■27.好餌、竹島。(中)
6月7日午前。
(竹島、竹島――)
防衛省市ヶ谷庁舎地下――中央指揮所前の殺風景な廊下にて、火野俊矢統合幕僚長は立ったまま無言で缶コーヒーを啜っていた。脇には谷岡五郎陸上幕僚長。火野よりも背が高い彼も一言も発することなく、ただ立っている。
(竹島ね)
火野俊矢統合幕僚長からすれば、竹島など興味がない。
竹島は西島・東島(正式名称は男島・女島)という2つの小島と岩礁から成る、日本国島根県隠岐郡に属する島嶼群である。現在は韓国により不法占拠されており、東島には停泊場・ヘリポート・警備隊宿舎が建設されている。航空基地の存在や、地対地ミサイルが展開出来るような地積があれば別だが、純軍事的に言えば放置しておいたとしても大した脅威には成り得ない。
警戒するとすれば、韓国陸軍の攻撃ヘリを竹島から発進させての奇襲攻撃くらいだろうか。竹島の位置は韓国本土から約200㎞(鬱陵島からは約90㎞)、日本本土から約200㎞(隠岐諸島からは約160km)であるので、竹島から発進した攻撃ヘリが隠岐諸島や本州の一部を攻撃することは不可能ではない。しかし戦術的には無意味である上、生還を期さない自殺行為に近いため、韓国陸軍がそうした作戦を採るとは思えなかった。
逆に自衛隊側が竹島を攻撃後、もしも奪還したとしても、竹島を足掛かりにして韓国本土の航空基地や海軍基地を攻撃出来るわけではない。つまり竹島に手を出すメリットは、軍事面に関して言えばほとんどないのである。
だが、政治がそれを許さなかった。
「お身体は大丈夫ですか」
と、不意に問うた谷岡陸上幕僚長に対して、火野統合幕僚長は「なに、最後の奉公だよ」と笑った。自衛隊が体力勝負なのは、士も将も変わらない。特に統合幕僚長は部隊の指揮と同時に、政治家に対する説明を行わなければならず、火野は忙殺されていた。
「谷岡くんこそ煙缶が使えず(※喫煙が出来ず)、辛いんじゃないのか」
「いえ、そんなことは……」
火野統合幕僚長は、谷岡陸上幕僚長のことをよく知っていた。
両者の年齢は4歳以上離れており、防大で同時期に学んだこともないし、火野は前職が海上幕僚長、前々職は艦隊司令官であるから、陸上幕僚長の彼とは接点が薄いはずである。ただ谷岡は陸上幕僚長になる以前に、火野の下で統合幕僚副長をやっていた。
自衛隊員には喫煙者が少なくないが、その例に漏れず、谷岡は前線部隊に居た頃からのヘビースモーカーである。ただ谷岡はケジメとして、ここぞという時には禁煙する習慣があった。
「しかし、“ゴジラ”とはなかなか難儀ですな」
「愚痴を言っても仕方がないよ、行こうか」
「そうですね……」
竹島方面の諸作戦は、統合幕僚監部以下武官が積極的に立案したものではない。全て古川内閣の強い意向に因るものだった。先日は単なる陽動作戦と位置付けられていたオペレーション・ゴジラは、発展して竹島の完全奪還まで視野に入れたものになりつつあった。この日韓戦争を奇貨として、竹島に駐留する韓国警察部隊を排除し、日本の勢力圏に収めてしまおうというのである。故に軍事戦略・戦術上の必要性から竹島を攻撃するのではなく、政治的要請から竹島攻撃を前提として、それに合わせて軍事戦略・戦術上の必要性がでっちあげる形になっていた。
ひと時の休憩を終えたふたりは、中央指揮所に戻っていく。
「国民へのプレスの準備は」
「万全です」
「よし……」
ほぼ同時刻、首相官邸では閣僚会議が開かれていた。
古川首相は先程までトイレに籠っていた。数日前から黒色の血便が出ている。つい先程は洗面台に吐血もした。先日、公務の合間を縫って医師に診察してもらった時には、強いストレスによる逆流性食道炎・胃腸炎だと診断された。胃腸炎なら大丈夫だろうとは思ったが、臓腑の不快感はどうしようもない。
他の閣僚達の中にも、体調不良に陥る者が現れ始めていた。政治家の決断を必要とする事柄が多すぎるのと同時に、ひとつひとつの決断に伴う重責が大きすぎるせいである。平然飄々としているのは赤河財務相くらいなものだ。
閣僚会議の目的は様々あったが、今日は竹島関係の話題がメインである。
「それでは次の記者会見では、韓国軍が竹島にヘリを派遣していたこと。それが攻撃ヘリであった場合、竹島が韓国軍の軍事拠点となり、隠岐諸島をはじめとする中国地方が攻撃を受ける可能性があること。その可能性を排除するために、竹島を攻撃したことを説明します」
神野内閣官房長官の説明に、閣僚達は黙ってうなずいた。
竹島がいくら日本の国土である、と言っても開戦前に韓国側に占拠されていた関係上、大義名分なく攻撃すれば、国内外から日本は戦争を不用意に拡大しようとしている、と非難されるであろう。で、あるから、韓国軍が竹島にヘリを派遣したという事実と、理論上は竹島から攻撃が可能であることを、攻撃の口実にすることにした。
「これで長年の懸念だった竹島問題も解決するってもんだ。清々する」
閣僚達や党内でも竹島に関する考え方には差異がある。閣僚の中では赤河財務相が竹島奪還を積極的に推しており、自民党国防部会や外交部会に参加する一部議員も賛同していた。
「ただし、お忘れなく――」
小谷防衛相は、清々すると言って無邪気に笑う赤河財務相に対し、釘を刺すのを忘れなかった。
「韓国政府がいっさいを開戦前の状況に戻す白紙講和――つまり、事実上の竹島・対馬交換に応じるのであれば、それで手打ちにする。これが財務省、防衛省、外務省等関係省庁や党内での大多数意見です」
赤河財務相は反射的に舌打ちをした。
「気に入らねェ」
竹島を奪還し、これを外交カードに転化する。具体的には竹島を手中に収めた状態で、韓国政府に対し、開戦前の状況に戻すことを条件にして講和を持ちかけるのだ。竹島を売り渡す代わりに韓国側から対馬諸島を買い戻し、そこで戦争を終結させる(以下、竹島・対馬交換論と呼称する)――これが外務省を初めとする高級官僚達が考え出した策であった。
「確かに我が国固有の領土を形はどうあれ他国に譲り渡すなど、平時ならば到底許されるものではなりません」
ハト派で温厚なことで知られる木下外相の表情も、険しかった。
彼からしても竹島を取引の材料とすることは、外交的敗北であるという感覚が強いのであろう。
「しかし先日、防衛省から報告があったとおり、対馬諸島を占領した韓国軍は市街地を中心に展開しているとのこと。対馬諸島を力づくで奪還するとなれば、百名単位で民間人の死傷者が出るという試算が出ています。これは無視出来ません」
「ベストは竹島も対馬諸島も手元にある状態で戦争終結、なんだがなァ」
と未だ赤河財務相は何か言いたげであったが、ここで古川首相は「まあまあ」と一同を仲裁した。
「話が飛躍し過ぎですよ。現時点ではとりあえず今日、航空自衛隊が竹島を攻撃する。ここまでが決定事項ですから。その後、韓国側の出方と軍事的な流れを見ながら、可能であれば竹島に自衛隊員を降下させて制圧する。韓国側が応じるようであれば、竹島・対馬交換論でいく――もし応じないのであれば」
(応じないのであれば――)
古川首相は心痛を覚えた。
対馬諸島を武力で奪還し、戦争に終止符を打つほかない。学校や病院等への対馬市民の避難が許されればいいが、韓国軍が万が一、対馬市民の避難を許さなかったら。そうなれば何が起こるか。対馬奪還戦に伴う対馬市民の死傷者だが、百名単位で済めば御の字ではないだろうか。
そしてその対馬市民の生命を危機に晒す作戦の実行は、自分が命令しなければならないのであった。
さて、竹島方面で事態が動いた。航空自衛隊による航空攻撃に先んじて、海上自衛隊の潜水艦『そうりゅう』が竹島に接近しつつあった韓国海軍の天王峰級揚陸艦『天王峰』を襲撃したのである。




