物見
「お登紀ちゃんは、甚さんには甘いねぇ。ホの字かえ?」
足をくじいたので、日雇いの仕事を休んでいる男が目ざとくその様子を見て、からかう。
「ば……馬鹿お言いじゃないよ。おほほ……いやねぇ、甚さん」
銭の入った袋を、前掛けから出して、スズキとアナゴを受け取る。
袋には五十文が入っていた。酒が二升買えるほどの銭だ。
「ありがとう」
丁寧に頭を下げて、甚吾が勝手口から去る。
お登紀は、その背中を上気した顔で見送っていた。
酔客がからかった通り、お登紀は甚吾を憎からず思っているらしい。
甚吾は得た銭のうち四文を使って豆腐を買った。
豆腐と焼いたハゼが今日の夕食になるらしい。
既に夕刻。
夕日が建設半ばの江戸の町を赤く染め、どこかの寺社から晩鐘が鳴る。
烏が鳴いて、ねぐらに帰ってゆく。
仕事を終えた職人や労働者が、夕餉を用意したり、一膳飯屋に向かったりしている。
江戸のカラっ風が竹林を揺らし、笹の葉がサラサラと音を立てていた。
甚吾は小名木川に沿って、家路につく。
小名木川は行徳(現在の千葉県行徳)の塩田と江戸を結ぶために作られた運河だった。
この運河を幹線として、縦横に運河が掘られ、浅瀬が多く船の往来が難しい江戸の流通を担う予定なのだった。
この運河切削の事業に従事している労働者の集落が、甚吾の住んでいる長屋だ。
河原を歩く甚吾の行く手に三人の人影があった。
昼間から酒を飲んでいるところを、猫足の三郎 に雇われたならず者たちだった。
釣果があると、どこの店に売りに行くか、売りに行った後、どの経路を通って帰るか、猫足の三郎は調べ上げていたのだった。
ならず者たちが、あのスゴ腕の月之介をして『殺してくれ』と頼むほどの甚吾に敵うはずはない。猫足の三郎はそう思っている。
だが、一度くらいは誰かを嗾けてみないと、甚吾の実力はわからない。
自分自身で実験台になるつもりは、猫足の三郎には毛頭ない。
『勝てるという確信が無い時以外は逃げる』
これが、師匠である 風の小太郎 に厳しく仕込まれた鉄則の一つだ。
そもそも 猫足の三郎 は、本職は盗人であって、殺し屋ではない。結果的に相手を『殺してしまう』ことはあっても『殺すために殺す』ことはめったにない。
だが、甚吾は殺す。
あの月之介が、依頼したのだ。
金を積まれたなら、断ったかもしれない。
だが、月之介は『私のために殺してくれないか?』と言ったのだ。
その瞬間、猫足の三郎 は痺れた。
月之介が持つ、圧倒的な『悪』に、猫足の三郎 の『悪』が反応したのだとしか思えない瞬間だった。
だから、打てる手はすべて打つ。
三人の悪党を差し向けたのは、手始めだ。
三人の姿を見ても、草深 甚吾 は特に気にしていない様だった。
歩みも変えない。
三人を見る事すらしなかった。まるで、彼らが存在していないかの様に。
だが、草むらに隠れて見守る、猫足の三郎 は、月之介と対峙した時の様なひりひりとした危険信号を肌で感じとっていた。
「こいつは……」
思わずつぶやく。こいつは、月之介並みに危険な男だ。
自分なら、この時点で逃げる。猫足の三郎は、そう思っていた。
危険に関する察知能力は、生まれつきのものだ。そしてそれによって、今まで生き残ってこれたのだ。
しかし、三人のならず者には、そうした触覚は備わっていないらしい。
懐に忍ばせた短刀を握りしめ、ぶらぶらと甚吾の方に歩み寄ってゆく。
殺気を隠すといった芸当は出来ないようだった。
殺気は、放つより隠す方が難しい。




