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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第三章

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29、悪夢の中の『慟哭』

 カツ…と大理石の床が硬質な音を刻む。

「イリッツァ。まだ起きていたのですか?」

 困ったように眉を提げて、ダニエルは手にした灯りを掲げた。明かりの先には、エルム神の宗教画の下、石の冷たさなど意にも留めぬ様子でじっと跪いて一心に祈りをささげる銀髪の乙女がいた。

「司祭様――…」

「心配なのはわかりますが、騎士団長は今の王国で一番強い男です。彼がいるのだから大丈夫でしょう。――貴女は、幼いころから彼の武勇伝を必死に寄せ集めていたではないですか。彼の強さは、誰よりも貴女が知っているはずです」

「それは――そう、なのですが…」

 ゆっくりと振り返るイリッツァの唇は血の気を失ったように青い。石の上に座り続けて体が冷えたのか、それ以外の理由か。ダニエルはそっと歩み寄って己の肩掛けをふわりと掛ける。

「もう、冬が間近のこの季節、そんなところでいつまでも――体が冷えます。今日のところは、床に入っておやすみなさい」

「はい…」

 蒼い顔のまま、ぼんやりとうなずく。ミオソティスの瞳は、憂鬱な影を落とし、伏せっていた。

 あの馬の聖印に触れた時から、ずっと、嫌な予感が消えない。

(あの、陰の気配は――)

 黒々と、寒々しい気配。あれは、かすかに残った魔法の残滓だ。

(杞憂であってくれ――…)

 最後に一度だけ、と心の中でつぶやいて、もう一度瞳を閉じて宗教画に頭を垂れる。

 幼いころから敬愛する神を想ってもう一度願いを口にしようと――

 ダンダンダン

「――――――!」

「おや…誰でしょうか。こんな夜更けに」

 礼拝堂の扉を、穏やかではない様子で何度もたたかれる音に、ダニエルがピクリと眉を上げてから、戸口へと向かう。イリッツァには手をあげて、来るなと無言で制した。

 何かしらの荒事の可能性もある。ダニエルは、扉には手をかけず、分厚い扉越しに警戒した声をかけた。

「どなたでしょうか?こんな時間に、どういった御用で――」

「司祭様っ!開けてくれっっ!負傷者がいる!!!」

「――――――っ!」

 扉の向こうから聞こえた声に、イリッツァは弾かれたように駆け出す。司祭も、慌てて扉を開けた。

 ずるり…と、扉を開けた瞬間、すべり込むように倒れ込んでくる赤い装束の影が二つ。一人は完全に意識を失っており、もう一人が何とか体を支えようとしていたようだが、扉が開き、力尽きたのかもつれるようにして膝をついた。

「これは――」

「頼む、ここに来る途中で意識を失ったんだ!すぐに治癒魔法を――」

「っ…!」

 イリッツァは夢中で駆け出していた。日ごろから鍛えられている戦士が、一人の男ごときを支えられないなど、よほどの状態だ。負傷者と言って差し出された意識を失った男が死体のように重くなっていることはもちろん――おそらく、肩を貸して支えている男の方も、何かしらの負傷をしている。軽傷ではない負傷を。

「すぐに患部を見せてください!」

「あぁ、背中からの出血が一番ひどくて――」

 言葉をすべて聞く前に、ビリィッと音を立てて装束を引き裂く。確かに、尋常ではない出血量だった。

「っ、酷い――」

 言いながら、イリッツァはすぐに患部に手をかざし、いつものように瞳を閉じて光を生み出し――

「司祭様っ…!司祭様っ!けが人です!どうか、お助けください!」

「あぁ――神よ――…どうか安らかな旅路を――」

「おいっ、しっかりしろ!まだ逝くな!」

「もう――いい、死なせてくれ…痛い…楽になりたい…」

「もうすぐ教会だ!気をしっかり持て!婚約者が王都で待ってるんだろう!」

 遠くから近づいてくる穏やかでない声を聴いて、イリッツァも司祭も慌てて顔を上げる。必死の形相で駆け寄り、ダニエルの手を取って表まで引きずっていく男。ここまで来るだけで限界だったのか、愛馬からずるり、と力なく崩れ落ちていく男には、肩から先の右腕があるはずの場所に、何もない。その後ろからは、千切れていないのが不思議なほどの傷を足に負った男が涙を流して死を懇願している。そんな戦友を、肩を担いで無理矢理引きずり、隣で必死で叱咤激励する男もまた、傷だらけだった。

(いったい、何が――)

 屈強な、王国最高の戦力を有しているはずの騎士団が、ここまで壊滅させられる事態に、混乱する頭のまま、イリッツァも負傷兵に駆け寄る。

「イリッツァ、数が多い!重傷者から順番に、応急処置だけしてください!」

「はいっっ!」

 司祭も、顔を青くして、教会の表でそのまま治療にあたる。

「動けるものは、応急処置が済んだ者を教会の中へ!礼拝堂の中は、光魔法の加護が張ってありますから、外にいるよりは楽なはずです!」

「っ――――――」

 気休めだ――とは、思っても口にできなかった。イリッツァは、ぐっと唇を噛んで言葉を飲み込む。

 教会の礼拝堂には確かに加護が張ってある。だが、それは礼拝する者たちの心を穏やかにするためのもので、せいぜいが鎮静剤のような効果をもたらすだけだ。おそらく、そのまま礼拝堂の中で、体力が続かず、命を落とす者もいるだろう。

「おぉ――神よ…」

 しかしそれでも、今の彼らにはそれは紛れもない希望だろう。

 せめて、死ぬときは安らかに――…

 ぐっと奥歯を噛みしめて、とりあえずの応急処置を済ませた男を置いたまま、顔を上げる。見ると、司祭に男が縋りつき、地に伏してピクリとも動かない赤い装束の男を引きずっていた。涙を流しながら懇願する。

「司祭様、こいつをっ…重症なんです!」

「っ――――…すみません…貴方を治癒します」

「なぜですか!!!!ずっと一緒に戦って来た戦友なんです、お願いです、治してください!俺なんか後回しでいいから――」

「私は、神ではありません。残念ながら、人です。――死んだ人は、治せない。生きている人間を、治癒します」

「――――――――――――――――――――」

 絶望に言葉を失う戦士に、痛ましい顔のまま司祭は手をかざす。呆然としたまま、戦士は膝から崩れ落ちていく。 

(悪夢だ――…)

 イリッツァは、瞳を閉じて治癒魔法をかけながら、混乱する頭の中でつぶやいた。

 前世でも、何度も戦場に立った。窮地に陥ったことも、何度もある。

 それでも――ここまでの負傷兵を出した戦いは経験したことがない。

(でも、なんで――――――)

 負傷者の傷に、剣の傷が混ざっているのか。魔物討伐ではなかったのか。商人の馬にぶら下がっていた老人の手の傷口は、明らかに魔物に食いちぎられたものだったはずだ。しかし、今、続々とやってくる戦士たちの傷は、半分ほどは魔物による傷も見られるものの、残りはすべて、剣による切り傷や刺し傷だった。

 イリッツァは、さらに混乱する頭を振り、雑念を払う。負傷者を前に、いつも通り、瞳を閉じて――

 はた、と気づく。

 異常事態に、めぐっていなかった頭が、初めて回転する。

「――――――――――――ヴィー…」

「ぇ…?」

 治療された戦士は、聖女の口から零れ落ちたつぶやきに、思わず聞き返した。

「カルヴァン――カルヴァンは!?」

「ぅあっ!?」

 およそ十五の少女の細腕とは思えない力で胸倉をつかむようにして引き起こされ、戦士はうろたえた声を上げる。

「お前らの団長は、どこだっっ!!!!」

「ひっ…だ、団長は、リアムと、し、殿を――――――」

「っ――――!」

 弾かれたようにイリッツァは暗闇に向かって駆け出す。

「イリッツァ!?戻りなさい!」

 ダニエルの慌てた声も振り払い、一心に、戦士たちがやって来た方角に走る。

(ヴィー…っ!頼む、無事で――)

 心で願うが、前世の記憶と知識が邪魔をする。

 壊滅状態の一団。よほどの強敵と遭遇したのか、不意打ちを食らって立て直せなかったのか。

 殿は――隊の、背中を任される。敗走する軍隊の背中で、誰の援護も受けられないままに敵の追撃を食い止める――最も危険な役割。

 ここまで騎士団を追い詰めた敵を相手にした殿が、無事であるはずがない、と知識と経験が脳裏で囁く。

(うるせえ!前世の俺!死に損なった亡霊は黙ってろ!)

 リツィードとしての記憶を追いやり、イリッツァとしての記憶を必死にたどる。

 幼いころから貪欲に集めたカルヴァンの英雄譚。「団長は鬼のように強いんです」と笑ったリアム。「騎士団長は今の王国で一番強い男です」と安心させるように笑んだダニエル。

 大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫―――――

 漆黒の闇は、ぽっかりと口を開けて、心の中で必死に同じことを何度も唱えるイリッツァをたやすく呑み込んだ。明かりを手にしているはずなのに、目の前すら見えない気がする。息の詰まる閉塞感にぐっと唇を噛みしめ――

 ダカッ ダカッ ダカッ

「――――!」

 蹄の音が聞こえ、思わず立ち止まると、すべり込むようにして、闇の中から巨大な馬身が現れた。

「イリッツァさん!!!!!!!」

「リアム!!!!カルヴァンは!?」

 聖女の顔を取り繕っている暇などなかった。明かりを掲げると、ひらりとリアムがイリッツァに向かって担いでいた荷物とともに馬から飛び降りた。手元の明かりに照らされたリアムの顔は、ひどく真っ青だ。

「――――――――ぇ――――――」

「イリッツァさん、助けてください!!!!助けてください!!!」

 絶叫に近い声で叫び、手にした荷を地面に下ろす。

 一瞬荷だと思えたそれは――

「――――――――――――嘘――だろ――…」

「神様、神様、あぁ、どうか――」

 震える声で聖印を握って祈り始めたリアムのことなど、意識の外に掻き消えた。

 ざっ…と横たわるそれの横に膝をつく。

「――――――…ヴィー…?」

 呆然と、今にも消えそうな声が、唇から零れ落ちていく。そっと、何も考えられないままに指を伸ばした。

 心細い明かりに照らされた顔は、血の気がなく、真っ白だ。血の気――いや、生気がない。

 団長にのみ着用を許される真っ赤なマントは、止血代わりに体にきつく巻き付けられていたが、血を吸って、真紅に近かったその色を赤黒く染め上げていた。

 震える手で、必死にそのマントを解き、傷口を確認する。布は、川にでも飛び込んだのかと思うほどぐっしょりと濡れて重たい。なかなか結び目がほどけないのは、よほどきつく縛ったためか、イリッツァの指が震えていたせいか。

「――――――――――」

 傷口を目にした途端、イリッツァの顔から表情が抜け落ちる。ひゅっと喉の奥が妙な音を立てた。

 マントの下から現れたのは、無残に食い破られた脇腹。揺らめく灯りの端には、臓物らしきものすら覗いている。

「ま、まだ、温かいです、温かいんですっ…イリッツァさんっ…」

「――――――」

「っ――――――息はしてないけどっ…!まだ、温かいんですっ――!」

 吐息を止め、心の臓の鼓動を止めて。

 目の前に横たわる、それは――

 ――――――誰が、どう見ても、『死体』だった。

「――――――――嘘、だ――…」

 はらり、と絶望の声とともに、瞳から滴がこぼれる。

 数日前の、熱い涙ではない。こぼれていることにすら気づかないほどの、冷たい滴。

「嘘、だ――嘘、嘘、うそだっ…嘘だ!!!!」

 イリッツァは、取り乱すように縋りつき、物言わぬ躯になったその体に全力で魔力を練った。

「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!!!置いていくな!!!置いてかないで!!!!」

 ぱぁあああああああああっ

 イリッツァの身体からまばゆい光が立ち上り、あたりが昼間と見まごうほどの明るさに包まれる。

「ヴィー!ヴィー!!!!返事しろ!!!なんでっ――どうしてっ!!」

 悪夢ならはやく覚めてくれ。心の中で祈りながら、光魔法を展開する。

 あぁ――悪夢、だった。

 知っていた。十五年前から、知っていた。

 処刑台に掛けられ一度目の絶望を知った。

 聖人にあるまじき願いをもって生まれ変わったにも関わらず、その願いすらかなえることは出来ないと、二度目の絶望を知った。これは、過ぎた願いを持った己への神罰なのだと思っていた。

 それが、昨日――あぁ、神罰ではなく、神の思し召しだったのだと。

 自分の素性を明かすことなどできなかったが、それでも、生きている親友を見ることができた。わずかだが、言葉を交わすことができた。

 この幸せをかみしめて生きていくんだと、そう思っていたのに――

 ――――やはり、この生は、神罰なのか。

 十五年前のあの日から続く、永遠の悪夢の中に、捕らわれているのか。

「こんな別れは嫌だ!!!嫌だ、嫌だよ、ヴィー!!!起きろ!!!起きろぉおおおお!!!!」

 どうして、無理矢理にでも加護を付けなかったのか。一団についていかなかったのか。説得が無理なら、領内の誰かから馬を駆りて、独り一団を追いかけたってよかった。手をすり抜けられても、マントをつかんで、布に掛けることだってできた。

 瞳を閉じないと、聖女ということが露見するから。

 戦いと無縁の修道女見習いが、馬を駆り剣を振るうことが出来る説明が出来ないから。

 そんな、今となっては本当に、笑ってしまうくらいにどうでもいいことが気になって、最悪の結果を招いた。

『与えられるのは時間だけだ。それを活かせるかどうかはお前次第だ』

 悪夢の始まりにささやいた声が耳の奥で蘇る。

 あぁ、本当に、時間だけが与えられていた。

 昨日、奇跡の再会を果たして――彼が旅立つまでの、たった一日にも満たない時間。

 それだけが、イリッツァの生に与えられた時間だったのだろう。

 そして彼女は――それを、活かせなかった。それだけのことだ。

「い、イリッツァさ――…」

 まばゆい光の中心にいるイリッツァを見て、リアムが震える声を上げる。その視線がイリッツァの涙にぬれて見開かれた瞳に注がれているのが分かったが、気にしている余裕などなかった。彼女の視線はカルヴァンの身体に縫い留められたまま動かない。魔法の効果で、傷口だけが癒えていくのを視界の端でとらえながら、その胸が、口が、呼吸を再び始める気配だけを一瞬でも見逃さないように追い求める。

「傷は、治るのにっ…なんでっ…聖女は神の化身だろうが!!神の奇跡くらい起こしてみせろよ!!」

 死人を蘇らせるのは神の御業だ。生まれ変わってまで再び聖女になったと知ったときはこんな力はいらないと思っていたが、今はそのおとぎ話のような聖典の伝承にさえ縋りたい。

 今、リアムが凝視するその必死な薄青の瞳には、これ以上なくはっきりと、神の御業を行使するという聖女の証――光る聖印が浮き出ているはずだ。

「っ…助けてっ……助けて、助けて、助けて神様!!!何でもするからっ――お願いだから、ヴィーを助けて!!!」

 聖女と露見して一生を幽閉されて暮らしてもいい。人としての幸せも尊厳も求めない。一生を、王国の奴隷となり、母のように感情を失った人形のようにただ国民に利を与え続けるだけの存在になってもいい。もう一度宗教裁判にかけられて火刑に処されてもいい。神が奇跡の代償にと望むなら、この命も体も喜んで捧げる。

 どんな犠牲も――幼いころからたった一人、どんな時も一番近くにいてくれた親友の命よりも尊いものなどありえないのだから。

「神様はいるっ…いるんだよ、ヴィー!だから、戻ってこい!戻って来て!――俺に、神様を、最後まで信じさせてくれ!!!」

 きっと、ここで親友を失ったら、自分はもう、神を信じることが出来ない。

 きっと――闇の魔法に手を染めてでも、彼を蘇らせる方法を、探してしまう。

「っ…お願い、だからっ…」

 ぐらり、と視界が揺れる。急激な魔力の消耗に、意識がもうろうとする。この感覚は、十五年前、王国全土に結界を張った時以来だった。あの時と同じく――自分の持ちうるすべての魔力を後先考えずに注ぎ込む。

 教会の前にまだ何人も倒れていた戦士がいた。『聖女』であるなら、死体よりも先に彼らの治癒を優先すべきだ。こんなところで、魔力を使い果たして昏倒していいわけがない。

 そんな優等生な考えなど――今のイリッツァの脳裏には、微塵もよぎらなかった。

 今、イリッツァの頭にあるのは一つだけ――

「お願いだっ…――――――独りに、しないで――――――」

 体を支えていられず、カルヴァンの身体に突っ伏すように縋りつく。魔力の消耗で、意識を保っていることすら苦しくなり、瞼が重くなってきた。

 それでも最後の瞬間まで、魔力の最後の一滴まで搾り取るように、彼女の手のひらからは淡い光の輝きが絶えることはなかった。

 虚ろになっていく意識の狭間で――

「――――――…ヴィー…」

 動いた口は、音を生んだのだろか。

 最後にひとひら、清らかなしずくが頬を滑り落ち――イリッツァの意識は、完全に靄の中にまぎれて消えていった。

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