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■32.策謀渦巻く極東。(中)

 しかし、国家情報院の内部でも■■■■拉致計画の立案・実行に関しては、賛否が分かれた。近年においても国家情報院は世論操作や、証拠捏造といった非合法活動に手を染めているが、海外における要人拉致、あるいは殺害というのは、そうした情報工作とはわけが違う。慎重な意見が続出するのは当然であったし、計画に道義上問題があると考える者もいた。

 だが国家情報院の院長は、そうした反対意見を押し切った。彼は白大統領の大統領選挙や支持率維持に協力しつつ、白大統領の権勢を笠に着て汚職に精を出していたからである。ここで白大統領が不名誉な形で失脚すれば、“反・白大統領政治”を掲げて当選するであろう次期大統領は、徹底的に元・大統領の周囲を洗うはずである。当然、汚職は露見する。否、国家情報院の院長が逮捕される前に、悪事が暴露されることを恐れた関係者が、院長を暗殺する可能性もあった。であるから、白政権で甘い汁を吸った院長や一部の国家情報院幹部は、白大統領に協力する他ない。

 しかしながら、実際に実行計画を準備し、実行する職員達にとってはたまったものではない。その波紋は国家情報院の外部にまで広がった。勿論、無秩序に計画が漏洩したわけではないが、韓国政府高官の間では公然の秘密となった。


「失礼する」


 6月9日早朝。大韓民国国軍陸軍本部で執務中の朴陸軍参謀総長を、とある人物が訪ねてきた。


「楊閣下。お越しいただく形になってしまい、申し訳ございません。本来ならば私が閣下の下へ伺うべきですが、何分なにぶん戦時中でこの陸軍本部を離れるわけにもいかず……」


「朴くん、気にすることはないよ」


 立ち上がって敬礼をした朴陸軍参謀総長に対して、老人は鷹揚に笑ってみせた。杖をつきながらソファーに向かい、そこへどかりと腰を下ろす。彼は100歳に近い高齢であるが、その動きに危うさはまったくない。


 彼の名前は楊祖韻。博物館学芸員で現代史(戦史)の専門家である。

 だがしかし、この老齢の学芸員を尊敬しない者は韓国陸軍のどこにもいないであろう。勿論、朴陸軍参謀総長も例外ではない。楊祖韻は朝鮮戦争を軍団司令官として緒戦から停戦まで戦い抜き、戦後は陸軍参謀総長として韓国陸軍の再建・近代化に努めた救国の英雄である。

 しかしながら、彼に対する世間の評価は分かれている。楊は決して裕福な家庭の出身ではなかったため、大日本帝国が創設・運営する公立学校に通い、その後軍人を志して帝国陸軍と関係の深い満州国軍に在籍していた過去がある。そのため、世間は親日的人物と見做す向きが強い。実際、KBCで彼の特集ドキュメンタリー番組が放映される際には、50を超える数の市民団体から放映を撤回するようにクレームが入ったという。


「で、どうかね。朴くん……戦況は。報道ではどうも旗色が悪いようにみえるが」


「はい閣下。ご明察の通りであります」


 だが親日家であろうがなかろうが、朴陸軍参謀総長の彼に対する尊敬の念は変わらない。楊という韓国史上最高の軍事指揮官がいなければ、釜山防衛円陣は崩壊していた可能性があり、つまり大韓民国という国家が消滅していたかもしれなかった。朴にとってすれば、かの高名な李舜臣さえ目の前の偉人の前では霞んで見える。


「対馬方面・独島方面ともに敗北が続き、損害は増す一方。反撃の機会を窺っていますが、自衛隊の防衛態勢を前にして手詰まりに陥っているというのが現状です。現在は対馬方面の防御を固めることに力を入れていますが、海上自衛隊は潜水艦で対馬諸島北方に機雷を敷設したらしく、海上輸送は断たれました」


「成程。ありがとう。では戦争終結の算段は立っていないということだね」


 楊は溜息混じりに言った。この劣勢の状況で白大統領が負けを認めるとは考え難い。おそらくこのままでは、韓国軍が自衛隊に決定的勝利を収めるまで戦争は続くことになるだろうと彼は考えていた。70年前の大日本帝国と同じ道を辿っている。

 ……それでは、と楊は切り出した。


「噂で聞いたけれども、■■■■を拉致・殺害する計画が国家情報院で持ち上がっているというのも事実なんだろうね」


「よくご存じで」


「老いるとやることもなくなって暇になる。噂話が一種の娯楽だよ。しかし■■■■を……白大統領も相当追い詰められている」


「……」


 朴陸軍参謀総長は戸惑った。話題が不穏である。目の前に座る元・陸軍参謀総長は単純に戦況が気になって、自分の元へやって来たものだと思っていたものだから、まさか国家情報院にまで話が飛ぶとは思わなかった。これは迂闊に口を滑らせるとまずいかもしれない。そう思っていると、楊は口を再び開いた。


「朴くん」楊の眼がきらりと輝く。「そろそろめてもいいんじゃないのかい」


「止める、とは」


 反射的にシラを切った朴陸軍参謀総長に対して、楊は哄笑した。


「これは君の筋書きだろう」


 孫のいたずらを見抜いたような気軽さで彼は言った。


「在韓米軍に知己ちきの多い君のことだ。開戦前、やろうと思えば在韓米軍と米国政府を動かして、韓国政府の愚行を止めることも出来たはずだ。でもそれを君はしなかった。それどころか空軍参謀総長をやっていた韓くんに対して、在韓米軍を頼ってみると嘘をついただろう。さらに開戦前、白大統領に対して勝算はあるとアドバイスしたそうじゃないか。全て最近知ったことだがね。白大統領に韓日戦争を実現させたのは、君の働きによるところが大きい」


「閣下、私は民主主義に忠実な国軍の将星を務めているつもりです。私情で動くことはありません」


小童こわっぱッ!」


 先程までの好々爺然とした口調ではなく、ぴしゃりと楊は言った。朴の背中に冷や汗が流れる。全て看破されているのか。やはり韓国軍や外交部(外務省)に張り巡らされた楊の人脈と、情報収集網は未だ健在か、と朴は思った。

 だが次の瞬間には、楊の口調は元に戻っていた。


「私は予備役の身。現役の貴官に指図をすることはない。だがしかし、韓国軍はもう十分過ぎるほど血を流した。白大統領の求心力もなくなっただろう。もうそろそろ終止符を打つところなのではないか」


 やはりすべてお見通しなのだ、と朴は畏敬の念を新たにした。もはや言い逃れは出来ぬ。だがしかし、自分にも野心と信念がある。韓国陸軍の歴史、その体現と言っても大袈裟ではない存在を前に、朴は口を開いた。


「閣下。いましばらくお待ちください。時が来れば、必ずや……」


 朴はそう答えるので精いっぱいであった。

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