5、麗しき人魚姫の中の人と人族の王子 1
「やあ、フラン」
「こんにちは、ディアドラ。今日は、御1人ですか?」
「ん?あぁ。そうなんだ。昨日、ついにシアが15歳になってね。堂々と海上へ行けるようになったのだよ。だから今日は友人たちと出かけるのだとかで、私はフラれてしまったというわけさ」
童話の「人魚姫」は15歳の誕生日に初めて海の上へ行き、そこで王子様と出会う。
だがな!
その童話の主人公たる末の姫なデメテレーシアの「初めて」は、すでに私がすっかりがっちりいただき済みだ!海の上への憧れも、船上の人間への興味も満たし済みなのだよ。安心したまえ。
そんなわけで達成感に満ち満ちた笑顔でもって、昨日の誕生パーティーで残った鯛の尾頭付き(生)をお土産とばかりに差し出せば、フランが無言でキッチンへと続く扉を指さした。キッチンへ置いてこいという事だろう。
私はその指示に素直に従って、キッチンまで跳んで移動する。どこへ置こうか迷ったが、フランは勝手に戸棚や物へ触れられるのを嫌う。よってシンクへそのまま投入しておくことにした。
どうせ後で加熱調理するのだ。この家の中はフランの私室を除いて16度前後と、近辺の海水温に近い室温に保たれているし、彼女が調合をひと段落させるまでの数十分くらい、ここに置いておいても大丈夫だろう。
ついでに生臭い手を洗ってスッキリさせた私は、居間へと戻る。
居間に隣接する部屋の作業台でフランが薬を調合している最中なのを確認して、私はその部屋の片隅にある本棚へ向かった。そこから適当に本を抜き取り、それを持って今度はソファへと移動する。
家主に文句を言われないようにそっとソファへ腰かけ、私は本を開いた。
この世界にはいくつかの国があり、言語の違う国ももちろんあるのだが、幸運な事にこの辺りの国は私たち人魚と同じ言語を使用していた。そして更に幸運なことに、前世の知識の中に似たような言語が存在していて、多少躓きはしたものの大きな問題も無く文字を読むことができたのだ。
勤勉であったらしい前世の自分に感謝するとともに、ぼんやりとしか思い出せない前世の自分自身の事より、言語の方が鮮明であることにかなり戦慄したのだが・・・まあ、もう過去の事だしな。今世は自分を大事にしつつ、楽しく生きるとしよう。
暇つぶしなので特に選ぶこともなく本を持ってきたのだが、開いてみてそれが、今世の私が初めて手にした「初めての読み聞かせに適した本」であることに気が付いた。
そう。これを手に入れた時。
私は非常に重要なことを失念していたのだった。
その頃はまだ名乗ってももらっていなかったので「魔女殿」と呼んでいたフランは、翌日には体調が回復し、様子を見に来た私へこの「初めての読み聞かせに適した本」を差し出してきた。対価となる「棘のある白い巻貝」は前日に彼女の家へ忘れていったのだが、それが居間のローテーブル上に置いてあるという事はきっと、これで交換が成立するという事なのだろう。
玄関より中へ入れてはもらえないことを残念に思いながら、私は本を受け取った。そしてそのまま出て行こうとした私の肩を、魔女殿が掴んだ。
「んぉ?!」
女性にしては強い力で後ろへ引かれ、バランスを崩した私は引かれたままに後ろへ倒れそうになる。それを、もう片方の手で肩を支えて受け止めた魔女殿が、フードの下の顔を更に俯かせながらボソボソと話し出した。
「それを・・・私が体調を崩してまで手に入れたその本を、どこへ持って行くつもりですか?」
「ん?あぁ。私と私の可愛いシアの秘密基地へ持って行く予定だ」
「可愛いシア」のところで私の両肩を支える魔女殿の爪が食い込んだような気がして、しまった体重をかけたままだったと気付いた私は体勢を立て直す。そして指の力は抜けたものの、未だ私の肩へ置かれ続けている彼女の手が微かに震えていたので、それへ本を持っていない方の手を重ねて、そっと労わる様に撫でてみた。
ピクリとはしたが拒否されないことに安堵を憶えながら、彼女の華奢で節くれだっている指に自分の指を這わせる。ほんのり鼻孔をくすぐる苦々しい香りは、魔女である彼女が薬草を扱うせいだろうな、とか考えながら、二度と訪れないかもしれない美女の手触りと香りを堪能した。
「それは・・・海中ですか?」
私の邪な思考に幸いにも気付きもしない魔女殿は、きっとコミュ障な己と戦っているのだろう。手どころか呼気まで震わせながら、俯いたまま小さく質問を続けた。
その意図がわからなかったが、私はきちんと答えるために彼女の方へ体を向け直す。離すのは惜しかった彼女の手を握り、人魚の女性にしては長い方な体長の私より更に高い位置にある魔女殿の顔を覗き込んだ。
「もちろん、そうだ。海中の洞窟でね、天井に開いた穴から太陽の光が差し込んで―――」
「濡れます。」
「ん?」
「本。確実に濡れますよね。」
「・・・はっ!あぁ!!」
そこでやっと彼女が言わんとしていた懸念に気付き、私は持っていた本へ視線を落とした。
まずい!
手に入れることばかり考えて、保管方法とか、保管場所とかまったく考えていなかった!
焦った私は魔女殿の手を振り払うようにして離してしまい、さらに焦って、陸へ打ち上げられた死にかけの魚の様にパクパクと口を開け閉めした。
そんな私をチロリと流し見た魔女殿は、離したばかりの私の手を取り、家の中へと連れて入って行く。大人しく跳んで付いて行った先は、薬を調合する作業部屋なのだろう。多種多様な薬の原料が収納されていると思われる引き出し付きの棚が、奥の壁一面に設置されていて。その数の多さに圧倒された私は、ただでさえ出なくなっていた言葉を失った。
今度は口を開けたまま茫然と棚を見やる私の手を、魔女殿は軽く引き、そちらにあった本棚の片隅を指した。
「この最下段の端なら空いているので、使ってもらってもかまいません」
そう言って本の保管場所を提供してくれた魔女殿の表情は、非常に不機嫌そうに眉間へ皺が寄っている。なので好意をそのまま受け取っていいのか、それとも社交辞令として遠慮した方がいいのかがわからない。
私は言葉を失ったまま、自分の手元にある本と魔女殿へ交互に視線をやった。
すると眉間の皺をそのままに、口元を歪めてさらに不機嫌さを増量した魔女殿が、私の手元から「初めての読み聞かせに適した本」を乱暴に奪い取った。
「・・・ここ」
魔女殿は本を取り上げた勢いのまま私へ背を向けてしゃがみ込み、本棚最下段の開いた隙間へ本を収める。そして顔だけこちらへ向けて、上目遣いで睨みつけてくるという高等技術を披露してくれた。
「使いなさい」
「―――はい。」
は、鼻血。鼻血出てないかな、私!
人魚生・・・いや、前世も含めても初めてな体験に興奮が冷めやらない。これ、これがツンデレってやつだろう?!さすが「海の魔女」殿!ハイレベルなスキルを持っていらっしゃる!!
今度は言葉を失ったわけではないのだが、口を開こうものなら魔女殿を口説いてしまいそうだったので、私は了承の返事をひねり出してすぐ口をつぐむ。
ついでに興奮のあまり荒くなってしまっている鼻息を隠すために、口元を両手で覆ってみた。そしてさりげなく鼻の下を確認する。
よかった!鼻血垂れてないよ!私の人魚姫たる名誉は守られているよ!
そのままフスフスと不審な呼吸を続ける私を、体調不良だと勘違いした魔女殿―――フランが応接間のソファへ座らせてくれて。お茶まで出してくれた上に「可愛いシア」が私の妹で、依頼の本の使用目的を知った彼女は、言語の学習用にと木炭を分けてくれた。
フランの家から1歩でも出れば海中なので、その後、本を持ち出した事はただの1度もない。
まあ、自分で覚えてからデメテレーシアへ教えればいいだけだし、そもそも他者へ教えるのならば自分も理解している必要があるのだから問題はなかった。それにその辺にある岩礁を黒板代わりに木炭で文字を書き、海水で消す授業は、落書き気分になって思ったより楽しかった。
残すことができないので、デメテレーシアの勉強に身が入ったしな。
ただ、それを見てマネしたがった人魚たちが、木炭の入手先であるフランの家へ大勢で押しかけたのは大誤算だった。コミュ障なフランには相当なストレスだったらしく、物凄い不機嫌オーラを漂わせながら威嚇し、それでも去らなかった人魚たちへ木炭の対価に「人魚の涙」を所望したのだ。
この「人魚の涙」は文字通り人魚が涙を流せば手に入るのだが、その性質が特殊で、空気中で泣けば真珠に。海中で泣くと溶けてしまって採取できないという代物だ。
ちなみに真珠の形状になった涙を水へ付けると、あっという間も無く溶ける。
そもそも海上で泣く機会なんてほとんどない人魚たちは、空気中ならば真珠の形態をとるという事さえ知らなかった。私も初めて立ち上がれた感動で泣いた時に、偶然知った事だしな。
つまり海上で泣いて真珠にしたとして、海中にあるフランの家へ持って行くまでに溶けて消えてしまうわけだ。
もちろん、人魚たちからは非難轟々だった。暇つぶしに飢えている人魚たちの、希望となりうる娯楽であったので当然であろう。唯一、フランの家へ上げてもらえる私へ、代わりに泣いてきて欲しいとかいうやつまでいた。
そこで私は考えた。
無限ループする暇つぶしはないものかと。
木炭は書いて消費してしまえばお終いだ。そういった、使い切ったら完結してしまう暇つぶしではなく。暇をつぶしつつ、その暇つぶしが対価となり、また暇をつぶすために必要なものを手に入れるという、何度も美味しい暇つぶしがいい。
超絶不機嫌なフランと、暇つぶし道具を欲してうるさく騒ぐ人魚たちを宥めつつ、私はしばらく悩んだ。日に日に不機嫌度が増していくフランにオロオロしながらも、彼女の家へ上げてもらえるのは自分だけだという仄暗い優越感を抱いて、デメテレーシアへの文字教育に余分な力が入り過ぎていた私に、可愛い妹姫が全く邪気のない笑顔を浮かべて言った。
「お姉さま!私、人間の女性が嗜むという刺繍をしてみたいの!」
これだ!
と、思ったね。
刺繍やレース編みなんかを流行らせれば、初期投資はかかるものの材料を元に作品を作り、それを売ってまた材料を手に入れればいいのだ。
しかし、ここでまた材料の入手をフランへ依頼してたのでは、本末転倒である。
何故ならフランは陸へ行くたびに体調を崩し、そのせいなのか陸へ行くのを避けたがるからだ。しかし海の底で人間が生活していくには、海では手に入らない物を陸へ調達しに行く必要があるわけで。
その事に気付いてからの私は、そのタイミングを見計らって彼女へ依頼をし、受け取りついでに彼女の看病をするという役得についている。私が依頼していない時でも彼女は体調を崩すので、陸地へ行くこと自体に何かあるのか、もしくはコミュ障の極みだったりするのだと予測している。
また思考が振り出しに戻ってしまったと落胆しかけた私は、ふと思い出した。
過去をネタに、私の欲する物を手に入れてもらえそうな人物を。




