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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第三章

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33/105

30、神様の『気まぐれ』

 聖女の意識が途切れるのと同時に、周囲に漆黒が戻ってくる。

「イリッツァ、さん…?」

 涙にぬれた声で、リアムは恐る恐る口を開く。そっと、震える指でイリッツァの頬に触れる。しとどに涙の滴に濡れたそこは、それでも確かに温かく、微かな吐息の気配は、彼女がただ眠っているだけだと告げていた。

「――――ありがとう、ございます…」

 ぐ…とこぶしを握り締め、食いしばった歯の隙間から絞り出すように呻く。

 気を失うまで――全力で魔力を使い切るまで、敬愛する上官の治癒をあきらめなかった。自分がここに彼を運んできたとき――すでに、それが、治癒など意味を成さぬ物言わぬ躯になっていたことなど、頭の隅で確かにわかっていた。

 それでも、どうしても現実を受け入れることが出来なくて――現れたたかだが十五歳の少女に、いい歳をした大人が、恥も外聞も投げ捨てて、力の限り縋ってしまった。

 彼女の必死の剣幕も、治癒をしながら叫んでいた言葉も、それが意味するところはさっぱりわからなかったが――それでも、彼女が、おそらく十五年間ひた隠しにしてきたであろう秘密を、恐れることなく露見させてまで、カルヴァンを救おうとしてくれた。無駄な努力だと切って捨てずに、精一杯を、してくれた。

「はは…団長……羨ましくて、仕方ないですよ…」

 腹を食い破られ、見るも無残な姿だったカルヴァンは、治癒魔法のおかげで綺麗な姿をさらしていた。上下しない胸と、音を刻まない心臓に気付かなければ、ただ眠っていると言われても信じてしまうだろう。

「こんな美少女に、あんなに泣いて縋ってもらえるなんて――知り合いじゃない、なんて嘘でしょう。貴方が忘れちゃっただけですよ、きっと。まったく…女に興味ないなんて言ってるくせに、人が惚れた女を何の努力もしないで目の前でかっさらってく傍若無人さは、本当に貴方らしい――っ…」

 じわ、と涙が再びこみ上げそうになり、慌てて天を仰ぐ。

 息を止めて、しばしその衝動を堪えていると――

 チカッ…と、視界の端に明かりがよぎった。

「――――――?」

 不思議に思って振り向くと、明かりを持った人影が、一生懸命にこちらに駆け寄ってくるようだった。近づくにつれてはっきりしてくるその人影は、特徴的な装束を身に着けた初老の男だった。

「司祭様…?」

「イリッツァ!!!」

 青い顔のまま駆け寄ってきたダニエルは、横たわる騎士団長に覆いかぶさるようにして意識を失っている少女を見て、さらに顔を青くさせた。

「大丈夫ですよ。魔力を消耗しすぎて、眠っているだけです。命に別状はありません」

「あぁ――…そうでしたか…よかった…」

 ぜい、ぜいと荒い息を吐く。教会に押し寄せた負傷兵を最低限の治癒だけして、急いで走ってきたのだろう。魔力を酷使したことによる疲労と、全力疾走による疲労が、混ぜ合わさって色濃く顔に現れていた。

「本当に――ありがとうございました。イリッツァさんが、頑張ってくれたおかげで――」

 いいながら、声が震える。

 一瞬息を詰めてから――ゆっくりと、言葉を紡いだ。

「綺麗な体で、送ってやれます――」

「――――――――――――」

 ダニエルは、言葉を失ったままリアムを見上げる。リアムは、眦に浮かんだ滴をこぼさないように気を付けながら、ひとつうなずいた。

「死者を治癒することは出来ません――わかっています。それでも、彼女は、奇跡を起こしてくれた。息を止めてしまった団長の無残な傷を、死後だというのに、塞いでくれた。あぁ――これは、どれほどの奇跡でしょう」

「――――――――」

「神に、感謝しても仕切れません。ここに、彼女を遣わしてくださったこと――心より、感謝申し上げます」

 言いながら聖印を切って、頭を垂れる。ダニエルは、その信徒の様子を見て――小さく、口を開く。

「何か――――――見ましたか」

 ぼそり、と。

 いつもの心優しく穏やかな彼からは想像できないほど、低い声。

 リアムはその言葉に込められた意味を正確に汲み取り――――――

「――――いいえ。何も」

 にこり、と笑い返すことで、答えを返した。

 しん…と暗闇に静寂が落ちる。

 どれくらいそうしていたのか――最初に静寂を破ったのは、ダニエルだった。

「二人を運びましょう。まだ、教会にはたくさんの負傷兵がいます。貴方も、手当を手伝ってくれますか?」

「もちろんです」

「タイター団長の御遺体は、王都に持ち帰られますか?」

「――――――はい。彼には、待っている家族はいないですが…待っている国民は、たくさんいます。国を挙げて、しめやかにお送りすることになるでしょう。――彼の親友と、同じように」

 それが、カルヴァンに喜んでもらうためにリアムが出来る、最後の餞のように思えた。

 不機嫌そうに眉を寄せる以外の表情筋を死滅させていた上官は、それでも喜んでくれるかはわからないが――彼の感情を動かすのはいつだって、彼を独り置いて死んでいったという親友だけだった。もう、彼のためにしてやれることは、それ以外に思いつかない。

 せめて、最期は、彼の親友と同じ方法で送る――死後の世界で、迷うことなく再会出来るようにと、祈りを込めて。

「他の兵の手当てが一段落したら、改めて身を清めましょう」

「はい。ありがとうございます」

「私はイリッツァを運びます。――貴方は、彼を」

「はい」

 いつまでも、残酷な現実にうずくまっているわけにはいかない。どんなときも、時間だけは待ってくれないのだから。

 ダニエルが意識を失ったイリッツァを担ぎ上げるのを待ってから、リアムもゆっくりと近づく。気が付けば、今にもその場にへたり込みそうなほどの疲労を感じたが、弱音は吐けない。補佐官としての最後の仕事が上官の遺体を運ぶことだとは思わなかったが、それを完遂するのは己の役目だ。誰にも任せられない、己が全うせねばならない、重大な責務。

「団長――失礼します」

 尊敬する男への礼儀として、一言断りを入れて、その体をゆっくりと起こす。肩を抱くようにしてその長身の躯体を担ぎ上げ――

「――――――――――――――」

「――――…リアムさん?」

 数歩歩きだしたと思ったら、ぴたりと足を止めてしまったリアムを不思議に思い、ダニエルが怪訝な顔で振り返る。

 リアムは、驚きに目を見張り――バッとすぐに抱えていた体を再び地面に横たえた。そのまま、何の遠慮もなく思い切りその頬を何度も叩き出した。

「団長!!!!団長っっ!!!」

「リっ、リアムさん!!?」

 突然の奇行に、ダニエルは思い切り戸惑った声を上げた。尊敬する上官の死に、気でも触れてしまったのかと一瞬本気で心配になる。

「起きてください!団長!!!寝てる場合じゃないです!!!」

「リアムさん!!!?いったい何を――」

 ゆさゆさと、体を大きく揺さぶるリアムに慌てて駆け寄ると――

「団長!!!!」

「――――――――――――――!」

 灯りをかざしたダニエルは、驚愕に息をのむ。

 ともすれば、明かりの揺らめきのせいと間違えそうだったが――それでも確かに、カルヴァンの唇が、空気を求めるようにわずかに動いた。ゆっくりと、その胸が、かすかに上下を始める。耳をその胸に押し付ければ、小さくも確かな鼓動が響いていた。

 ぶわっとリアムの涙腺が一気に決壊する。

「あぁ――――――――――神よ――神よ――!!」

 もはやそれ以外の語彙をすべて失って、聖印を切って天を仰ぐ。

 担ぎ上げた時――かすかに、鼓動を感じた。耳元に、彼の口から洩れるわずかな空気の振動を感じた。

「信じ――られません――…」

 ダニエルもまた、呆然とつぶやく。

 それは、神が気まぐれに起こして見せた――まさに、奇跡としか呼べない出来事だった。

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