第四十二手「転」
リビングにでると、いつものエプロン姿で料理をしている麗奈がいた。
「どう、して……」
「……?」
驚く俺の顔を見て、不思議に思った麗奈は静かに首をかしげる。いるはずもない姿と聞こえるはずもない声に耳を傾けながら、視界に映る確かな真実を直視する。
「あ、そういえば鈴木会長が次の大会の日程についてハガキを送ってきてたわよ」
いつもの調子で語り掛ける麗奈。いつもの感じで、いつも通りに接してくる。
そのあまりにも自然な日常の入りに未だ飲み込めていない俺は、唇を震えさせながら視線を逸らす。
「どうしているんだ」
「あら、居ちゃダメだったかしら?」
そうじゃないと強く首を振る。
「俺は負けたんだ、勝てなかった、勝つことに執着出来なかった……!」
「──それで?」
鍋のスープをかき混ぜながら気にしてなさそうに返事を返す。
麗奈の声はいつもより優しく、それでいて包むような感じがした。
「だから……! もう……」
もう……なんだ? その先はどんな言葉が繋がっているんだ?
諦める? ほっといてくれ? その言葉は本心とは程遠いものじゃないのか。
「それは必要な答えかしら。それとも、言ってほしいだけ?」
まるで俺の心を見透かしたかのように、麗奈は的確な部分を突く。
グツグツと鍋が煮る音が響き、未だその答えに決着をつけていないのはお前だけだと辺りの空気が俺を責め立てる。自らの意思にけじめをつけてないのはお前だけだと日常の気配が心を貫く。
「俺は……っ」
だから、言い切れない。だから、決心がつかない。
先へ進む恐怖を知ってしまったから、届かない現実を見てしまったから。だからこれ以上進むことは意味を為さない。
自分の実力の底を知るとはそういうことだった。
「師匠が負けたのは残念だと思ってるし、青峰龍牙の言った言葉が師匠に刺さったのもある程度は理解しているわ。それを受けて師匠が凄く辛いのも、将棋に向き合いたくない気持ちがあるのも分かってる」
無垢な瞳は俺の目から視線を外さない。
「でもそれは、私がここにいない理由にはならないんじゃない?」
どこまでも誠実に寄り添ってくれる麗奈の優しさに視線を落とす。何も言えない、言い返す言葉すら見つからない、ただ胸に五寸釘を打たれたような痛みを感じた。
「……」
惨めな姿を見せてしまった、勝てなかった。だけど、現実には結果だけが無情にも残される。お前の実力はここが限界だと、容赦なく突き付ける。
その思いは自然と喉元を過ぎて口へと溢れてきた。
「あれだけ時間を費やしたんだ、あれだけ必死に努力したんだ。結果多少なりとも成長は出来たと思うし、その実感も沸いた。だけど……! だけど、そこまでだった……」
這い出てきたその声色は怒りというよりも、諦めだった。
「手が、見えなかったんだ……。何も見えなかった。今までなら見えてたはずの景色も、見えるはずの筋も、何も……っ! 何も見えなかったんだよ……」
黙る麗奈に俺は続ける。俺が対峙した者の異常さを、足りない言葉で必死に伝える。
「正直凄いよ県代表は、想像以上の強さだ。他のスポーツはやったことないが、県代表ってのは世界選手か何かなのか……? 手も足も出ないどころか、自分の意思すら向けることができなかった。完封なんてもんじゃない、真上からプレス機で押しつぶされた感覚だよ」
どこか馬鹿らしく思えるような呆れを示し、やがて乾いた笑いが勝手に漏れでる。
「はは、はははっ……」
「……」
ほんの少しでも可能性があるのなら、心のどこかで諦めないという思いが湧き出る。だが、そんな感情は今の俺には微塵も残っていなかった。
惨敗、完敗。俺に残された結果は敗北なんて安い二文字じゃなかった。
龍牙は俺を潰すという自らの目的通り、二度と立ち上がることができないほどの大敗を突き付けることに成功したのだ。
戦いというのは、どんなものであろうとも残酷さを残していく。ただの地区大会ですら、参加者の大多数は悔しさを噛み締めて立ち去らなければならない。
選別は決して努力や誠実さなんて考慮されず、その瞬間の勝敗のみで全てが決まる。それが戦いというものだった。
「アイツですらそんなレベルなんだ、県代表ですらそんなレベル。……プロなんて、なれるわけがない、目指せるわけがない」
決して言いたくなかった言葉を、顔を歪ませながら口にする。
あれだけプロを目指すと豪語したのに、それがバカみたいに思えてくる。
「でも師匠は──」
「ああそうだよ、なりたかった、例え無理だとしてもなれるって言い張りたかった。その方がカッコいいし、夢に向かって進んでる感じがするからな。でも、これが現実なんだよ。これが結果なんだよ……!」
拳を握りしめて悔しさをぐっと堪える。
立ち向かう覚悟よりも、折れて諦めることの方が難しい。それをすることは過去の自分を否定し、全てをなし崩しにするようなものだ。
だが、そうするしかないほどの現実を知ってしまった。途方もない距離を改めて実感したんだ。
「だから、俺はもう……」
「指さないの?」
スッと入ってきた心を砕く一言に、俺は思わず顔をあげる。
「だから、たった一局負けただけで指さないの? 師匠の将棋に対する熱意はその程度なの?」
「……っ」
それは卑怯な問いかけだった。溜まっていた屁理屈を全部吹き飛ばされたかのような、惨めな痛感だった。
反論出来ない返しに俺は唇を噛み締めると、麗奈もバツが悪そうな顔で少しだけ眉を緩める。
「……っていうのは意地悪な質問よね、私も今の師匠にそんな言葉は不要だと思うわ。煽って奮い立たせても、それはただの空元気にすぎないと思ってるし」
正論は言われなくても理解してる。それを知ってか、麗奈はほんの少し表情を緩め笑顔を見せた。
「だからね。──私はそれでもいいんじゃないかって思うの」
「……え?」
唐突に放たれた全面肯定の意見に、俺は言葉を反芻する。
「師匠が将棋を指したくないって言うなら、私はそれでもいいと思う。無責任だけどね、でもまた指したくなった時に指せばいいし、この世界から手を引いてしまっても別に責めはしないわ」
「それは……! ……麗奈はそれでいいのか?」
「私は元々頼んだ立場よ、師匠が嫌だと言うのならその思いを無下にするような真似はしないわ。それを師匠が望むのならしっかりと納得もするつもり、私の心配なら大丈夫」
唯一俺を咎められるカードを持った麗奈は、俺に対して諦めてもいいと、そう言った。
解放される言葉だったはずなのに、鈍器で殴られたような感覚だった。
「麗奈……」
なんだよ、まるで俺の方が子供みたいじゃないか。
「くっ……!」
諦めることが悪いことじゃないと、逃げることは咎められるべきじゃないと、そう言ってくれる奴が一番諦めていないなんて、あまりにも──。あまりにも、救われない。
「……ッ」
拳に入る力が増す、掌に跡が残るほど爪を食い込ませる。
どうしてそこまで前を向き続けられる? 俺のあんな結果を見て、どうして失望しないんだ、どうしてその希望を俺に抱いたまま居れるんだ。
そんな言葉が口から零れそうになる。
だけど、自ずと返ってくる言葉を俺は知っている。そしてその答えが、絶対に変わらないということも知っている。
だから余計に沈黙するしかなくなる。だから、いつまで経っても判断ができない。
「師匠はさ、自分の目線から見て完封負けだって言うけれど、今振り返っても本当にそう思ってる?」
「……?」
それは龍牙との戦いを言っているのだろうか。
勿論完封負けだ、手も足も出なかったとさっき言ったばかりじゃないか。
「鈴木会長が言ってたわ。あなたの棋譜、プロの指し回しと酷似してたって」
「俺が? プロ棋士みたいな指し回し? それはいくらなんでも盛りすぎだろ……」
「でも、最後まで諦めてなかったんでしょ?」
「それは……」
それは、当然だろう……。最後まで勝利に執着してたに決まってる、勝とうとしてたに決まってる。
だけどそれは言い訳でしかないんだ。実はずっと勝機を窺っていたなんて、負けた側が口にする言葉じゃない、例え本当だとしても結果は有無を言わさない。
「──」
麗奈は俺から視線を外し、完成した料理の味見をする。その表情を見るにかなり美味しそうだった。
「私ね、ほんの一瞬、勝てるかもって思ったんだ」
「……あの終盤からか?」
麗奈はこくりと頷く。
あの局面から、あの敗勢の局面から勝てる……?
三段相当の棋力を持った麗奈なら、あの局面が絶体絶命の敗勢なのはひと目で分かることだ。いいや、麗奈だけじゃない。他の連中もみんな分かってた、俺だって分かってたんだ。分かっていながら最後まで、詰みの局面まで指し続けた。
それは勝てるからじゃなくて、負けたくなかっただけの話だ。
「自己分析は別に不得意じゃない」
「でも師匠の目、最後まで本気だったよね」
「はは、俺の目は後ろについてたのか」
「見えなくてもそれくらい分かるわ、甘くみないで」
それは麗奈が、俺の対局を最後まで見てくれていたことを暗に言っている。
負けたあと、感想戦もせずにその場を立ち去ったあの時の俺には周りの視界なんて映っていなかった。それどころか、いつ自分の家に帰ってきたのかすらよく覚えていない。
「最後に首を差し出したのはちょっと減点だけどね」
「あの時は本当に朦朧としてたんだよ。そう、朦朧と、して……?」
冷静に振り返ってみると、確かにいくつか引っかかる点はあった。思い返せば、俺は自玉が詰まされるまで指すタイプじゃない、必敗になれば詰まされる前に投了するのがセオリーだ。
それに俺は普段穴熊なんて指さない。あれは有段者が指すような難易度の高い囲いだし、戦いが起こった中盤から囲うなんてリスクが大きすぎる。
リスクが大きすぎるのに、俺はなぜ指したんだ……?
あの膠着した場面で攻撃しなかったのも、紛れを読んだら無理攻めでも攻めていくべきだ。手番が進めば形勢は悪化するのに、どうしてジリ貧なまま終局を迎えたんだ。
まるで、一見すると無意味な手のオンパレードだ。あれだけ無意味な手を連発していたら、一瞬でやられてもおかしくはない。
だけど、龍牙は俺を殺すまでだいぶ手数が掛かってなかったか……?
ジワジワと痛めつけるにしては遅すぎる。いや、逆だ……手を遅くしないといけなかった? 早めに仕掛けたら反撃されるから、速攻で仕掛けるわけにはいかなかった?
将棋は互いに最善手、もしくは悪手を指し続ける限り決着はつかない。どちらかが最善手を指し、どちらかが悪手を指すことで終局へと向かっていく。
今思えば龍牙は最初から最後まで悪手を指していない、つまり悪手で俺を誘っていたぶる手法を取らなかった。
俺があのとき穴熊を作りに行ってなかったら、龍牙は一瞬で俺を倒しに来ていたはずだ。だけど俺が穴熊を作りに行ったことで反撃される危険性を察知した、だから鈍足な攻めになったのか……。
なら俺の手はあの一瞬だけ、龍牙に迫っていたことになる。つまり──。
──ぐぅうううう。
「……あ」
考えてる最中にも、鼻腔を擽るいい匂いがお腹を刺激して思わず空腹の音が漏れ出る。
緊迫した空間が緩み、緊張が解けたように俺と麗奈は肩の荷を降ろした。
「まぁこんなところで話しててもなんだし、まずは場所を変えましょうか」
胃袋を掴む者なんとやら、麗奈はどこか勝ち誇ったような顔でふふん♪ と胸を張る。出来上がった味噌汁を専用のポットに入れ、二人分のおかずも空の弁当箱に詰めていく。
「今日はお弁当にしました」
「おぉ……! もしかしてどこかに行くのか? ああ、気分転換ってやつか、麗奈はほんと手が込んでるな」
「うん、じゃあ今から日本を出るわよ、準備してね」
「分かった。……は!?」
一瞬、頭がバグった。理解できない単語が頭の中で反復する。
え? 今なんて言った? ニホンヲデル? 新しい観光名所か何かか?
「おいまて麗奈、今なんて──」
麗奈は大きめのバッグを用意し素早く用意を済ませると、俺にチケットのようなものを渡した。
「はいこれ、航空券」
「……え?」
その後、俺は麗奈に身を流されるがままに日本を旅立った。
では問題です!(急展開)
前回とても好評だったのでこれからも掲載していこうと思います。
今回は初心者向けの問題を作ってきました。
ep1【金しか動かない世界】
この局面、後手に詰みがあります。
持ち駒は金3枚。さて、先手どうする?
難易度:8級
ヒント:5手詰め
麗奈「金の利きに注目するといいわ」
問題の答えは次の話にて!
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