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■1.対日作戦計画6035

供養

 大韓民国首都ソウル市中央部に所在する龍山区は、美しい夜景を楽しめる高さ約200メートルの南山タワーや大電気街が存在し、KORAILや仁川国際空港鉄道をはじめとする交通アクセスが便利であることから、ちょっとした観光地として知られている。日本国内で例えるならば、その雰囲気は東京の秋葉原に似ているかもしれない。地球村祭りなる多文化イベントや、李氏朝鮮時代の将軍を祀る祭りが行われる10月には、海外からも観光客が多く訪れる。

 が、一方で龍山区は軍都としても有名だ。その軍事拠点としての歴史は、日露戦争に際して大日本帝国陸軍がこの地に兵営を築いたことから始まっている。それ以降、時代の移り変わりとともに韓国陸軍司令部や在韓米軍司令部といった、高級司令部が龍山区には設置されてきた。

 そして現在、この龍山区に日本国の防衛省に相当する韓国国防部庁舎はある。


「馬鹿な……」


 国防部庁舎の一室。国防部長官をはじめとする文民高官と、合同参謀本部の高級将官たちによる特別会議は1時間もせずに終わり、その直後、韓志龍空軍参謀総長は呻き声を上げたまま、天を仰いだ。

 それとは対照的に国防部長官や次官クラスの官僚たちは、にこやかな表情で気楽に挨拶を交わしながら議場を後にする。


「韓志龍くん、これは政府の決定だ。そして民意でもある」


 韓志龍空軍参謀総長の隣席に座る朴陸軍参謀総長が、天を仰いだまま呆然とする彼に声をかけたが、韓志龍はすぐに返事をしなかった。


「閣僚どもは『作戦計画6035』発動を決めた。言いたいこともあるだろうが、従うほかない。違うかね、韓くん」


『作戦計画6035』とは、日本国を仮想敵とする作戦計画である。他国を敵と仮想して作戦を立てておく、というのはどうも穏やかではないが、この作戦計画は国防部の高級官僚たちや合同参謀本部の高級幕僚が、数十年間に渡って暖めてきたものだ。ほかでもない韓志龍も空軍のブレーンとして関わってきた。

 だがしかし、対日戦を想定したこの『作戦計画6035』は、あくまでも机上の空論に過ぎない。

 歴史的遺恨のある韓国と日本の関係は、一見すると険悪に思えるが、冷戦期は極東の共産勢力に対する自由勢力の防波堤としての役割を共に担い、そして冷戦構造崩壊後も同じアメリカの核の傘の下にある。また万が一、北韓(北朝鮮)との戦端が再び開かれたときには、日本列島は韓国軍の不沈兵站となる。故に韓国側から攻撃を仕掛けるなど、戦略的見地に立てば愚の骨頂にほかならない。

 つまり対日戦を想定するならば、日本国自衛隊による先制攻撃からの離島防衛や朝鮮南部への着上陸阻止となる。

 ……が、これも非現実的なことを韓志龍は知っていた。日本国自衛隊は法的にも装備面からしても、海外を攻撃することは難しい。


 また韓国と日本の経済的な結びつきを考えれば、戦争は国民生活を脅かす百害でしかない。韓国から日本への輸出額は約250億ドル、日本からの輸入額は約450億ドル。対日総貿易額約700億ドル――これだけの商取引を失えば、困窮する自国民が現れることくらいは、経済の素人である韓志龍空軍参謀総長にもわかる。

 200億ドル以上の対日貿易赤字が、政府からすれば頭痛の種になるかもしれない。が、そもそも韓国全体の貿易に目を向ければ、対中・対米貿易赤字も相当酷いのだから、それが戦争の正当な理由になるとは思えなかった。

 逆に日本側も、韓国は地理的に最も近い商売相手。彼らがこちらに先制攻撃を仕掛けて利益になることなど、そうそうないだろう。


 故に、韓日戦争などあり得ない。


 つまり『作戦計画6035』は、あくまでも周辺国のひとつを仮想敵にした一応のプランでしかない。友好的・敵対的を問わず周辺国に対する万が一の際の作戦計画を練ることくらいは、世界中の軍事組織で行われている常識であろう。当然、韓日で戦争を起こす政治的メリットもなければ、経済的な旨味もないのだから、策定された後に研究が重ねられてきた『作戦計画6035』が日の目を見ることは、決してない。


 ……はずだった。


 だがしかし、先程の会議では激論が戦わされることもなく、拍子抜けがするくらい円滑に対日作戦計画である『作戦計画6035』の準備と発動が決定されてしまった。

 韓志龍が声を上げる間もない。最初から大統領と閣僚の意志ありきの会議だった、と韓志龍は断言できる。シビリアンコントロールの下にある軍人の意見など、国防部長官は聞くつもりなどなかったに違いなかった。


「閣下、小官には勝算がありません」


 韓志龍は勇気を奮って、年長者である陸軍参謀総長の巌のような顔めがけ、そうはっきりと言い放った。


「ご存知かもしれませんが、小官には航空自衛隊幹部学校への留学経験があります。悔しいですが彼らの防空システムは、我々よりも優れています。早期警戒機や空中給油機の運用では、彼らに一日の長があります」


「なるほど」


 陸軍参謀総長は韓志龍に対して、同位者というよりは彼の先生であるかのように振る舞った。


「しかし彼らの主力制空戦闘機は、我が国のスラムイーグルより劣っていると聞くが」


「確かに彼らの主力制空戦闘機は近代化改修仕様のF-15Jと、非近代化改修仕様のF-15Jが半数ずつ。旧式のスパローミサイルしか撃てない後者ならば、アムラームを撃てる我がF-15Kが優位に立ちます。が、戦争は戦闘機の性能で決まるわけではありません」


 大韓民国国軍の中にはどうも高性能な正面装備を揃えることに拘る人間が多いように、常日頃から韓志龍は感じている。もちろん、高性能兵器を揃えることは重要だ。だが、運用方法の研究や維持管理の徹底、韓国軍の戦闘システムとの整合性が取れなければ、それも宝の持ち腐れとなってしまう。

 兵器性能の優劣のみで勝敗が決まる戦争など、現代ではあり得ない。


「なるほど」


 陸軍参謀総長は再び鷹揚に頷いたが、結局はまた話を最初に戻した。


「だがこれは政府の決定だ。民意も反映されていることだし……」


「衆愚で国が滅ぶのを、黙って見過ごすお積もりですか」


「韓志龍くん、言葉を選びなさい。衆愚などという言葉は、議会制民主主義の否定だよ」


「……」


 しかし客観的に見ても、現状は衆愚の結果と評する他なかった。

『作戦計画6035』が持ち出された原因は、韓日感情の悪化とそれを支持率浮揚に利用してきた韓日両政府、韓日関係を不誠実に取り扱ってきたあらゆるメディア、そして悪意あるデマの横行を許してきた両国民の怠慢にあるからだ。

 まず『作戦計画6035』を持ち出した張本人は、白武栄大統領と李善夏国防部長官だった。

 特に白大統領は懲日とも称される対日強硬姿勢と、「日本に追いつけ追い越せ」をスローガンとした経済政策を打ち出すことで、これを集票の源としてきた経緯がある。実際、彼の国粋的パフォーマンスを伴う最低賃金の値上げ、若年者雇用義務率上昇といった経済政策はうまくいった。韓国の経済は浮揚し、国内メディアはみな揃って「漢江の奇跡再び」と彼を持ち上げた。

 ……が、これがうまく行き過ぎた。

 ほぼ同時期に行われた大統領就任後の独島上陸や、強制徴用工銅像とのツーショット写真をSNSにアップするといったパフォーマンスは、確かに韓国国民のナショナリズム精神に火を点け、手っ取り早く政権支持率浮揚に役立った。

 が、点いた火に油を注ぎ続ければ……爆発炎上、どこまでも延焼するのは自明の理。


「口だけではなく、今こそ行動に移すべき!」


「日本人に正義の鉄槌を下し、歴史的清算をしよう!」


「白大統領万歳! あらゆる反韓勢力に死を!」


 いまや彼の熱狂的支持層はより過激、より強硬な姿勢――つまり軍事行動による懲罰を求めるようになっていた。さらに恐れるべき問題は、白武栄大統領と李善夏国防部長官といった国務委員たちが、自身らの懲日対決路線に酔い始めたことであった。

 本来、政治家にとっての反日運動とは日本政府との外交交渉において、譲歩を引き出すためのカードであったり、自身の政権を安定させる目的のために利用したりする“手段”に過ぎない。

 どんなに対日強硬派と知られる国会議員であろうとも――少なくとも正常な思考力が残っているうちは――日本と本気で事を構える(つまり戦争を起こす)つもりはないのだ。それは当然、日本と戦端を開けば直接的に数百億ドルの商取引を失い、国際的な非難に晒されることになることを理解しているからだ。

 加えて対日戦線を構築するということは、北韓に対する備えも疎かになるということ。そうなれば、国民の生命が脅かされることは火を見るよりも明らかである。

 故に反日運動は手段であって、目的ではない。

 ……だがいまその手段が、目的になろうとしていた。つまり韓国政府にとっての利益を得るために日本を懲らしめるのではなく、日本を懲らしめるために何をするか、を彼らは考え始めた。

 そして白大統領は手段として軍事行動『作戦計画6035』を持ち出した、というわけであった。


 白大統領に軍事行動を決断させた機運が、このときにはあった。

 2か月前、訪日韓国人旅行者が排外主義を掲げる保守団体のデモ隊と遭遇。もちろん事前の届け出もあり、現地では日本の警察官による警備が行われていた。が、活動記録を残すためにデモの隊列から離れていた一部構成員が、この訪日韓国人旅行者に対して、日本語と簡単な韓国語による暴言を浴びせ、旅行者が持っていた携帯電話をはたいて落とすといった軽微な暴行を加える事件が起きてしまった。

 これはまず韓国国内で大々的に報じられ、続いて日本国内でも報道があった。

 現場を見ていた人間からすれば、どちらが一方的に悪いとは言えないトラブルだった。

 まずデモ自体は韓国旅行者個人を対象に攻撃を加えるといった趣旨のものではなく、団体全体に問題があるというよりは、デモ隊列から離れて動画撮影などを行っていた構成員個人に問題があった。

 また訪日韓国人旅行者がデモ行進に直面して、デモ隊に対して咄嗟に携帯電話を向けたのもまずかったようだ。暴行を振るった構成員は、警察官に逮捕された後の取り調べで「勝手な撮影を止めさせたかった」と供述している。

 これだけならばよくあるトラブルだろうが、報道は過熱した。偶然居合わせた韓国人旅行者と保守団体の一部構成員のトラブルは、韓国人を標的とする保守団体の襲撃事件と、それを野放しにする日本政府という図式となり、韓国国内で報道された。


「日本にやってきた反日韓国人を追い出しただけ」

「先に撮影した朝鮮人が悪い」

「手を払っただけで逮捕されるのか?」


 一方、日本国内では事実に基づいた報道がなされたが、SNS上ではごく一部のユーザーにより排外主義的な意見が書き込まれた。それが韓国国内に翻訳されて広まる頃には、個人同士のトラブルは国家同士の外交問題に達していた。


「日本人に謝罪と賠償を要求しろ」


「これを機会に朝鮮人どもを駆除しよう」


 相手を中傷するコメントを残すユーザーは、両国民の内の一握りに過ぎない。だがその一握りが外交問題を引き起こし、そして両国民の怒りに火を点けた。こうした背景もあり、白武栄大統領に対する支持者らの期待は大きく膨張し、そして彼はその期待に応えるべく『作戦計画6035』を持ち出したのだった。


 ……これを衆愚政治と言わずして、なんと言うか。


 そういう思いが、韓志龍空軍参謀総長にはあった。


「開戦に伴う韓日断交となれば経済は崩壊し、国民の生活は窮乏します。否、2国間だけの問題ではない。歴史的な遺恨があろうとも我々が日本国を攻撃する正当性は、国際社会からみれば皆無です。最悪の場合、経済制裁……あるいは湾岸戦争の再現ですよ」


 イラクがクウェートに侵攻して始まった1990年の湾岸戦争では、国際連合安全保障理事会は武力制裁を容認し、アメリカ軍を中心とする多国籍軍が武力を行使した。

 韓日戦争が起これば、おそらく今回も安保理で経済・武力制裁に関する話し合いがもたれるだろう。韓国と日本の結びつきの強いアメリカは他国の武力介入を嫌がるだろうから、武力制裁が決議されることはないと考えられる。だがしかし、何かしらの経済制裁が、韓国に対して科される可能性は高かった。


「それだけではありません。名誉の問題です」


 それに韓志龍空軍参謀総長からすれば、経済制裁そのものが恐ろしいのではなく、侵略国として国際社会から認知されることが彼には耐え難かった。

 過去に韓国軍はベトナム戦争に参戦したが、あれは冷戦構造――東側諸国が勝てば、西側諸国は脅かされるという危機の最中の話だ。後世の人間に説明するにしても共産主義勢力への対抗戦争ということで、とりあえずの大義は立つ。

 だがしかし、民主化の為されたこの第六共和国で、日本国に牙を剥くのは平時に乱を起こす侵略行為に過ぎない。

 いかなる大義もないではないか。


「『作戦計画6035』……北九州をはじめとする軍事施設の破壊と、対馬島の占領。我々は後世の歴史家と子孫たちに、この愚行をなんと説明するのですか。客観的に言って、これは侵略です。我々は子供や孫に侵略国の子供、侵略国の孫という不名誉を与えるわけにはいきません」

「ふうむ」


 陸軍参謀総長は頬杖をつくと、何事もなく言った。


「それではクーデターでも起こすかね?」

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