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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
慈恩の章
88/97

雲流れて

 初夏。荒川の畔。

 遠くで護岸工事の槌音がしている。

 ヒバリがやかましく鳴きながら飛び、ツバメがすいっと視界を横切る。

 風が爽やかに、葦の葉をサラサラと揺らして吹き渡る。

 蓆を敷いて、通口 定正 が陽だまりにまどろむ。

 普段は気が付かないが、こうして眠っていると、衰えが目立った。

 眼は落ち窪み、頬は削げ、顔色は悪い。

 胸が上下しているので、生きているのだと判るが、一見するとまるで野晒の仏だ。

 長身を折り曲げるようにして土鍋で白飯を炊いているのは、平良 宗重。

 石を積み上げて簡易な竈を作り、そこに木端をくべつつ飯を炊いている。

 乾物屋で仕入れた昆布、叩けばキンキンと金属音がする上等な木炭が土鍋の中に入っていた。

 食が細くなってしまった 通口 定正 のため、少しでも食欲が湧くように工夫しているのだ。

 鰻を捕まえてきた 勇魚 は、高価なザラメ砂糖を惜しみなく使い、醤油と澄み酒と鰻の頭を煮詰めたタレを作りながら、奉書紙で作った蒸籠を使い、串を打った身を蒸していた。

 内臓が悪い出来物に食い荒らされる病気になった 通口 定正 は脂を受け付けない体になってしまっていた。だから、蒸して余分な脂を落としているのである。

 飯が炊きあがった。

 平良が、昆布と木炭を取り出して白飯をさっくりと混ぜ、布巾を土鍋の蓋に挟んで蒸らす。

 炊き立ての飯の甘い臭いがふわっと小さな雲の様に湧き立つ。

 勇魚が、空いた竈に金網を乗せ、炭を足して蒸し上げた鰻を焼く。

 ザラメ砂糖と醤油と煮切酒で作ったタレに浸しながら、じっくりと焼いてゆく。

 タレと脂が混じった汁が真っ赤に焼けた炭の上に落ち、ジュウジュウと音を立てて煙が上がった。

 甘く香ばしく食欲を誘う匂いだ。

 何度もタレに漬け込み、丁寧に焼く。

 団扇で煽いで火勢を調整しながら、勇魚 が難問を解く学者のような顔つきで焼く。

「どんぶりに飯を盛ってくれ」

 頃は良しと見たか、勇魚が平良に指事を出す。

「了解です」

 平良が蒸らし終わった土鍋をの蓋をあけた。

 つやつやとした白米。

 雑穀混じりの飯しか食べられない庶民から見れば、贅沢品だ。

 そのどんぶりに焼き上げた鰻を乗せる。

 タレをたっぷりかけ回し、粉山椒をぱらり。山椒の葉を一片。

 香気が逃げないように、どんぶりに蓋をする。

「肝は一つしかないから、これは、師匠のだからな。俺らは、吸い物だけだぞ」

「無念です」

 上品な潮汁に三つ葉。

 鰻のヒレと肝で出汁をとった汁だった。

「いい匂いがするな」

 いつの間にか通口が目を開けていて、いそいそと支度する勇魚と平良を見ていた。

「だろ? だろ? 初夏の鰻だぜ、師匠」

 小さな箱膳にどんぶりと漆塗りのお椀。浅く漬けた小茄子が添えられている。

「師匠の為に、色々と工夫したみたいですよ」

 微笑を刻みながら、平良が言う。

 やめろ! とでも言う様に、勇魚が照れながら平良を叩いた。

「そうか、ありがとうよ。遠慮なく頂くぜ」

 お椀の蓋を取り、次いでどんぶりの蓋を取った。

 ふわっと、甘いタレの香りと、山椒の香りが立つ。

「いい匂いだな、腹が鳴る」

 両手拝みをして、通口がお椀を手にする。

「旨い、旨いな」

 一口すすって、通口が顔を綻ばせた。

 褒められた猟犬のような顔をして、勇魚が笑う。もしも尾がついていたら、千切れんばかりに振っていただろう。

「肝を食えよぅ。師匠だけ特別だぜぇ」

 通口が微苦笑を浮かべて、今度はどんぶりに手を伸ばした。

 一口大に鰻を千切る。

 箸でほろりと切れる柔らかさだった。

 飯と一緒にそれを口に運ぶ。

 蒸して脂を落としているので、しつこくなく、タレの甘みの中に身の滋味だけが濃縮されてるかのよう様だった。

 焼けた香ばしさ。ぶっくらとした鰻の身が、艶やかに炊き上げた飯と混じって、まさに『口福』だ。

 今度は、大きめに千切って、タレと混ぜて飯を搔きこむ。

 粉山椒が濃厚なタレの味に慣れた舌を、さっぱりと洗い流して、また味わいを楽しめるようになる。

 いつもは、石が詰まったような胃が、本来の働きをしているかのように、通口は感じていた。

 久しぶりに食欲を見せる通口を見て、勇魚と平良が顔を見合わせて安堵の笑みを浮かべる。

 一刻以上もかけて準備した甲斐があったというものだ。

 そして、両手拝みをして、やっと自分たちのどんぶりに手を付ける。

「鰻は栄養があるんだ。師匠の病だって、きっと……」

 勇魚のつぶやきに、平良がうんうんと頷いていた。

 晴天に雲が流れてゆく。



 朽縄くちなわ五郎左ごろうざは、密かな焦りを感じていた。

 博徒の本場、上州赤城の大手、赤光一家から江戸に拠点を作れと、貸元の 赤城山あかぎやま 光三郎こうざぶろう に直々に命じられるほど信用されている男で、有能だった。

 有能だからこそ、わかる。

 江戸土着の田舎博徒の無遍辺むべんべ組と相州博徒の金城一家が意地をかけて激突し、その結果双方が『男を上げた』状態になったのである。

 出足は良かった。

「江戸から遠征してきた無偏辺組を赤光一家が犠牲を払って撃退した」

 事実があり、それを美談に仕立てて『男を上げた』のである。

 その結果、上州博徒勢は赤光一家がまとめ役になり、江戸の勢力図を塗り替えることが出来たのである。

 が、その後に目立った活躍が出来なかったのが痛い。

 テコ入れで、上州では知らぬ者がいない凄腕の用心棒 通口 とその郎党が江戸に着任たのを宣伝して上州博徒勢の内部を引き締めたが、次の策が次々と潰されてしまうのだ。

 大きな勢力である相州博徒との直接対決は避けたいので、自然と標的は、田舎博徒の無遍辺組となるわけだが、まるで人が変わった様に手強くなっていた。

 入り込ませていた密偵は悉く討たれ、逆にこっちが虚報に踊らされる始末。

 それに、通口が病に侵されていたのも計算外だった。

 まだ、ごく内輪にしか発覚していないが、これが表沙汰になれば、江戸における赤光一家の求心力は失われてしまう。

「何か手を打たなければ」

 無偏辺組の武威を削る。そのためには、そこの用心棒を討つのが手っ取り早いのだが、これが、手強いときている。

 なんでも、相州小田原金城一家の凄腕用心棒『豺狼』とかいう剣士に手傷を負わせたとか。

「ええい、ちくしょう。くたばる前に、無偏辺組の用心棒くらいは、討ってもらえんものか」

 自分の配下なら命令できる。だが、通口はあくまでも客分。「行って来い」と蹴り出すわけにもいかない。

 苛立ちながら、五郎左が隣室に声をかける。

 すっと襖があいて、膝行してきたのは、艶やかな紅色の襦袢を着た美少女だった。

 名前をお志摩という。

 江戸の郊外、野田の百姓の娘だったが借金のカタに預かっていた。

 この屋敷に監禁したまま、ずっと慰み者にしていたのだが、五郎左の体にも性癖にも慣れ、愛着が湧いてきた娘でもある。武家屋敷にも行儀見習いに奉公したこともあり、読み書きができるのも便利だった。

 逃亡を防ぐため、肌が透ける薄絹の襦袢しか彼女には与えられない。

 ここに監禁されてもう一年近くになるが、未だに羞恥心があるのも気に入っていた。

「貸元に文を書いてもらう」

 無遠慮に肢体を見られて、わずかに身じろぎするお志摩を、乱暴に引き寄せながら言う。

「あい」

 頬を羞恥に桜色に染めて、お志摩が五郎左の胸にしなだれかかった。

 牛の乳を希釈したような体臭がする。それも五郎左の好みである。

「だが、その前に……」

 五郎左の手が、そろりとお志摩の内腿を撫でた。

「あ、あ……」

 お志摩が蕩けた顔で、ため息を漏らす。

『苛立ちを吐き出すには、言いなりになる女がいい』

 そんな、ゲスな事を考えながら、お志摩を責苛む作業に五郎左は没頭していった。


 左手を握ったり伸ばしたりしながら、斎藤さいとう 刀哉とうや が中庭に立った。

 相州小田原金城一家の江戸の拠点である目黒の寺社群れの中。

 廃寺の一つが、刀哉の宿坊としてあてがわれていた。

 そこには、風魔忍のムササビと、その一党も住んでいる。実行部隊が住まう兵舎のようなものだ。

「どうですかい?」

 ムクロジで爪楊枝を削りながら、ムササビが刀哉に言う。

 彼は金創医の心得もあり、甚吾に深々と斬られた刀哉の左腕を縫ったのだった。

「やはり、以前の感覚は戻らん」

 傷は膿むことなく抜糸することが出来たが、握力も筋力も落ちてしまった。

「腕を動かすスジみたいなものがあって、そこを斬られてしまったのでしょう。そこを縫い合わせる施術もあるんでしょうが、あたしには無理だ」

 ムササビが、すまなそうに刀哉に頭を下げる。

「なんの、膿まなかっただけで大助かりだ。腐ってしまって、結局切り落とす羽目になることもある」

 傷口が腐ると、そこが毒を帯びるようになり、皮膚にも肉にも腐れが広がる。

 毒が血流に乗って全身に回れば死ぬ。

「斎藤さんの剣術に影響が出るんじゃないですかい?」

「右腕が残っている。工夫の仕様もある」

 片手斬り。それが、刀哉の頭の中にあった。

 あの魔性の剣、深甚流と対峙した時、左腕を負傷し、咄嗟に片手上段に構えた。

 剣の精度、威力、それを犠牲にして、速度にのみ特化するのはどうだろうか? と、思っていたのだった。

「あれは、人外の類ですぜ」

 ぶるっと身を震わせながら、ムササビが言う。

 草深甚吾の剣を彼は見ていた。

 あの斎藤刀哉をして、いつの間にか斬られているという不可思議な現象を見たのだ。

 未だに何がどうなったのか、ムササビには理解できていない。

「うむ、全くだ。値上げ交渉するしかあるまい。次は斬られるかも知れんからな」

「斎藤刀哉ともあろうものが、まさか」

「わからん。それが剣術というものだ」


 相州小田原の金城一家代貸、ほとけ三之丞さんのじょうは、今回のでいりで入手した、

「無偏辺組は、徳川の息がかかっている」

 ……という貴重な情報をどう生かすべきか、考えていた。

 少なくとも、もう無偏辺組と事を構える気は無くなった。無偏辺組ではなく金城一家を便利に使ってほしい。そこに利権の匂いがする。甘く。濃く。

 無偏辺組の強みは何かと考えると、剽悍な甲州忍の存在に尽きる。

 こっちも風魔忍を雇っているが、風魔は伝統的に織田・豊臣と時の権力者に逆らってきた経緯があり、武田の残党を多く抱えている徳川とも相性が良くない。

 風魔を切るという選択肢もあるが、簡単に切れないほど共依存の関係は深い。

「やはり、甲州忍を弱体化させるしかない」

 甲州忍とて、武田家滅亡後は関八州を荒らしまわった盗賊みたいなもの。

 たまたま権力者についているだけで、それが風魔忍に後押しされた金城一にとって変わってもいいはずだ。

 そのためには、無偏辺組の『強み』の一つである、草深甚吾とかいう専属用心棒を斬る。

 こっちの駒である斎藤刀哉を、再度当てるしかなさそうだ。

 無偏辺組とは表立って対立はしない。だが、暗殺はする。

 普段は恵比寿様のような三之丞の顔が悪鬼の如く歪む。

 いかに、こっちが『使える』か、正体不明の現場指揮官み見せる。

 凋落の小田原金城一家を救うのは、自分しかいないと、ひとりごちる。 




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