奇剣 馬庭念流
腹部を中心に激しい痛みがあった。
それが、今は断続的に襲ってくる。
間隔は次第に短く、痛みは更に深くなってゆく。
これは肉体の中に肉体を喰らう組織が出来る病なのだということを、堺に居た蘭学者に通口定正は聞いた。治療法はなく、余命は一年ないということも。
その言葉のとおりなら、間もなく寿命は切れる。だが、まだ生きていた。
目立った肉体の衰えはない。
「眠りが極端に浅くなったことと、疲れが溜まりやすくなったことぐらいか」
……と、ひとりごちる。死ぬのは怖くない。数えきれないほど、殺し合いをしてきた。その度に死の覚悟を定める。「何を今さら」という気がしていた。
江戸の朝。
浅草寺に近い宿坊を拠点とする『赤光一家』で、朝の勤行の鐘を聴くのが、新しい定正の習慣であった。
宿坊の中庭で抜刀する。
腹部の痛みが、この一時だけ消えた。
重心が低く、後ろ足に極端に体重をかけたベタ足に構える。刀は身を守るように人中線に沿って立てる。
剣術では「悪手」とされる、一見へっぴり腰な構だが、これが馬庭念流の基本的な構だ。
遠く離れた鐘楼で、坊主が鐘を突こうとしているのを定正は肌で感じていた。
鐘が鳴る。
音は波。目に見えぬ波濤が、自分に迫るのを定正は『観て』いた。
低い姿勢から、体を伸び上げるように一刀を振るう。
裂帛の気合いが迸り、殷々たる鐘音を断ったような気がした。
残心、そして納刀。ふぅと息を定正はついた。
気を抜いた瞬間、痛みが襲ってきて、どっと脂汗が浮かぶ。
死ぬのは別にかまわない。だが、何のために生まれてきたのかという思いがある。
剣の魔人 草深 甚四郎 に、殺しだけを教わって育った。
実力が認められて、廻国修行に出た。
旅から旅へ。
南の果ての島まで行った。
どこまでも続く砂丘を歩いた。
満天の星を眺めた。
肌の色が黒い大男を見た。
生意気な南蛮人と会った。
雲を眼下に見下ろす山にも登った。
荒れ狂う海を越えた。
そんな旅を続けているうちに、定正の胸に芽生えたのは……
「世界は広くて素晴らしい」
……と、いう感慨だ。
京都の有名な鞘師に鶴が翼を広げた図案の朱鞘を作らせたのは、鶴は遥か海を越えて旅をすると聞いたからなのだった。
いつしか『甚四郎を斬る』など、些末事のように定正は思っていた。
友人であった 月之介 や 勢 には、同じ思いを抱いて欲しかったのだが、結局二人は甚四郎の幻影に負けた。呪縛を断ち切ることが出来なかったらしい。
可哀想だと定正は思っていた。月之介 も 勢も。そして、彼らを斬った 甚吾 とかいう男も。
―― 自分の時間は残り少ない
その自覚が、定正にはある。ならば、命の絞り滓は、甚四郎の呪縛の囚われている者を解放することに傾注すべきだと決心を固めていた。だからこその江戸行だ。
「甚吾を……いや、甚四郎の幻影を斬る。それが、俺の生まれた意義」
無偏辺組を罠にかけた金城一家の仕掛けは、それほど効果を上げなかった。
だが、無偏辺組は「金城一家に痛打を与えた」と宣伝し、金城一家は「無偏辺組の襲撃を撃退した」と吹聴して体面を保つ。
実態は、雇った浪人と、一度は無偏辺組を裏切った博徒の三下が死んだだけ。
金城一家側から見ると、多少の出費があったが、無偏辺組の背後に甲州忍がいることが判明したのが大きい。甲州忍は現在徳川の治安維持部隊だ。無偏辺組の急な復活の裏に、次期政権を担う徳川の影がちらついているという情報は、まさに値千金。
まだ、金城一家の競合組織で「無偏辺組は、徳川の意向で動いている」という事に気が付いている組織はない。江戸金城一家を任された代貸仏の三之丞は、その仇名が似つかわしくない悪相で、沈思黙考した。
「田舎博徒と侮っていたが、認識を改めないといかん」
賭博は庶民の手慰み。必要悪であると 三之丞 は思っている。それを、征夷代将軍に任命されようとしている天下人が把握しようとする意味は?
想像より、大きな陰謀が動いている気がして、ぶるっと三之丞は体を震わせた。
甲州忍のことは知っている。残虐で剽悍。荒っぽい連中だ。
「だが、徳川ならなぜ伊賀、甲賀を使わない?」
そこに違和感がある。ひょっとすると……
「徳川の中に居る誰かの独断ではないのか?」
掌に包み込んだ茶碗から、三之丞がぞぶりと抹茶を煽った。
脳天が痺れるほど濃くて渋い茶だが、思考は冴える。いつも何かを考える時は、これを飲む。
不自然な無偏辺組の復活。田舎博徒から先鋭的な武闘派への様変わり。決裁権を握る誰かの影がちらつく。そこに、銭の匂いがした。
「我々、金城一家が、甲州忍のゴロツキどもより、使いやすいと知れたら?」
普段は隠している悪相に、にんまりとした笑みが浮かぶ。
三之丞は銭の匂いに敏感だった。だからこそ、代貸にまで出世し、これから大きな市場になる江戸を任されたのだ。そして、どんな汚い手でも使う。
『他の組織に今回得た情報を共有して、共同戦線を張る』
……という案は、三之丞の頭の中で却下された。抜け駆けをする者だけが、この世界では生き残るものだ。
抹茶を飲み干し、ムササビを呼ぶ。
江戸金城一家の方針が定まっていた。
無偏辺組の三番代貸を演じる 蕪 九兵衛 の祐筆兼監視役の 桜井 平八郎 が、槌音が響く河川敷にいた。
ここは、荒川。荒れるからその名がついた川である。
巨大都市に変貌する予定の江戸では、護岸などの土木工事が急務であり、土地の区画整理なども行われている。
じめじめした梅雨が明け、空にはツバメが飛んでいる。
浪人者の両腕を斬り飛ばしたのは、ほんの一週間前。
『ここを、こう斬ろう』
などといった思考は湧かなかった。まるで、体が勝手に動いたかのようだった。
そこが、日々の鍛練と違う。
無偏辺組の本拠地である、亀戸の寺には、博徒を鍛えるための鍛錬場が造られている。
そこでは、荒事担当の三下である『張番』などが、剣術の真似事などをしていた。
気が付いたのは、相手の動きが以前より観えるということ。
闘志をむき出しにするのではなく、斬撃を送る瞬間に気も力も籠めるようになっていた。
以前は奥山神影流免許皆伝という噂を聞いて、 平八郎 教えを乞う博徒もいた。
平八郎 も気軽に応じ、打ち合ったりしていたのだ。
だが、平八郎 の剣の『質』が変わってしまっていた。
相手は気が付けば昏倒している……という状況なので、訓練をした気にならないらしい。
それに、「怖い」と言われるようになっていた。「まるで、本当に斬られたかのようだ」とも。
―― 確かに私は、相手を斬るつもりで対峙している
カツンと骨を断つ感触が、手から消えない。
嫌悪なのかと思ったが、違う。
快感なのだと、平八郎 は気が付いて愕然としていたのである。
口に咥えていた葦の葉をぷっと吐き出す。
それを抜き打ちに斬る。
音もなく、葉が両断された。
秀麗な 平八郎 の顔に笑みが浮かぶ。
「これこそ『力』である」
ひとりごちてパンパンと袴を払い、どこかに消えた九兵衛を追う作業に戻る。
彼が自分を信用していないことに、平八郎 は気が付いている。だが、命じられた任務だ。
任務をこなしてゆく果てに、やはり『力』は眠っているのだ。
川に沈めた、竹筒を 勇魚 が、引き上げる。
刀身が『れいぴあ』という南蛮剣になっている異形の大太刀と、ごつい籠手は河原に置いてある。
端折るのが面倒くさいということで、童のような短い小袖を着て股引すら穿かずに脚をむき出しにしていた。定正の真似をして革製の脚絆と草履が一体化したような『ぶうつ』を近頃は愛用している。
その『ぶうつ』も河原に置いてある。
ざぶざぶと川に入った 勇魚 の腰には妙に幅広の鎧貫が無造作に差しているだけ。
流れに沈めた魚籠にその竹筒をあけると、ずろりと長細い物が流れ出た。
「かかっていやがったか」
へへっと、勇魚 が笑う。こうしていると、まるで少年のようだった。
長細い物は鰻だった。今の時期、海から汽水域に産卵に遡上してくる習性がある。
「わっぱ。ここは、俺らの縄張りだぁ」
葦の間から、三人ほどの男が出てくる。
「その獲物と刀、おいてけ」
荒んだ顔つきの男たちだった。
社会に馴染めず、逃散した百姓やならず者の集団である。
これを『河原者』という。河原は一種の治外法権であり、浮浪者や脛に傷を持つ者も多く存在していたのである。
「おまえら、めんどくせぇ。去れ、去れ」
面倒臭そうに、勇魚 が言う。まるで蠅でも追い払うような仕草もつけて。
子供と見て侮っていた『河原者』の顔つきが変わる。
「よくみりゃ、めんこいじゃなねぇか。ケツメドぶち抜いてやるぜ」
そう言いながら『河原者』が懐から短刀を抜く。
異形の混血剣まで走る暇はなさそうだが、勇魚 はやれやれと肩を竦めただけだった。
「ああ、分かった。おまえらクズだな。殺すぜ」
勇魚 が腰の鎧貫を抜く。
それは、剣身の峰が櫛の様に歯が立った奇妙な剣だった。
「こいつは『そうどぶれいか』ってんだぜ。『れいぴあ』と二刀流で使うのよ。まぁ、おまえらは、これ一本で十分だがな」
勇魚 が極端な右半身になる。
峰が櫛状になった『そうどぶれいか』は左手に持って頭上に。『れいぴあ』がないので、右手はぶらりと下げていた。
「来な。ぶっ殺してやるぜ」




