瀬をはやみ
僕はばーちゃんの薬屋の椅子に腰掛けて、リヨンの仕事が終わるのを待っていた。リヨンは今、ばーちゃんに言われて奥の部屋にいる。
そろそろ終わる頃かな、と思っていたら。
「ん、しょっと」
奥の部屋からリヨンが出てきた。——その腕にずっしりと本を抱えて。
「ちょっと、それじゃ前が見えないでしょ」
「ん〜、大丈夫。慣れた店ですもの」
完全に前が塞がるくらいに山積みした本を、崩さないように気をつけて運んでいる。
「僕が運ぶよ」
「今から下に置くのも大変だから、いいわ。自分でやる。つか、下に置いたら腰が痛い」
「ババくさいこと言って」
言い出したら聞かないところもあるから、仕方ない。
上の方だけでも僕が引き受けようと、立ち上がりかけた時。
「きゃー!」
「リヨン!」
リヨンの悲鳴と共に、ドサーっと崩れ落ちる本の山。見事な大の字になって、ひっくり返っているリヨン。
やっぱり。前が見えなくて足を滑らせたようだ。
僕は慌ててリヨンの元に駆け寄った。
「大丈夫? だから僕が運ぶって言ったでしょ」
「…………」
とにかくリヨンをまず助け起こして、座らせる。打ったところが痛いのか、ボーッとしている。
「散らかった本は僕が片付けるから、リヨンは打ったところを冷やして」
「…………」
「リヨン?」
やっぱり様子がおかしい。
名前を呼びながら目の前で手をひらひらさせたら。
「あなたは誰?」
きょとんと首をかしげて僕を見ている。
「は?」
「見たことない人だわ。おばあちゃんのお客様?」
おいおい……リヨンさん。僕のこと忘れたんですか? 悪い冗談やめて。
「リヨン? 何を言ってるの? 僕はトロワだよ」
「トロワ?」
「うん。それとも千夜って言った方がいい?」
「千夜? それは誰?」
どんどん真顔になっていくリヨンは、どう見てもふざけてる感じはしない。
『トロワ』も覚えてなければ『千夜』にも反応なし。
そういえばさっき転んだ時、頭を打ってた。これはまさか——
「僕がわからない?」
「ええ、知らない人だわ」
「う〜ん、君の旦那さんなのに」
「え? 私、結婚してないわ」
「わぁ……」
記憶喪失か。
「ばーちゃーん! リヨンが大変だ」
僕は奥の部屋にいるばーちゃんを呼んだ。
「なんだよトロワ、うるさいね」
「リヨンが転んで頭を打ったみたいだ。記憶が混濁している」
「なんだって!?」
ばーちゃんも慌ててリヨンの元に来た。
「おばあちゃん、ごめんなさい。本、落としちゃった」
「え? リヨン? 私がわかるのかい?」
「ええ、わかるわ。薬屋のおばあちゃんじゃない。おかしなこと聞くのね」
そう言ってクスッと笑うリヨン。そして僕をギンっと睨むばーちゃん。
いやいや、さっきはおかしかったんだって。どういうことですかね?
「え? ちょっと待って。リヨン、僕は誰?」
「ええと、トロワさん、でしたっけ……自称『私の旦那さん』?」
傷つくので疑問形で言うのやめて。
不思議なことに、リヨンは僕の記憶だけすっぽり抜け落ちていた。僕と、僕にまつわるあれこれ——自分が前世『梨世』という名で、僕が『千夜』ということも。
「なんで僕だけ忘れるかなぁ?」
「わかりません。思い出したくもない記憶なのかしら?」
「否定できないところが辛い」
前世のことは本当にすみませんでしたっ!! 今生でしっかり償わせてもらいますから!!
焦る気持ちはあるけど、忘れられたのならまた覚え直してもらうだけだ。
僕は以前のようにアピールすることにした。
特に症状らしい症状は出なかったけど頭を打ってるんだ、急な体調変化にも気をつけておかないといけない。僕はいつも以上にリヨンにくっついて回った。
「重たいものは僕が持つよ」
「これくらい大丈夫よ」
「リヨンは頭を打ったんだよ? 何かあったら大変でしょ」
「……ありがとう、トロワさん」
僕に対してよそよそしい態度が気になるけど、今まで通り……いや、今まで以上にリヨンの世話をした。
「ほら、あま〜いイチゴが入ってるよ。ちょっと味見していきなよ」
「わぁ! ありがとう。むぐ……美味しい〜!」
果物屋さんでジヴェがリヨンの口にイチゴを押し込んだ。ちょっと? 旦那さんの目の前でイチャつかないでくれるかな? こんな店、本来の僕なら一捻りで潰せる……けどやらないぞ。リヨンにバレたら、めっちゃくちゃ怒られるのがわかってるからね。
僕のことを忘れてるからか、以前のように肉屋や八百屋の男たちと仲良く話すのも、内心イライラしながら見守ったりもした。
リヨンの記憶が戻らないまま一週間ほど過ぎたある日。
ガシャンとガラスの割れる音と共に「やってしもた〜」というばあちゃんの声がした。
「何やったんだよばーちゃん」
「薬を入れた瓶を落としたんだよ」
ばーちゃんが指差す床を見れば、粉々に砕けたガラスの破片と、ねっとりとした紫色の液体がこぼれていた。紫って……ババア、それ薬じゃなくて毒だろ。
「ガラス、危ないぞ」
そのままにはしておけないので、僕は渋々ガラス片を集めた。
「まあ! 急いで拭かなきゃ、床に臭いが染み付いちゃうわ」
おどろおどろしい液体に汚れた床を見て驚いたリヨンが、モップを手にして戻って来た。
「ガラス片はだいたい拾ったけど、気をつけて」
「ええ」
リヨンがテキパキとモップをかけ始めた。
慣れた作業だから手際が良かったけど、いかんせん、ぬめりの強い液体だったようで、つるりと足を滑らせたリヨンが勢いよく転んだ。
「きゃー!」
「リヨン! 大丈夫!?」
また綺麗な大の字になって……デジャヴ。じゃねーな。
僕はすぐにリヨンを助け起こした。
「いっ…………たたた」
「また派手にすっころんで……それで、どこを打った?」
「頭。やだぁ、たんこぶになってる」
顔をしかめながら後頭部をさするリヨン。
「また頭かよ」
今度は、今までの記憶を全部吹っ飛ばしてしまうんじゃないだろうか。
そんな嫌な予感が頭をよぎった……のだが。
「またってどういうこと? トロワ」
キョトンとして僕の顔を見上げるリヨン。
「え?」
リヨン、今僕のこと『トロワ』って呼んだ?
え? ちょ……うん、いったん落ち着こう、僕。
逸る気持ちを深呼吸で押し込んだ。
「リヨン。僕は誰?」
「へ? トロワでしょ?」
当たり前のように答えるリヨン。
「僕の前世は?」
「千夜じゃないの? どうしたの、急に」
「じゃあ、僕は何者?」
「なんつー質問。表向きは酒屋の息子。本当は冷血王子様で、私の旦那さんで、次期侯爵サマ?」
「正解!」
僕が確認することをすらすら答えるリヨン。
ちゃんと僕が『王子』で『自分の夫』ということも思い出したようだ。
「はぁ〜。よかった」
「何が?」
今度は記憶をなくしていた数日間のことがすっぽり抜け落ちているリヨン。
僕はリヨンがどんなことになって、どんだけ心配したかを事細かに説明した。
「……ご心配おかけしました」
「結果オーライだからいいけど、十分気をつけてね」
「はい。善処します」
「まあ、僕のことを忘れたとしても、もう一度振り向かせたらいいことだけだから、結果的には同じルートになるんだけどね。われても末に……だ」
「わぁ……時空を超えたストーカーの自信すごい」
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 崇徳院




