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聖女転生物語  作者: 神崎右京
第六章

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94、交わる『幸せ』①

 ドンっ

(――――痛い)

 容赦なく全力で振り下ろされた小さな拳を鍛えられた厚い胸板で受け止めて、カルヴァンは心の中で呻く。

 おかしい。――今、この展開はおかしい。

「いや、お前、空気読め。大人しく抱かれて涙の一つでも浮かべるところだろう、ここは」

 一般人だったらあばらの一つでも折れていたのではないだろうか、というほどの衝撃を顔をしかめて逃がしながら、カルヴァンは呻くようにして目の前の少女を恨めしく見やる。

「ふざけんなっ!!絶対嫌だっっ!」

「…手厳しいな」

 ふ、と思わず笑みが漏れる。そこらの女では絶対にしないだろう反応が、イリッツァらしくて最高に面白い。

 きっと、王国に帰ったら、もうイリッツァに会うことはないだろう。もしかしたら、何か拍子にすれ違ったり、顔を見たりくらいはするかもしれないがこんな風に気安く言葉を交わすことはないはずだ。

 だから最後くらい、この愛しい体を抱きしめて感傷に浸っても良いのでは、という目論見は、どうやら彼女相手には通用しなかったらしい。

(まぁ、でも、それくらいが丁度いいのか)

 カルヴァンは心の中で苦笑する。色っぽい関係になれないならば、二人の関係は『幼馴染』以外にない。ならば、男女の情のひと欠片も感じさせないこの別れ方もまた、自分たちらしいと言えばその通りだ。

 くっと喉の奥で笑いをかみ殺して、カルヴァンは大人しくイリッツァを解放する。するり、とつないでいた手を最後に離した。

 ふ…と幻のように離れていく温度が、何とも言えない寂寥を生む。一生誰の手を取るのもごめんだと生きてきたのに、初めてこの手を取るのだと覚悟を決めて二十五年――まさか、自分から、この手を離す日が来るとは、思っていなかった。

「じゃあな、ツィー。達者で暮らせ」

 二十五年ぶりに――自由の身に戻った実感が沸いてくる。もう、自分を縛るものは、何もない。風の吹くまま、気の向くまま。誰が死のうと生きようと、自分が死のうと生きようと、捕らわれることなく、自由に生きる。国にも宗教にも軍隊にも縛られず、正義も悪も関係ない。その日生きるための金だけを持って、気が向けば暇潰しに女を抱いて、好きに寝て、好きに起きて、気の向く相手とだけ気の向いた時に交流を持ち、時には裏切り、裏切られ。

 まともな人生とは言われないかもしれないが、どこまでも本能に忠実なその暮らしは、酷く『人』らしい生き方だろう。カルヴァンにとって、何より魅力的な人生だ。

 薔薇色の未来に想いを馳せて、ニッといつものように片頬を歪めて笑う。悪童と言うにふさわしい、人を食ったような笑顔。

 男同士の別れだと言うなら、これくらいあっさりなのが、丁度いい。カルヴァンは、あっさりと身を翻して足を踏み出し――

 バシッ!

「は――?」

 足に衝撃を受けた――と思った時には、ぐるんっ、と視界が回転していた。条件反射で受け身を取って痛みを逃がすが、背中と後ろ頭に強烈な衝撃が来る。ぐっ…と小さなうめき声が漏れた。

 見慣れぬ天井を情けなく寝そべった状態で見上げて――カルヴァンは、半眼になる。

 こうして天を見上げて初めて、後ろから足払いを駆けられたのだと理解するのは、二十五年ぶりだ。

「――――――――なんか、ものすごい既視感なんだが」

「お前が逃げるからだろ」

 記憶の中と全く相違ない言葉を発する友人に、カルヴァンは思わず笑い出しそうになる。

「『お前が追いかけてくるからだ』」

 くくっと笑って、懐かしいセリフを繰り返す。そして、ゆっくりと体を起こしながら笑みの混じる声をかける。

「それで?…俺は、何か『お話』でもすればいいのか?」

「違う。――お前は、今から、お説教だ」

「は――?」

 聞き返す間もなく、ぐいっともう一度床に押し倒される。そのまま、イリッツァはカルヴァンにまたがるようにして膝で彼の手を押さえつけ、上から静かに見下ろした。

(――最高にエロいシチュエーションのはずなんだが、色気を感じないのはなんでだろうな)

 惚れた女に跨られ押し倒されているこの状況は、場所が場所なら歓喜する絶好のアングルのはずなのに、残念ながら下半身は全く反応しない。

 それもそうだろう。長い付き合いだ。視線ひとつで、表情一つで、相手が何を考えているのか、だいたいわかる。

「俺は押さえつけられるより押さえつけたいタイプなんだが」

「ちょっと黙ってろ」

 せめてもの抵抗で軽口を叩いてみるが、あっさりと跳ねのけられた。

 冷ややかな冬の湖面を思わせる薄青の瞳は――確かに、静かな怒りを宿していた。

(――やれやれ)

 なぜかはわからないが、なかなか本気で怒っているらしい。もともと作りが整ったその美貌が、触れればざっくりと斬れそうなほどの凄みをもって、上からカルヴァンを見下ろしている。

 両手をしっかりと体重をかけて押さえつけられた状態で、抵抗らしい抵抗も難しい。華奢なイリッツァを力で無理矢理押し返すことは、出来なくはないだろうが、彼女は手を伸ばせばすぐにカルヴァンの腰に刺さっている剣を手に取ることが出来る。この少女に剣を持たせたが最後、すべての抵抗は無駄に終わる。

 一瞬でそこまで考えたカルヴァンは、ため息を吐いて抵抗をあっさりあきらめた。

「さすがにそろそろ総大将が不在なのは文句を言われる。お説教とやらはなるべく手短に頼む」

「――お前は」

 聖女の仮面すら張り付けていない、完全な無表情から冷ややかな声が落ちてくる。

「お前は、二十五年も俺と居て――俺のこと、何も、わかってなさすぎる」

「――?」

 カルヴァンは、怪訝そうに眉をひそめた。

 イリッツァの表情は変わらない。完全なる黄金比だけで形成されているような美しい相貌を、眉ひとつ動かさないまま固定して、薄青の冷たい視線でカルヴァンを捕らえる。

(――雪女、だな)

 男を吹雪に閉じ込め殺すという怪異を思い出し、心の中で苦笑する。

「お前が、何で急に王国を出ていくとか言い出したのかはわかった。でも、理解はできない」

 今にもブリザードを巻き起こしそうな凍てつく声音が、桜色の唇から紡がれる。

「お前が俺にとって特別だとかそうじゃないとか――そんな馬鹿馬鹿しいこと、考えたことも意識したこともねぇよ」

「――――…は?」

「お前が生きていくために必要なものは、って言われて、最初に空気を挙げるか?水を挙げるか?――そんな当たり前すぎる馬鹿馬鹿しいこと、聖典にだって書いてない」

「……はぁ」

 急に始まったご高説に、カルヴァンは情けない恰好のまま、とりあえず呻くように返事をする。

 イリッツァは不機嫌そうに顔をしかめて、言葉をつづけた。

「第一、なんでそんなことわざわざ口に出して言わなきゃいけないんだ。当たり前すぎて、言っても言わなくても一緒なこと、わざわざ言うわけないだろ」

「……つまり俺は、お前にとって特別な存在だと」

「言わせたいなら、言ってやる。馬鹿馬鹿しい。――当たり前だ。この俺が、王国民全員を不幸にしてでも、優先するのはお前だけだ。いくら友人だって言ったって、ディーにはそこまでのことは出来ない。――お前だけだ」

 ぱちぱち、と灰褐色の瞳が瞬かれる。イリッツァは、照れるでもなく切羽詰まるでもなく――淡々と、どこか不機嫌そうに、カルヴァンがほしかった言葉をあっさりと告げた。

「ディーは、あいつが誰の手も取らないどっかの誰かみたいなやつだったから、友人になっただけだ。あいつの方から、そうして手を伸ばしてきたから、手を取った。聖職者としての『仕事』だ。これから先、あいつが別の誰かの手を取る時が来たら、その時は俺は繋いでいた手を離す。そのうちヴィクターあたりの手を取るんじゃないかと思ってるが、たぶんそう遠くない未来だろう。俺は、あいつが、他に誰かの手を取れるようになるように――あいつが、孤独にまみれた闇の世界から光の世界に足を踏み出せるように、そっちへ送り出す仕事をする。闇にいるうちは、凍えないように手を繋いでいてやるけど、送り出せたらもう俺は必要ない。光の世界の住人に手を取ってもらえばいい。ヴィクターとかに」

「――…はぁ」

「俺自身は、孤独で不幸にまみれた闇の世界に居続けたい。ここにいる人たちの手を取って、光の世界に送り出したいからだ。一緒にはいけない。一人送り出しても、残りがいる。全員送り出すまで、俺は闇から出られない。出てはいけない」

 イリッツァは、少しだけ目を伏せ、想いを馳せる。

 濃密な闇の中、独りきりで膝を抱えるあの孤独が――聖女に課せられた、責務なのだ。誰一人、闇の中に置き去りにしてはいけない。見つけたら、全員の手を取って、光へと導く。もれなく、必ず、全員。

「だから、ウィリアムもディーもヴィクターも…俺の孤独は埋められない。どんなに俺が手を取ったって、俺は、いつか必ず、全員、光の世界に送り出すからだ」

「……なるほど?」

「――――俺が、闇の中で手を取ったのに、光の世界に送り出せなかったのは、ヴィーだけだ」

「――――??」

 カルヴァンが、これ以上なく怪訝な表情を作る。イリッツァは、不機嫌そうな表情を隠しもせず、呻くように言葉をつづけた。

「正確には――送り出したのに、わざわざお前が勝手に、戻って来た」

「…はぁ」

「俺は光の世界には行けないって言ってるのに――絶対に手を握り返すことはないから、さっさと向こうに言ってくれと思ってるのに、お前は、俺以外の手は握れないって言って、戻って来た。俺が握り返さなくても、ずっと、ずっと、馬鹿みたいに隣にいてくれた。俺は何も返せないのに――それでも、いつかは握り返してくれるだろって言って、寒くて暗いところに、ずっと隣にいてくれた」

 それが――前世で背負った、許されざる罪。

 もれなく、必ず、全員を導かなければいけなかったのに――その手の温かさに甘えて、最後まで、彼を光の世界に送り出せなかった。一緒に闇に沈んでくれたことを――嬉しい、と思ってしまった。

 そんなことを思ったのは、後にも先にも、カルヴァンだけだった。暗闇の中、心の奥底に小さな灯りをともせるのは、カルヴァンだけなのだから。

 だから、今日のカルヴァンの主張は最初から意味をなさない。

 これから先、イリッツァを『人』扱いする人間がどれだけ増えようと――そして、その手を取る自由がイリッツァに与えられようと――イリッツァ自身が、決して、『人』として誰かの手を取ることはない。あくまで『聖女』としてしか、取ることはないのだ。全ての人を、光の世界に導くために。

 だから――彼女の孤独は、カルヴァン以外の誰にも埋めることなどできない。他の誰にも代替など出来るはずがない。

 彼女が『人』として手を取るのは――彼女自身の孤独を癒すためだけに手を取るのは、生涯唯一、カルヴァンだけなのだから。

「?……よくわからんが、まぁ、もともと、お前が言うところの、光の世界とやらは、俺にとってはただただ居心地が悪いからな」

「っ………俺が!!!」

 イリッツァは、堪え切れなくなったように声を荒げる。

「俺が!!!今、ここにいるのは!!!っ――お前に、もう一度、会いたかったからだ!!!!」

「――――――」

「十五年前のあの日っ…お前が言うように、正直、俺、全然、自分が助かりたいなんて、思ってなかった!だって、自分の命なんかより王都の皆を救うことの方が大事で――そのためには、聖人の力を使わなきゃいけなかったから!!」

「?」

「せっ…聖人だって、わかったらっ―――――ヴィーに、嫌われてたっ…!」

「――――――は――?」

 ぽかん、と間抜けな声を挙げた途端――はらり、と上から雨が降ってきた。

 薄青の瞳から――熱い滴が、幾筋も。

「あの後、生き残ったって、ヴィーは怒るだろっ…騙してたって、大っ嫌いな聖職者だったなんて、って、裏切ってたって、怒るだろっ…そんなっ――そんなの、絶対、嫌だった!」

「――――――はぁ…?」

「だから、ヴィーに嫌われるくらいなら、生き残りたいなんてこれっぽっちも思ってなかったけどっ…でも、それでも最期にもう一回会いたかったっ……独りで、死んでく時にっ…暗くて怖くて痛くて、そんなときにっ…もう一回だけ、ヴィーに、『ツィー』って、昔みたいに呼んでほしかった…!喧嘩したまま別れたのが、すごく嫌だった!」

「喧嘩――?」

 ぼたぼたと上から振ってくる熱い滴を、手を抑え込まれているせいで拭うこともできないまま、カルヴァンは眉をひそめてイリッツァの言葉を反芻する。

「――あぁ。もしかして、あれか。お前がいきなり、わけのわからんことを言って部屋に乗り込んできたときのことか?」

「っ…お、覚えてなかったのか!?」

「いや、お前の中ではあれは喧嘩だと認識してたのか」

「だっ…だって!」

「殴り合ったわけでもなし。お前が一方的に、祈るだの祈らんだの、よくわからん主張押し付けて、勝手に去ってっただけだろう。いつものことだったし――あんなこと言ってても、どうせ、お前はこっそりどっかで祈ってるだろうしなって思ってた。気分を害すことすらなかったぞ。わけのわからん主張に、呆れはしたが」

「え――――」

「…まぁ、その未練がもとで転生したっていうのなら、あれは喧嘩だった、ってことでいい。――俺も、あれが最期の会話だったとわかってたなら、もう少し、何か別のことを言っておけばよかった、とは思っていたしな」

 呆れかえったように言われて、イリッツァは言葉を失う。涙の影は一瞬で引っ込んだ。

 カルヴァンは深くため息を吐く。十五年ぶりに明かされた事実は――結局、カルヴァンにとって、朗報でも何でもなかった。

「くだらない。どちらにせよ、お前はやっぱり、俺に助けなんか求めないじゃないか」

 確かに、イリッツァにとって、カルヴァンが特別だということはわかった。だが、最初から生き残るつもりなんてなかったと言われてしまえば、やはり、十五年前の広場にいたところで、カルヴァンに助けてくれ、などと言うことはなかったのだろう。

「っ…お前の、その、助けを求めるって言うの、よくわかんねぇんだけどっ…」

「?」

「お前が言ってるのって、『俺を助けて』ってお前に言うってことか?ディーに言ったみたいに?」

「あぁ」

 カルヴァンはうなずき――イリッツァは、大きな大きなため息を吐いた。

「阿呆臭い…――――お前にそんなこと、言うわけねぇだろ…」

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