すれ違い
――桐原雫。俺の彼女の名前だ。
朝の教室。窓から差し込む光はまだ冬の冷たさを帯びている。
雫は机に向かい、ノートにペンを走らせていた。表情は無表情で、けれどどこか整っていて美しい。
隣に座る俺は、胸の奥がずきりと痛むのを感じる。
高校に入学してすぐの頃、彼女は今よりずっと柔らかかった。
授業の合間に小さく笑い、少し恥ずかしそうに話しかけてくることもあった。
クラスの男子たちが次々に告白しても、誰にでも公平に対応するだけで、俺には特別扱いされている気がして嬉しかった。
「……いいよ」
あの日の告白は、ほんの一言だった。
胸が跳ねるほど嬉しく、放課後に一緒に帰る手の温かさが、今でも記憶の奥に残っている。
けれど一年を経た今、雫は変わった。
LINEの返信はそっけなくなり、授業中に話しかけても「うるさい」「間抜け」と冷たく罵る。
笑顔はほとんど見せず、手をつなぐこともなくなった。
それでも、机に忘れ物を置いてくれるなど、わずかな優しさだけが、俺を縛りつける。
放課後、教室の外で友達と話していると、雫が近づいてきた。
「……誰と話してるの?」
「友達とだけど……」
「ふーん。ふたりだけで仲良くしてるのね」
「そ、そんなつもりじゃ……」
「ま、いいけど。別に私には関係ないし」
胸が痛む。小さな胸の奥が押し潰される感覚。
友達と話す声が遠くに聞こえ、俺の耳には雫の冷たい声だけが残った。
雫は歩き去り、俺は重い足取りで教室に戻る。
その道すがら、自然と頭に浮かぶのは付き合い始めの頃の、柔らかい彼女の笑顔。
放課後の帰り道、手をつなぎながら話したくだらない冗談や、ふと見せる笑顔。
今の冷たさに押し潰されそうな自分と、その記憶が交差して胸が痛む。
教室に戻ると、窓際に座る雫がノートに目を落としている。
そんな雫を見て色々振り返る。
言葉をかける勇気が出ないまま、隣に座る。
「……何よ、こっち見てきて。馬鹿にしてる?」
「……いや」
罵倒されるたび胸が締め付けられ、視線を逸らす。
無表情で、冷たく、でも手の届く距離にいる彼女。
それが辛い。
どこかでわずかな優しさを探してしまう自分が、さらに胸を痛める。
授業中の声や廊下での笑い声が耳に入る。
けれど、俺に向けられるのは冷たさだけ。
友達や他人には微笑むのに、俺には罵倒。
どうしても納得できず、どうしても理解できない。
夕日が教室をオレンジ色に染める頃、雫は無表情のままペンを走らせる。
ちらりと俺を見るその目は、微かな光を残している気もするが、意味はわからない。
胸の奥の重さは増すばかりで、辛さだけが確かにある。
「……ねえ」
「……何?」
「私のこと、本当に好きなの?」
簡単な質問。
でも、言われた瞬間、胸の奥がひりつく。
どう答えても、罵倒される予感がする。
目の前の彼女は、優しさよりも冷たさが勝る。
理解しようとすればするほど、心が擦り切れそうになる。
「……そ、そんなこと、どうだろう……」
言葉を濁すしかなかった。
正直に「好きだ」と言えば、彼女の顔にどんな冷たい反応が返ってくるのか、想像するだけで胸が痛む。
「はあ……何それ、ほんとにバカね」
「え……」
「そんな曖昧な返事して、私のことどうでもいいんでしょ?」
そんなことない……
そう伝えたい筈なのに、その言葉も届かない。
雫は眉をひそめ、少し目を細めて俺を見下すように笑う。
「ふーん……なら、まあ、私がそんなに大事じゃないってことね。納得」
「違うんだ……!」
言い返そうとするが、雫の冷たい視線と、蔑むような口調に言葉が詰まる。
胸の奥が、まるで鋭い刃で刺されるように痛い。
曖昧にしてしまった自分を後悔しつつも、どう答えても逃げ場がないことだけはわかる。
一日の時間がゆっくり過ぎ、窓の光がさらに赤く沈んでいく。
雫は黙ったままノートにペンを走らせる。
俺は隣で黙ったまま、胸の痛みを感じる。
記憶の中の柔らかい雫も、今日の冷たい雫も、どちらも同じ存在なのに――
その違いに、どうしても耐えられない。
目を逸らすと、外は夕焼けで染まり、教室に差し込む光が長く伸びている。
俺の胸はまだ痛い。
何も解決していない。
わずかな優しさも、思い出も、胸の痛みに混ざり、ただ重くのしかかるだけだった。
一日が終わるまで、この辛さは消えそうにない。




