愛を賜る方であり――決して、人の俗世などに塗れた存在ではないのです!」

「はっ…結婚してガキまで作った女のくせして、どの口が言うんだ」

「なっ…ぬぁあああんですってぇえええええ!?」

 怒髪天をつく、とはこのことか。カルヴァンの馬鹿にしたような発言に、リアナの怒りは頂点に達した。

「いいですか!!?フィリア様は、神の化身!彼女が選ばれたバルド・ガエルはすなわち、神が選びし人間!その二人から生まれたリツィード様もまた、神の寵愛を受け継ぐ人に非ざる存在なのです!」

「人に非ざる――…」

 呆れすぎてものが言えない。相変わらず、聖職者という人間は、綺麗事を繰り返すばかりで、目の前の現実を正しく見つめようとしない。今、目の前にいる五歳の少年が、人でないとしたら何なのか。化け物とでもいうのか。

 ハッと完全に馬鹿にした顔をしたせいか、リアナはわなわなと震え始めた。

「あ、貴方ですね…!貴方が、リツィード様に、俗世に塗れた汚らしい言葉遣いを――『母さん』などと、フィリア様に対するこれ以上ない不敬です!」

「リアナ、もう黙れ!」

「いいえリツィード様、黙りません!私は――」

 なおもリアナが口うるさく言い募ろうとしたところで。

「――――――――――――――リアナ。何をしているのですか」

「「――――――――――――!」」

 静かに響いた声音に、リアナとリツィードの二人の背筋が伸びる。

(――――――――――――うわ――)

 声が聞こえた方を振り返り――カルヴァンは、思わず言葉を失った。

 流れるような白銀の髪は、ほんのりと青みがかかった不思議な色。抜けるような白い肌に、色素の薄い薄青の瞳。睫も白銀で、瞬きをするたびに風が起きそうだった。

 聖女の法衣を纏うその女は――――――紛れもなく、カルヴァンが出会った人生史上最高の美女だった。その美貌に面食らい、思わず声を失ってしまうほどに。

 街には肖像画があふれているから、もちろん見覚えはあったが、生きて動いている姿を、こんなにも至近距離で見たのは初めてだった。

「神聖な教会で――騒がしい」

「っ…申し訳ございません、フィリア様…!リツィード様が、俗世の汚い言葉遣いを――」

「リアナ!俺は、何度でも言うぞ!カルヴァンの言葉は、汚くなんかない!」

「リツィード様!フィリア様の御前ですよ!?お控えください!」

「っ…いくら、母さんの前でも、これは譲れな――」

「リツィード様!!!!」

 リアナが大声で遮るのと。

「――――――――『母さん』――?」

 美女の唇から、小さな声がこぼれるのは同時だった。

 ひやり――と、一瞬、不自然な沈黙が落ちる。

(なんだ…?)

「それは――私のこと、ですか?」

 リアナは蒼い顔でうつむき祈りの姿勢を取る。リツィードは、唇を噛みしめて目に力を入れてフィリアを眺めた。

「っ…リツィード様には、私からよく言って聞かせます!ですから、どうか――」

 聖印を切って頭を垂れ、言い募るリアナに、フィリアは、眉ひとつ動かさぬまま一瞥をくれ――

「――――――気になどしません。どのようにでも、好きなように」

 姿を現した時から何一つ変わらぬ、揺れぬ瞳のまま、言葉を音に載せた。

「っ――――――」

 その、温度を感じない冷ややかな声にリツィードが、小さく息をのみ――

(――――あ――)

 リツィードの眉が、ほんの微かに寄せられたのに、カルヴァンが気づく。――これは、先ほど見た。

「リアナ。今月の報告はまだですか」

「はっ、はい、ただちに――」

 そんな些末なことなどどうでもいい、という様子で、フィリアはリアナに冷たい視線を向ける。

 そんな――息子が、生まれて初めて自分を「母」と呼んだ――そんな、些末な、ことなど。

(――――――――狂ってたのは、この母親の方か)

 昔、リツィードに感じたのに似た恐怖に近い嫌悪感を抱く。

 この親に育てられれば――確かに、あんな、歪んだ子供が出来るに決まっている。

「ごめん、カルヴァン…俺も、もう行かないと」

 少しだけ困った顔でこちらを振り向くその薄青の瞳には、もう先ほどよぎった『何か』は揺らいでいない。いつもの、完璧な笑顔がすぐに浮かんだ。

「じゃあ、また明日」

「――――――あぁ」

 しかし、カルヴァンには――もう、その微笑みに、幸せを象徴するはずの完璧な天使を重ねることが出来なくなっていた――

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