92、耐えがたい『神罰』②
視界が、じんわりと滲む。見慣れた幼馴染の顔が歪んで――ちゃんと見たくて、瞬きを繰り返すと、白銀の睫が風を送るたびにはらはらと滴がこぼれた。
「なんでっ…なんで、そこまでしてっ…」
「――…あー…」
滲んだ視界の先で、幼馴染がつかんでいた両手首から左手を外し、いつもの場所を掻くのを見ながら、イリッツァは嗚咽をかみ殺した。
「お、俺っ…俺、何か、したっ…!?」
「――…」
「俺のこと――き、嫌いに、なった――?」
ポロポロポロッと一気に涙がこぼれ落ちる。
イリッツァには、理解が出来なかった。
どうして。なんで。――そこまでして、イリッツァから離れたいのか。
今までの彼なら、絶対に蛇蝎のごとく嫌がるようなことをしてまでも――それでもイリッツァの手を取らずに離れていこうとする、その理由が、わからない。
前世では、何の利もないのに、決して握り返されない手を握り続けてくれた。暗くて寒い孤独の闇に沈んだリツィードに、ずっと一緒に、暗闇の中で寄り添ってくれた。
そんな彼が、今までなら絶対にしないことをしてでも、文字通り何が何でも、イリッツァから離れていこうとしているのだ。
イリッツァには――もう、『嫌われた』以外に、理由を思いつけなかった。
離された方の手の甲で、薄青の瞳からあふれる涙をとどめるように抑える。
「あ、謝る…っ…何か、したなら、謝るっ…ごめっ…」
「いや…」
「心配かけたのはほんとに悪かったし、せっかく皆が頑張って倒した敵の総大将回復させたのも、ごめっ…」
「それは本当に反省しろ」
呆れたように呻く声が降ってくる。しかし、どうやらそれが要因ではないようだ。
声を聴けば、わかる。――それくらいは、わかる。
「じゃあ何っ…も、わかんな――ぅ、っ…ふ…」
「あー…」
さっきまでの淡々とした様子は何だったのかと思うくらい、困惑するようなうめき声を漏らすカルヴァンを前に、イリッツァは両腕で顔を覆った。
「嫌だ…や、だっ…神様っ……やだ、嫌だっ…許してっ……ヴィー、嫌だっ…」
ひっく、と何度も嗚咽を漏らしながら、懇願する。
「お願――嫌いに、ならないで――嫌いになったら、嫌だ…っ!」
「――――…お前、それは反則だろう…」
はぁーーーっとこれ以上なく大きなため息が、頭上から降ってくる。
ガシガシ、とカルヴァンは参ったように頭を掻いた後――しゃがみ込んだイリッツァに視線を合わせるようにして、涙にぬれた顔を覗き込む
「おい」
「ぅっ…ふ、ぅ…」
カルヴァンの顔がうまく見られない。
神様は残酷だ。相変わらず、この生でも、神罰を与えるのが好きらしい。
十五年前――カルヴァンに、嫌われたくなくて、国民を巻き込んだ国家の一大事件を起こしてしまった。
まさか、今になってその出来事を――また、なぞれというのか。
「ごめ、なさ…神様っ…神様、許して、やだ…やだ、無理、嫌だっ…ヴィーに嫌われるのだけは、嫌だっ…」
嗚咽の合間に呻くようにして祈りと懇願を繰り返す。
神罰なのかもしれない。あの十五年前の罪を、今、こうして裁かれているのかもしれない。知らないうちに何かをしでかして、カルヴァンに嫌われるのが、あの十五年前の報いなのかもしれない。
だけど――無理、だった。
この神罰を受け止めることだけは、絶対に、出来なかった。
当たり前だ。――――国を巻き込んだ事件を犯してまでも、それだけは、決心がつかなかったのだ。
身体を捧げるのも、命を捧げるのも、苦ではなかった。王国民の幸せのためなら、そんなものは、喜んで差し出せた。
だけど――聖女を失い惑う王国民の姿を、半年間も目の前にしていても――
カルヴァンに嫌われる勇気だけは――最後の最後まで、どうしても、出なかった。
そして――十五年も経った今も、未だに、その勇気だけは、どうしても。
「お前な…わかってやってるとしたら、相当あざといぞ」
「ひっ…ぅ…違――な、にも――」
子供のように泣きじゃくりながら、必死に涙をぬぐう。
カルヴァンは、呆れたように一つ嘆息して――うつむくイリッツァの頬に優しく触れる。
ふっ……と、心の奥に懐かしい微かな火が灯った。
この温もりを手放せと――神は、そう、告げるのか。
絶望に胸を塞がれながら、イリッツァは必死に手を伸ばし、触れられた手を握って、触れられた個所のぬくもりを追う。いつも心の奥で幻のように消えてしまう温もりを、必死に、消えないように、追い求めるように。
「ヴィ――」
「俺、お前の泣き顔が好きだって言ったよな」
「ぅ、ぐすっ…――――――へ――?」
「知っててこれは、さすがに卑怯じゃないか?」
「――――――――は――――?」
ぱちぱち
思わず一瞬、涙が引っ込む。瞬きとともに、白銀の睫が眦に残っていた滴を払い落とし、視界がクリアになった。
目の前に、呆れたような顔のカルヴァンがいた。
「前の『置いてかないで』っていうのもかなりぐっと来たが、今日の『嫌いにならないで』もやばい。反則級にやばい。今すぐ向こうのベッドに押し倒したいくらいやばい」
「――――――――は――?」
ぽかん…と間抜けな顔で相手の顔を見上げる。視線が絡むと、ニッと片頬が意地悪にゆがんだ。
「それとも、これはそういうおねだりなのか?」
「――――――…」
(――ヴィー、だ…)
なぜか急に、酷く上機嫌になった様子のカルヴァンを前に、イリッツァは心の奥に灯った明かりがまだ静かに消えずに残っていることを知る。
良く知っている、幼馴染の顔だ。
常人には追い付けぬスピードで論を組み立て一方的に話しを押し付けてくる、何を考えているわからないカルヴァンではなく――これは、イリッツァが、リツィードが、二人ともが良く知っている、幼馴染の顔。
空気より軽いのではと思う軽口をたたく、王都一の、女たらし。
「ばっ…か、やろ…お、俺はっ、まじめに――!」
「はいはい。――っていうか、別に、嫌いになったなんて誰も言ってないだろう。勝手に早とちりして勝手に泣くな」
ふっ、と人を食ったような笑みを浮かべてから、少し乱暴に、ごしごしと目の下をこするようにして頬に残っていた涙の残滓をぬぐわれる。
「だって、お前がっ…お前がっ!お、俺から離れたいって、言うから――!」
ポロポロポロッと再び滴があふれ出す。
今度は、悲しみや絶望の涙ではなく――安堵の、涙。
嫌われていなかった。
――嫌われて、いなかった。
「馬鹿っ、阿呆っ…!意地悪っ…!最低だ、お前っ…!相変わらず、性格悪すぎるっ…」
「はいはい」
暴言が吐けるのは、信頼が出来る相手だからだ。嫌われていないと知った瞬間溢れて来る憎まれ口は、信頼と愛情の裏返し。悔しいから、流れる涙を拭う役を完全に相手に任せてやると、呆れたように吐息で笑って、カルヴァンは次から次にあふれ出る涙を袖口で乱暴にぬぐいながら受け止めてくれた。
「まさか、最後の最後でこんな反撃を受けると思わなかった」
「ぅ、ぐすっ……え…?」
「参った。――――――最高に可愛くて、置いていくのが惜しくなる」
「――――――ぇ――?」
ごし、と拭われた目元の袖口から、伺うように見上げると――いつもの人を食った笑みは、いつの間にか苦笑へと変わっていた。
「ヴィー…?」
「ん?」
苦笑したままの表情で、ほんの少しだけ、甘い声が降ってくる。低く響く――過保護にイリッツァを甘やかすときの、優しい声。
声を聴けば。顔を見れば。
――相手の言いたいことも、気持ちも、なんとなく察することが出来る。
(――――本気、だ)
カルヴァンは、本気で王国を去ろうとしている。イリッツァ以外の誰の手も取らないと、生涯自由に生きるのだという信念すら曲げてまで――カルヴァンは、本気で、王国を去ろうとしているのだ。
「なんで――」
嫌われた、以外の理由は、どうしても思いつかない。
イリッツァが再び泣きそうに眉を寄せたのを見て、カルヴァンの苦笑が濃くなる。
「泣くな。――お前の泣き顔は確かに好きだが、お前を無意味に哀しませるのは好きじゃない」
そして、小さく嘆息した後、イリッツァの手を取る。
「ツィー」
ドキン…
この部屋に二人きりになって、初めて呼ばれたその音に、心臓が甘く音を立てる。ほんのりと、温かな火が、心の奥底に灯った。
「嫌いになんて、なってない。なるわけない。――約束だろう。隠し事はない。本音だ」
「っ――…」
お互いに、特別な愛称で呼び合うときだけは、絶対に。
二人の間にある、確かな絆に触れて、ぎゅっと胸の奥が甘い痛みを発する。
「むしろ、逆だな」
「ぎゃ、く…?」
おうむ返しに口の中でつぶやくと、カルヴァンは苦笑して左耳を掻いた。それから一瞬その灰色の瞳を微かに伏せて何かを考え――
「――ツィー、立て」
「へっ?」
取られた手を引っ張られ、間抜けな声を上げながら、つられるように立ち上がる。自然に、手を引く目の前の長身を見上げようと顔を上げて――
「――――――――え――?」
イリッツァを立たせた途端、すぐに膝を折ったカルヴァンに、疑問符を隠しもせず困惑する。
「ちょ、ヴィー、何して――」
「ツィー」
ドキン
囁くような声は、決して大きくはなかったはずなのに、思わず口を閉ざしてしまう。
そのままカルヴァンは、躊躇うことなく取っていた手を軽く引いた。
「――――――――」
それは、一度だけ見た光景。
真っ白に塗りつぶされた神殿で――黄金の髪をした王子様が、絵本でしか見たことがないくらいの完璧な仕草で、それをした。
(なんで――)
全く同じ光景が、今、幼馴染によって再現されていることに理解が追い付かず、一瞬頭が真っ白になる。
本来神に忠誠を誓う騎士の仕草が由来というその行為を、騎士の装束を着たまま――神など信じていないはずの男が、自分を相手に、行っている。
地面に片膝をつき、女性の手を取って――その手に、唇を落とす。
それは――王国では、誰もが知っている、永遠の愛を誓う求婚の仕草。
「ツィー。――――愛している。結婚してくれないか」
「――――――――」
これ以上なく薄青の瞳を見開いて、イリッツァは跪く騎士をただ見下ろすしかできなかった。




