第六十九手「超乱戦、相横歩取り」
横歩取りの将棋の最も恐ろしいところは、"中盤がない"ことに起因している。
本来将棋は『序盤』『中盤』『終盤』の3つに分けられており、玉を囲ったり駒組みをする段階を『序盤』、互いの駒がぶつかって攻防が始まるのを『中盤』、そして1手で勝敗が決する状況に陥ることを『終盤』と呼んでいる。
だが横歩取りにおける『中盤』とは定型、つまり定跡として処理されるために考える必要性がなく、いきなり『終盤』に突入してしまうのだ。
戦いが始まればそこは奈落の上での綱渡り、1手間違えば終わってしまう橋の上での攻防戦。
そのため、横歩取りの将棋は100手未満で終わることが多く、奇襲戦法を除けば最も早く終わる短期決戦型の将棋と言われている。
それはまさに、眼前の将棋盤に至上の知略がぶつかる瞬間──。
飛車先の歩を交換する事は、居飛車であっても振り飛車であっても互いに目標とするところである。そしてこと相居飛車は、飛車先の歩を交換した際に横歩を取れる機会が多い。
目の前にタダで落ちている歩、一見すれば儲けものだと思える横歩取り。だがその先に待っているのは奈落そのものである。
"横歩三年の患い"。
飛車先を交換した際、一歩得を狙って安易に横歩を取ってしまうと、その後の駒組みに苦労するという格言だ。
横歩取りは、互いの大駒がいつでも捌き切れる状態になっている。いわばそれは遮蔽物のない戦場で、互いに銃火器を握りしめている状況だ。
序盤に玉を囲える余裕があるのは、互いの大駒の利きが自分や相手の歩などで防がれているため、相手側から好戦的に捌かれる心配がないからである。
だが横歩取りにその余裕はない、玉を端に囲おうものなら脳天直撃で大駒を捌かれてしまう。
故に横歩を取ることは、その取った一歩に見合わないほどの苦悩を強いられる、という意味でこの格言が広く知れ渡った。
これは後の"横歩大流行時代"を経て一応この格言に終止符が打たれるも、それでも横歩を取ることは、よほどの自信がある者か、しっかりと研究をしている者だけが取るべきだ、という風潮だけが尾を引いて残った。
だがその名残は今となっても変わらず健在で、横歩は興味本位で取るものではないと若者達にも強く認知されている。
だからこそ、横歩取りは大会などでは中々相まみえることのできない戦法なのである。
「副会長、考えてるな」
「ああ……」
Aグループの決勝戦が始まったことで、周りにはどんどん観戦者が増えてくる。既に予選で敗退し帰ろうとした選手達も、この一戦だけは注目だと足を止めて顔を覗かせにくる。
俺が横歩を取ってから1分、川内副会長は盤面をじっと見たまま微動だにしない。恐らく戦型を考えているのだろう。
横歩取りには様々な戦型が存在する。
定跡手『△3三角型空中戦法』からなる後手最有力とされる△8五飛戦法、通称『中座飛車』。
一昔前に裏定跡として流行した『△4一玉戦法』。
古典的なこともあり△8五飛戦法が出現してからはほとんどみかけなくなったが、硬派な手順と穏やかな戦型に戻す『△3三桂戦法』。
プロ間では無理筋とされているが、魅力的な候補手と理解不能な妙手が飛び出す波乱の戦型『△4五角戦法』。
一様に横歩取りと言っても、これだけ色々な戦型が存在する。
そしてこの中のどれを選ぶかは、横歩を取られた川内副会長側が決める権利を持っている。
──1分15秒。
横歩取りは、隅々まで研究した者だけが指すことを許された戦法。逆に言えば、横歩取りの成立は同じエキスパート同士がぶつかるということでもある。
──1分30秒。
川内副会長は脇に置かれた缶コーヒーを口に運び、それを一気に飲み干す。
脳内概算を終えたのか、先程までとは目付きが変わった。
──2分。
17分を切った時計を一瞥した川内副会長は、ようやくその手を動かす。
しかしその手は、自分の自陣を通り過ぎてこちらの陣地にまで忍び寄った。
夕焼けの光に照らされていた駒達に影が覆い、無言の圧で熾烈の予感を伝えていく。
△8八角成。
「──!!」
横歩取りを選んだ者がどうして穏やかに指せようか。そう言わんばかりに、川内副会長の手は表情とは正反対に荒々しいものだった。
角交換、最善手を外してきたのか……っ。と俺は思わず唇をかみしめる。
靄がかかっていたその狙いは、やがて明確なものとなって晴れていく。正体を現すまであと数手もない。
「あれ? 横歩取りの定跡って△3三角じゃなかったか?」
「最善手はな。だが後手は角交換から無理矢理攻める筋がいくつもあるんだよ、それもハメ手クラスの妙手がバンバン出てくる」
「……マジ?」
「マジ、だから俺は居飛車党でも横歩だけは取らないって決めてる。あれは遮蔽物のない戦場に足を踏み入れるようなものだ、手の変化手順を全て熟知してなきゃ簡単に取れねぇよ」
「なら天竜は熟知しているから取ったってことなのか?」
「さぁ? 俺らアイツが対抗型苦手だからって振り飛車ばっか指してたからな」
「ははっ、確かに……」
後ろの方では何やら観戦者達で盛り上がっている。当然何を言っているかまでは聞こえないが、定跡を外してきた川内副会長の手に驚いているのだろう。
事実、横歩取りにおける定跡手は16手目△3三角で、それ以外の手は全て先手勝ちという結論が出ている。
だがそれは、文字通り"全ての局面を把握する実力"があってこそ出せる結論。将棋の神でもない我々アマチュアがその結論を肯定する資格はない。
▲同銀。
互いの角が手持ちになり、互いの飛車も浮いているこの状況。完全な乱戦の前兆だ。
ゆったりとした空気感が盤上を包み、嵐の前の静けさを醸し出している。
さぁ何で来る──? 角交換をしたということは、向こうはろくな攻防を想定していないだろう。
一番可能性が高いのは、大暴れの筋がある『△4五角戦法』か。いや、ハメ手という観点から俺を罠に陥れようとしているのなら『△3三角型』や『△4四角型』と言ったあまり知られていない形を使ってくる可能性もある。
どちらにせよ、既に最善の定跡からは外れているのに変わりはない。川内副会長が何かしら仕掛けてくるのは確定だ。
川内副会長は先程の角交換以降、再びその思考を巡らせている。オッサンの長考はこうも恐怖を煽られるものなのか、考えている姿だけで威圧感が半端じゃない。
恐怖に圧されないよう息を呑み、川内副会長の一挙一動を見守っていたその時だった。
──ピッ。と、短い音が鳴り、目線が時計の方に向けられる。
そしてその一瞬の隙を突くかのように、川内副会長は次の一手を指した。
時計から呼び戻される視線、その先にあったのは──。
△7六飛。
「相、横歩……」
一人の選手が言葉を漏らす。眼前の先にあったのは、まさしく横歩を取られた形。川内副会長は、まるでこちらの真似でもするように自身も横歩を取ったのだ。
互いに横歩を取ったその形は、横歩取り戦法の中でも超乱戦とされている乱戦中の乱戦形。
その名は──『相横歩取り』。
「横歩取りを指す者なら『相横歩取り』など必修科目だ。君にこの手を咎められるかね?」
川内副会長はそう言い放ち不敵に笑う。
相横歩取りが登場したのはこの大会会場の中では実に数年ぶり。いや、観戦者達にとってはアマ戦でそれを直に見たのは初めての人も多いほど稀有なもの。
後方で見ていた観戦者達の中では、僅かながらにどよめきが走る。
「な、なぁ。俺横歩取り詳しくないから全然分からないんだけど、これって今どういう状況なんだ?」
横歩取りに関して詳しくない選手の一人が、隣の詳しそうな選手に質問を投げかけると、彼は乾いた笑いでそれに答えた。
「横歩を取ることは自ら遮蔽物のない戦場に足を踏み入れることと同じだってさっきいったよな?」
「あ、ああ」
「じゃあ相手も横歩を取ったらどうなる?」
「……」
「そういうことだ」
それだけ言うと質問した者の顔は青ざめていく。
そう、それはつまり相手も同じ狂気の戦場に立つということ。
ただでさえ横歩取りは先手が乱戦を持ちかける急戦の策だというのに、相手も同じ乱戦を仕掛けてきたらそれはもう魑魅魍魎の図そのものだ。
互いが横歩を取り合ったこの局面、間違いなく戦場は混沌と化すだろう。
「……なるほどね」
俺は苦笑しつつ小さく呟く。自分の予想がことごとく外れたことに多少の怒りは湧いてくるものの、それは目の前の"格上"の存在に感服という感情で塗りつぶされる。
これは罠とかそんなんじゃない。川内副会長は、最初から俺と地雷原の上でダンスを踊るつもりだったんだ。
さて、どうしたものか。
相横歩取り……最後にこの形を見たのはもうかなり昔のことだ。あの時は全部覚えていたけど、今ではそのほとんどを忘れている。
頼りになるのは微かな記憶だけか。
川内副会長の指した△7六飛は、次にこちらの7八にある金を取る狙いがある。つまり、この局面での俺が指す選択肢は▲7七銀か▲7七桂のどちらで受けるかだ。
▲7七銀は激しい手順が繰り広げられるものの、専門家の中では完全解析されており『先手勝ち』で結論がついている。
対する▲7七桂は穏やかな手順になるも『やや先手指せる』と言われている。
分かりやすく言えば、▲7七銀は研究勝負、▲7七桂は構想勝負だ。アマチュアなら前者、プロなら後者がよく選ばれる。
俺は自分が指してきた将棋の中で、横歩取りだけは誰にも負けない自信があるが、それは向こうも同じことだ。横歩取りを指すような人は、そもそも横歩取りが得意だから指してきている。
しかも相手はあの川内副会長、こちらの想定を上回る研究量をこなしていても不思議じゃない。
どちらも俺が正しく指せば勝てる。横歩取りは『3三角型空中戦法』以外は、全て先手が良いと結論が出ているのだから。
だが▲7七桂の構想勝負では棋力差も如実に出てしまう。実際、川内副会長相手に構想勝負を挑めるほど俺の恐怖心は死んじゃいない。
なら俺の手は決まっている──!
▲7七銀。
ゆったりした将棋なんか受け付けない。互いに丸裸で踏み入れた戦場なんだ、今更悠長に服なんか着てられるかよ。
ノーガードの殴り合いで、その心臓に風穴開けてやる。
「……」
「……」
「……」
俺の指し手に、会場中から息を呑む音が聞こえた気がした。
相横歩取りは後手番の方が"不利"。そんなことは誰だって知っている常識であり、だからこそプロの対局でも頻出することはない。
しかしそんな中でもこの戦法を指す者がいるのは、その"不利"を跳ねのけるほどの魅力ある手順が存在しているからに他ならない。
人間同士の将棋とは、不利を承知の上で勝利を狙う競技だ。
(ふむ、▲7七桂の筋は潰えたか。なら次は▲3六飛と引いてくれるのを願おう)
川内副会長は顎に手を当てながら、おもむろに飛車を引く。
△7四飛。
それはただの飛車引きに見せかけて、こちらの飛車の利きにぶつける一手。このままいけば飛車交換になるだろうが、ここで敢えて▲3六飛と引く手ももちろんある。
だけど俺は知っている。その目、この流れ。
散々感じてきた視線と空気感に数年も浸っていれば、相手が何を考えているのかは少しくらい分かるようになってくる。
川内副会長、アンタはこの丸腰の状態から着々と組み立てていく緩急の将棋を狙っているんだろう。研究で勝っている俺に、経験で勝つつもりでいる。
──そうはさせるかよ。
▲同飛。
俺は表情一つ変えずその飛車を取る。
「……ほう」
定跡、定跡、定跡、ただひたすらに最善手だ。
どこで分岐を始めるのかはまだ分からない、だがこの読み合いは既に終盤戦へと突入している。
目の前の一手をただの一手とするな。思い出して指せ、思い出せ、正しい記憶を探り当てろ、ただの一手も間違えちゃいけない。
「──こうも読まれるとは、偶然か? いいや、よき心理戦だ」
川内副会長はこちらの取った駒を見て小さくため息をつと、口元に小さく笑みを浮かべながら呟いた。
そして自身もまた、飛車を取り返す。
△同歩。
互いの飛車と角が駒台に乗る。今まではお互いに丸腰だったが、ここからは両者とも銃火器を持っている状態だ。
逃げ場はない、隠れる場所もない。本来囲われるはずの王様は初期位置から一切動いておらず、その王様を固めるはずの守り駒達もほとんど手が付けられていない。
さあ、ここからだ。
ここからが本当の意味での終盤戦、ノーガードの殴り合い。お互いの思惑が交錯する戦場で、先に牙を突き立てた方が勝者となる。
時計を一瞥すると、川内副会長の残り時間は14分、俺の残り時間は16分と表示されていた。
この時間差は微々たるもの。それに、局面が終盤の入口に入ろうとしている点を加味すれば、時間切れになる心配はないだろう。
だが決して油断はできない。何より俺はこの人と戦うのが初めてだし、どのくらいの強さをもっているのかが完全に未知数だ。
少なくとも何かしらの策を用意していなければ、定跡通り先手の勝ちで終わるだけ、これはそういうレベルの戦いである。
一体どこで定跡を外してくるのか、それをしっかり見極めなきゃならない。
周りの空気はさきほどまでの静寂を飛ばすように、熱風と目まぐるしい乱戦の開始を予感させている。
そんな中──俺は駒台に乗せられた大駒をひとつ掴み、決戦の鐘を鳴らすかのようにその一手を打ったのだった。




