■54.果たすべき“役割”。
某国某所。生垣に囲まれた芝生張りの端正な庭で、齢35歳の男はひとりくつろいでいた。庭の片隅には質素な白い座卓が設けられているが、彼がそこに腰を下ろすことはない。一度腰を下ろすと、再び立ち上がるのが億劫になってしまうからであった。卓上には銅彫刻が施された灰皿が置かれており、吸い殻が小山を作っていた。
男はヘビースモーカーだ。父も喫煙者であったが、10年以上かけて禁煙に一時期成功した。国営メディアがさっそく父の禁煙成功に触れ、「煙草は心臓を狙う銃弾だ」「煙草を買う金を節約して研鑽に努めよう」と宣伝したのを覚えている。公共施設では禁煙になった。国際的な孤立を深める彼の国も、2005年には『たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約』に参加し、国内で世界禁煙デーイベントを実施している。
(だがおれは煙草を止めることが出来そうにないな)
男はひとり苦笑した。
もしも彼が南朝鮮に生を受けていれば、今頃は平々凡々のサラリーマンとして苦楽を味わっていただろう。ありふれているが幸福な家庭を持ち、幼稚園児あるいは小学生の子供の教育に力を注いだり、あるいは住宅のローンに頭を悩ませたりしていたかもしれない。当然そこに、生命の存亡がかかるような権力闘争はない。
ところが現実は、そうではない。そうではないのだ。男は党・軍・人民の最高指導者であり、いつ外国軍の攻撃に晒されるか分からず、内部にも潜在的な敵を抱えている。
だったら人生、太く短く――ストレス解消のために我慢することはないじゃないか、というのが男の偽らざる心情であった。
(何もおれだって、好き好んでこの地位に就いてるわけじゃない)
少年期は欧州で教育を受けていた彼は、この国は王侯貴族がひしめく中近世のような国だと思っている。権力掌握が狙える血族に連なる以上、躊躇は無用。権力を握らなければ、握った者に殺される。多大な心労を伴う最高指導者の座に男が就いているのは、それだからに他ならない。すべては生存のため、である。
(この国ではみな“役割”を果たすことが期待されている)
男の思考は巡る。
可哀想に、と彼は思った。南朝鮮の申し出に乗る形で動き出した例の対日工作活動は、あと2、3日の内に決行されるであろう。日韓戦争はこの国の首脳部にとっては、千載一遇の好機だった。それはつまり、日本国と南傀儡政権を引き剥がすチャンスである以上に、“邪魔者を消し去る”のに都合がいいイベントであった。
南傀儡政権の国家情報院が対日工作の協力を打診してきた時、男の周囲は「やりましょう」と即決した。南傀儡政権が日本国内でテロ活動を実施すれば、両者の溝はさらに深まるであろう。また男の父が倒れ、新体制になってから反抗的な態度が目立ち始めた在日朝鮮系組織の幹部達を更迭・粛清するいい機会でもあった。
新体制から求められる役割についていけない人間は、要らないのだ。特に日本国内に潜む工作員は過激すぎてもいけないし、穏健すぎてもいけない。旧体制が生み出した非合法な工作員達(例えば、日本国民の戸籍を乗っ取って生活している“背乗り”の工作員など)も、新体制に対する忠誠が機能しているか不確実であり、本国からすれば無用の長物であった。
だから、消す。
(誰も幸せにならないな、これは)
男は思った。
だがいまさら止めることも出来ぬ。これは単なる工作活動の域を超えている。自身の権力基盤、新体制を固めるための計画だ。多くの工作員と日本の警察官が死ぬであろう。一般市民の中にも巻き添えを食う者も現れるかもしれない。それを知った上で、彼はゴーサインを出していた。
それがこの国で彼に求められている“役割”だったからだ。
……。
「日本国内に潜伏していた情報院職員2名と連絡が取れなくなっている」
と、報告を受けた時点で朴陸軍参謀総長は誤算に気づいた。ぬかった。国家情報院が陰謀を企てていることに気づいた時点でこれを掣肘し、白大統領に取り入ってこれを潰すべきであった。
わざと国家情報院を泳がせておき、クーデター成功の前後で陰謀を食い止める。そしてその悪逆非道な計画を白日の下に曝け出して、白大統領一派の悪辣さを強調し、クーデター側の正統性を誇示する、それが朴陸軍参謀総長の狙いであった。
しかし見通しが甘すぎた。
後悔してももう遅い。朴陸軍参謀総長に同調する閣僚らと、軍関係者は全てを理解した。こちらの工作員は北韓の連中により殺害されたか、監禁されたに違いない。そして北韓の工作員らは国家情報院の当初の計画通り、対日工作を遂行するであろう。
「日本国内に潜伏している他の国家情報院職員はどうした」
「現在、確認中です……」
今回の対日工作活動に国家情報院は少数精鋭で臨み、実行班の多くを北韓の関係者で賄っていた。その理由は過去の反省からきている。
1959年、韓国政府は新潟日本赤十字社センターの爆破を企て、50名以上の工作員を用立てた(いわゆる新潟日赤センター爆破未遂事件である)。
ところが工作員2名が10本以上のダイナマイトを所持したまま、新潟県内の居酒屋で密談していたことから事が発覚。韓国から日本へ渡航せんとしていた工作船が難破して10名以上が死亡、残る工作員も洋上で海上保安庁に発見されたり、密入国の前後で警視庁外事課に逮捕されたりと、この爆破計画は無残な結果に終わった。
ここから分かることは、事を起こす直前になってから、多数の工作員を韓国国内より新たに送り込むのには無理がある、ということだ。で、あるから今回は現地に既に馴染んでいる国家情報院職員や、北韓の人間を実行班とすることにして、対日工作活動の実行を決定してから韓国国内より追加人員を送りこむことは避けた。
それがいま、裏目に出ている。韓国側の関係者が少数ならば、北韓側がそれを取り除いて計画を乗っ取ることは容易であった。
実際、朴陸軍参謀総長の予測は的中していた。
北韓側との連絡を取り持ち、計画全体の指揮に携わっていた大韓民国国家情報院職員2名は、7.62㎜トカレフ拳銃で頭部を撃ち抜かれた後、東京都八王子市の山中に埋められていた。




