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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
慈恩の章
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見捨てられた場所

 江戸の大都市化の歴史は、埋め立ての歴史でもある。

 神田山、千代田山といった丘陵が平らになるほど切り崩され、江戸城前面に広がる干潟を埋め立てる材料とされた。それで出来た平らな土地を『切土地きりどち』という。そこは、流入する人口を賄う市街地として整備される。

 日比谷入り江は、切土地から運び出された土砂によって埋め立てられ、そこもまた市街地として整備される。これを『盛土地もりどち』という。

 豊臣秀吉によって、当時は寒村にすぎなかった江戸に移封された徳川が、延々と繰り返してきた作業だ。

 市街化が進む神田の街を、三人の男が歩いていた。

 草深甚吾、露木玉三郎、瓦走りの権太である。

 依頼があった。

 伝言を届けるだけの簡単な仕事だと、甚吾専属の口入屋、土御門晴明は言っていた。

 依頼主は、無偏辺組の筆頭代貸、夜刀神。既に護衛の依頼を受けているが、これは別件だ。

 夜刀神は、配下の中小の博徒のうち、魚黙過うおもっか組に謀反の兆しを掴んでる。つい先日、彼らが放ったと思われる刺客に襲われたばかりでもある。

 その反撃をするつもりらしいが、甲州忍は風魔衆との暗闘の最中。そこで、甚吾らが単独で動くことになったというわけだ。

 魚黙過組も馬鹿じゃない。直接手を下せば、一家もろとも潰される。

 そこで、藪睨みの安二郎という子飼いの代貸を凶状持ちの破門にして、彼とその一派を使って無偏辺組を攻撃させたのである。

「藪睨みの安二郎とやら、先日の田舎剣客の雇い主でしょ? そこに伝言?」

 矢絣の着流し、金具つきの雪駄をつっかけた露木が刀を鞘ごと抜いて肩に担ぎながら言う。

「うん」

「うん……って、ただじゃ済まないでしょうに」

「だろうね」

 紋なしの暗灰色の袷に、裾の擦り切れた同色の野袴姿の甚吾が、上空を遊弋する鳶に目を細めながら、興味なさげな声で答えた。

 薄汚れた浪人と同じ姿だが、甚吾は不思議と不潔な感じはしない。

 欠伸をかみ殺した声からも判る様に、甚吾は基本的に無関心だ。

 そこが、露木にしても、権太にしても、心地が良い。

 露木は性癖ゆえ、権太はその容姿ゆえ、異端者の扱いを受けてきたのだから。

 甚吾にはそれがない。相手を『機能』としか見ていないのだ。


 工事が終わり、人足が立ち去った廃長屋が、駿河台という丘陵を削った跡地にある。

 そこは、もっこ担ぎが人足として不法に住み着いていたのだが、工事が一段落した関係で小屋を放置し、どこか別の現場に向かったらしい。

 その廃屋に住み着いたのが、河原者と呼ばれる何処にも属さない無法者。江戸の社会の仕組みからあぶれた連中だ。

「なにこれ、くさい」

 露木が香を焚きこんだ手拭いを鼻に当てる。

 何やら獣を煮込んだような臭気が漂い、日比谷入り江埋立地から流れる磯臭ささと混じって、悪臭となっている。

「皮をね、なめしているんだよ」

 甚吾は臭気が気にならないらしく、欠伸混じりに言う。早朝に起こされたので、機嫌が悪いらしい。

 後ろに続く権太も悪臭は気にしていないようだ。

 江戸の工事には、牛馬も使われる。過酷な労働に使い潰される事も多く、その死体は河原者やシデムシが引き取る。

 市民は獣肉を食べる習慣がないので、肉や内臓は彼等の食糧になり、皮は鞣されて業者が仲介者を通じて買い取る仕組みだった。獣肉は滋養強壮の薬という扱いである。

 道端で、大鍋を囲んで河原者が何かを煮込んでいた。

 盛大に脂が浮き、どろっとした赤茶色の液体だった。

「おえ」

 露木がえずく。

 ふっふと、甚吾が浅く笑った。

「根菜と牛馬の内臓を煮込んだ料理さ。慣れると、なかなかイケる」

「うそでしょ……」

 河原者が碗を差し出してくる。得体の知れない蜂の巣模様の肉塊が汁の中に見えた。

 甚吾がやんわりとそれを断った。

「博徒くずれの、安二郎っていうのを探しているんだがね。知らないかい?」

 道端で鍋を搔きまわす河原者の横にしゃがんで、甚吾が問う。

 脂が滴るおたまで、その河原者は無言のまま廃長屋の一角を指し示した。

「ありがとう。その串焼き、もらっていくよ」

 銭を置いて、火の近くに刺してあった串を一本取る。

 何かの内臓らしかった。

「お……お腹壊さない?」

「あ、これ? 多分、馬の腸だと思うけど、詰まっている糞をきれいに洗って、甘辛いタレで焼くと、旨いんだよ。山椒をかけてもいいね」

「おえ、無理ぃ」


 マシに見えた浪人たちだったが、全員斬られてしまった。

 暗殺の訓練を受けた六人組の連中だった。腕は立っていたと思う。

 魚黙過組の代貸として、「人を鑑定する」ことを任務としていたのだ。

 それゆえついた二つ名が『藪睨み』。博徒も浪人も『相』を見ればだいたい質が判る。

 博徒の抗争は、派手な出入り以外では、少数による闇討ちが殆どだ。

 信用できる凄腕用心棒が値千金というのは、それが理由。

 急に復活を遂げた無偏辺組は、それを理解していて、いち早く『粛清屋』の剣客を囲い込んだ。

 新任の代貸の夜刀神の差配だろう。

 貸元の紺護こんご和尚とやらの生臭坊主の底は知れていた。銭に汚いだけのボンクラだった。

 だが、夜刀神は違う。

 以前、定期総会に参加し、顔を見て分かった。あれは『王佐の相』だ。

 我欲を捨て、大きな者が成し遂げようとすることを、助ける人物の相。

 紺護などという俗物に仕えているわけではなかろう。暗闇の潜む巨大な何かだ。

 その正体が、分からない。危険だという事だけは、ひしひしと伝わって来ていた。

 博徒同士でいがみ合っている場合ではない。一致協力して無偏辺組を潰してしまわないと、大変なことになる。

 だから、幼馴染で親友でもある魚黙過組貸元の相良久三さがらきゅうぞうに申し出て組を抜け、暗殺に傾注していたのだ。

 六人組の剣士は、手始めだったが、江戸に流入する浪人の質の低下に驚いていた。

 以前は、義経神明流の島田兵衛や、六辻一刀流の前島左近といった、そこそこ名が売れている刺客がいたものだが、ふっつりと江戸から姿を消してしまっていた。

 血眼になって探したのが、裏の世界では、天下一という評判の山田月之介だったが、これもまた、姿を消してしまっていた。

 剣客の質が落ちたのだが、その中でも六人組はマシな方だったのだ。

 それが、あっさりと返り討ち遭ってしまった。

 仲介した口入屋は、『仕掛崩れ』の責任を取らされて親団体からの粛清を受け、江戸湾に浮かんだらしい。

 もう、大手の口入屋は、怖がって商売の相手をしてくれない。

 あとは、独立系の中小の口入屋しかないが、そこの質は、更に悪い。

 安二郎の胃がキリキリと痛んだ。

 腕に覚えがある浪人は、大阪での風雲を嗅ぎつけ、上方に集まっている。

 相州博徒、小田原金城一家も、無偏辺組との出入りでは、上方から浪人を集めたらしい。

 いっそ、江戸を離れて人材集めの旅に出ようかと、安二郎が思案していた時である。

かしら、胡乱な奴らがこっちに来ます」

 組を抜けた時、唯一帯同した若衆、美濃吉みのきちだ。

 気働きも出来、度胸も腕っぷしもある。

 行儀見習いを終えたら、幹部候補になる予定だったが、兄と慕う安二郎についてきてしまった。

「くそ、反撃が早い。夜刀神め、とぼけた顔しやがって、やはりクセ者だぞ」

 無計画に建て増しされた長屋は、まるで迷路のようになっており、安二郎はその地形を頭に叩き込んでいた。

「相手はバケモンだ。戦おうと思うな。逃げるぜ」

「承知しやした」

 銭の袋だけを懐に捻じ込んで、安二郎が裏庭に駆け込む。美濃吉が続く。

 板塀の一つが外れるようになっていて、そこを潜った。

 あとは、ひたすら想定された逃走路を走る。

「あ、安兄ぃ! 上を!」

 美濃吉が声を上げる。

 何事かと安二郎が目線を上げると、長屋の屋根の上を小柄な人影が走っているのが見えた。

 踏み抜いてしまいそうな板を乗せただけの屋根だが、身軽にそこを進んでいた。

 瓦走りの権太である。

「こんちくしょう」

 地面から石を拾って、美濃吉が投擲する。

 権太は、底光りする眼をひたと二人に据えたまま、ひょいとそれを躱した。

 安二郎の背中を冷たいものが走った。

 鼠じみた権太の異相もあいまって、まるで人外を相手ににているような気分にさせられていたのだ。

「くそ、くそ、逃走経路がバレた! 第二案でいくぞ」

「でも、あれは、あっしらも危険ですぜ」

「追いつかれれば、どうせ殺される」

 安二郎と美濃吉がぱっと方向転換する。

 権太が屋根伝いに追尾していた。

 不法占拠している神田の人足街の深部へと、向かっていった。


 江戸に流入する労働者は、無秩序に住居を形成し、それは、外へ外へと拡大してゆく。

 本来は、勝手な小屋掛けは禁止されているが、幕府の政都としての整備が喫緊の命題である現在の江戸では、黙認されている状況。

 まずは、輸送経路としての水路、豊富な湧水を誇る井之頭近辺からの上水道整備、増加する人口を賄うだけの土地の確保のための『切土地』『盛土地』の拡大、大型輸送船が入れる港の整備、兵糧としても重要な意味を持つ『塩』の確保のための行徳塩田からの輸送路の確保など、様々な土木事業が同時進行しているのだ。

 こうした土木工業系の事業だけではなく、周辺農地、漁業地からの安定供給のための仕組みづくりや、労働力確保のための人事管理、巨大な胃袋に変貌する江戸を賄うための新田開発など、事業は多岐に渡る。

 従って、治安維持は大阪方との対峙が続く現在、最低限の兵力しか江戸には置けず、その庇護は建設途中の江戸城とその近辺のみに限られていた。

 あとは、非公式な甲州忍のような傭兵が、大事になりそうな分子を排除して回っているに過ぎない。

 無法者が住み着く条件がそろっているというわけだ。

 ただし、七死党のように荒らし回りすぎれば、粛清の対象になる。

 甲州忍が取り上げないような、粗暴犯罪や暴行傷害事件は野放しで、江戸は物騒な街であった。

 その物騒な江戸でも、勤勉な労働者である人足がいれば、自主的な治安が保たれる。

 いわゆる『拳の法律』だ。

 その彼らさえ立ち去ってしまった後には、混沌だけが残る。

 見捨てられた街の深部ともなれば、なおさら。

 安二郎と美濃吉が逃げ込んだのは、そういった場所だ。


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