噛合う獣
うまれつき目が見えぬ 鈴音であるが、不思議と月光は感じ取ることが出来た。
滅びた相州の豪族、月夜野家最後の一人となった少女、盲目の美姫が 鈴音 である。
母親の 凛は、音に聞こえた美女だったが、まだ七歳である 鈴音 にもその片鱗があった。
寝間着に着替え、窓に寄り掛かって夜風を浴びていると、降り注ぐ月の光を肌が感じる。
「今日は、なぜか胸が騒ぐ……」
つぶやいて、鈴音 が自分の身を抱きしめる。
先日、月夜野家に残されたたった一人の家臣 斎藤 刀哉 と引合された。
刀哉 は、鈴音 の母の幼馴染だったらしい。
今は、小田原金城一家の用心棒になることで、金を稼ごうとしていた。鈴音 をどこかに嫁がせる時の持参金にするためだ。
つまり彼女は仕事が満了するまでの人質というわけだった。
監視役の白粉臭い女は意地悪で、内腿や二の腕といった、目立たない場所を抓って折檻してくる。
膝の上のうつ伏せに横たえさせられ、尻を打擲させることもあった。
鈴音は泣かない。
哀願も悲鳴も上げない。
それが生意気だと、ますます虐待された。
食事も頻繁に抜かれたりする。
辛いが、望まぬ人斬りを強要される 刀哉 の事を思うと、耐えることは出来た。
…… きっと、今、彼は戦場にいる
生まれつき、身に備わっていない視力の代償なのか、鈴音 は異様なほど直感が鋭い。
そして、未来を予測する奇妙な感覚があった。
特に 刀哉 の事は、まるで 鈴音 の魂魄が彼に寄り添っているかのごとく。
少女の胸には 刀哉 への仄かな恋心があった。
幼いなりに真剣なものである。
月に祈る。
『どうか、刀哉 が無事でありますように』 と……。
鈴音 が祈りを捧げている月と同じ月が、神奈川宿に近い滝野川原にも冷たい光を降らせていた。
怒号。
悲鳴。
鉄砲を放つ鋭い音。
鋼同士が打ち合う響き。
刀哉 にとっては、耳に慣れた戦場の音楽だった。
駆ける。ただ、駆ける。
戦場では、足を止めたら死ぬ。これも、刀哉 の経験則から導き出された 戦場 の習いである。
あの 甚吾 の間合に一瞬の迷いもなく、刀哉 が飛び込む。
同時に、肩に担いだ剛刀をぶん投げるように振るう。
荒々しい一撃だが、不思議と敵はその刃の軌跡に吸い込まれるようにして斬られる。
刀哉 が振るうは、愛州移香流。
別名、愛州陰ノ流。あるいは単に陰流とも。
ここで言う『陰』とは心の内のこと。
相手の行動の先を読み、不可避の一撃を放つのを深奥とする流派だった。
戦場で叩き上げた 刀哉 の太刀行は早い。そして、未来予測の精度は高い。
事実、回避行動を起こした 甚吾 に刃の軌跡が重なろうとしている。
避けようとした先に白刃が迫る。大概の者は動揺し、体に余計な力が入るものだ。そこを斬られる。
だが、甚吾 は違った。
ゆらりと剣風に押されたように上体を逸らし、刀哉 の必殺の一撃を躱してしまった。
しかも、刀身を見ることもしない。
鋼が激突する鋭い音。
振り切った剛刀を、刀哉 が素早く引き戻したのである。
甚吾 の回避行動は、斬撃の動作を兼ねる。これが、『無拍子』。
深甚流が、「いつの間にか斬られている」……と、評される所以。
刀哉 は、その『無拍子』で掬い上げるようにして斬ってきた一撃を、直感のみで弾いた。思考を経由していたら、斬られていただろう。
狼と鬼が馳せ違う。一瞬からみあった互いの刀身が擦れて、ギャリギャリと耳障りな音を立てた。
二歩走って同時に向き直る。互いに中段正眼。
甚吾 にせよ、刀哉 にせよ、守りの構えは極めて珍しいことだった。
微笑を刻んでいた、甚吾 の特徴の無い顔から、能面の様に表情が抜け落ちてゆく。底光りする眼だけが、まっすぐ 刀哉 を見ていた。
獰猛な笑みを、刀哉 は更に深くした。
敵が強ければ強いほど、笑みは深くなる。まるで、狼が赤い舌を垂らして笑うかの如く。ゆえに『豺狼』と呼ばれているのである。
一足一刀の間合い。
二人のその空間が、音を立てて凍りつく。
刀哉 が、地面に足裏を抉る。
まるで、雲が湧き立つように、刀哉 の刀身が上へと流れた。
やがて大きく高い上段へ。胴も下半身もまるで守る気はない構え。
その切先が、獲物を狙う狼の尾を思わせて、ゆらゆらと揺れた。
これぞ愛州移香流を基に、刀哉 が工夫した一手、『上段雷刀』。
精密な未来予測、神速の太刀行。それを最大限に生かした工夫である。
対して、甚吾 は、刀身の重みに耐えきれないかのように、すうぅっと切先を下向させた。
その切先が地面に触れるか触れないかという瞬間に、鍔音を鳴らして刃が上向きに返る。
これは、甚吾 が好んで使う変則的な構え『下段霞』。
これもまた、防御を考えていない構えであった。
そして、刀哉 から視線を外して、俯く。魔剣・深甚流の奥義『虚』だ。
―― やりにくい相手だ
目の運び、筋肉の動き、そして呼吸。そうした事柄から、総合的に判断して、未来の位置を予測する。
それが、愛州移香流。
相手の動きに応じて機動する、いわゆる『後の先』を専らとするうえ、目線すら動かさない 甚吾 とは、相性が悪いと、刀哉 は感じていた。
―― だが、退けぬ
目の前の男は、金城一家が指定してきた斬るべき百人のうちの一人。
こいつを斬らないと賞金が手に入らない。
賞金がないと、凛 の忘れ形見 鈴音 の輿入れ先を見つけることが出来ない。
―― 月夜野家の守護武神と謳われながら、誰も守る事が出来なかった
惚れた女も、尊敬できる主も、友も。
自分には、もう生きる価値がない。
だから今は、眼に障害を持った不憫な少女、鈴音 の幸せのためだけに生きている。
―― いや、縋っているという方が近いか
じりっと間合いを詰める。
「これで、刀哉 が、何処にいるかわかるでしょう?」
そういって、小さな鈴を 鈴音 は渡してくれた。
―― あの鈴はどこに仕舞ったのだっけ?
多くの人を斬った。
金城一家に命じられるまま、子供も、女も、老人も。
中には、斬っても心が痛まないような悪党もいたが、なぜ斬られなければならないのか、理解できない者もいた。
心が死ぬ。こんなことを繰り返しているうちに、心が死んでしまっていた。
大事な鈴の事も思い出せないほど。
甚吾 の輪郭がぼやけ、影法師がゆらゆらと動く。この影法師こそ『未来予測』。
ほろりと、『上段雷刀』が落ちた。
そのまま刃が走って影法師を斬る。甚吾 の輪郭が影法師に重なった。
手に衝撃。
刀身が何かに当たった感触。
―― 違う!
これは、肉を断つ感触ではない。
もしも、ここに 露木 玉三郎 がいたなら、曽呂利衆の若き指揮官、泉 清麿 が使った刃の軌道を変える刀法『浮き草』であると分かっただろう。
刀哉 が放った神速の斬撃を、甚吾 は、斜めに擦り上げていたのである。
ぐらりと 刀哉 の体が崩れた。
重い 刀哉 の一撃を弾いた 甚吾 の体勢も崩れている。
刀哉 は無理に体勢を立て直そうとせず、そのまま地面に転ぶ。
転びながら、横殴りに片手斬りを送った。
甚吾 が跳ぶ。その跳ぶ動作は、斬撃の動作を兼ねていた。
刀身の激突の残響に、剣風が重なる。
月光にギラリと刀身が煌めいた。
片手をついて、刀哉 が地面から跳ね起きる。
そして、刀は高く上段へ。
ただし、左手はだらりと下げたまま。
大量の血が、その左手から地面にぼたぼたと落滴していた。
跳んだ 甚吾 が着地と同時に振り返る。
表情のない 甚吾 の頬に朱線が走り、ぷつぷつと血玉が浮かび、頬を流れてゆく。
互いに切先は届いていた。
だが、刀哉 の方が深手だった。
『下段霞』のまま、甚吾 が、ゆらり、ゆらりと、間合いを詰める。
その時、甲高い笛が鳴った。
水車小屋周辺は、浪人者と三下が入り混じった乱戦になっていて、それを見た 九兵衛 が合図を送ったのだ。
紐状に束ねられた火薬が、九兵衛 の懐からこぼれながら伸びてゆく。
倍する風魔衆に必死の防戦を繰り返していた甲州忍も、踵を返して三下と浪人たちの乱戦の中に駆け込んでいった。
九兵衛 が伸ばした紐に火が点けられる。
小さくパンパンと弾けながら、白い煙が漂う。
それは、風に乗って狭霧のように戦場に流れた。
わずかに視界が悪くなる。
甲州忍が、乱戦の中に混じっていった。
三下を盾にし、三下の陰に隠れ、三下を突き飛ばして隙を作り、浪人たちを仕留めてゆく。
火薬の白煙に、風魔衆は一歩遅れた。
火術の罠を警戒したのだ。
混乱して動く人ごみを隠れ蓑にして遁走する術を、甲州忍では『霞の陣』という。
九兵衛 が仕掛けたのはこれだった。
この術が効果的に作用するためには、乱戦の状態が必要だった。
三下を追い立てていたのは、それが理由。
甚吾 が一歩、また一歩と下がってゆく。
そうして白い煙に埋没するように消える様は、まるで幽鬼のようだった。
甚吾 の頬に流れる血だけが、微かに赤く白煙に浮かび、消えてゆく。
片手で『上段雷刀』の構えをとっていた 刀哉 が、その場でどっかと座る。
血を失いすぎた。立っているのが辛かったのだ。
手拭いを割いて、細引きを作り、裂かれた左手上腕部を縛って止血した。
傷は浅いが、縦に長く受傷した。
何本か、血管が切れたらしく、派手に出血している。
「あまり、打撃は与えられませんでしたね」
地面に座った 刀哉 の傍らに立ったのは、今回の作戦を指揮したムササビだった。
静かになったなった戦場を見る。
白煙が晴れた後、倒れているのは三下と浪人ばかり。
無偏辺組の博徒の死体は無かった。
「収穫はありましたよ。奴ら、甲州忍で確定です」
被害を最小限にするために、『霞の陣』を使った。それで正体は知れた。
「アレは、バケモノだぞ」
賞金首 草深 甚吾 と立合った。
不気味でねちっこい剣。愛州移香流とも相性が悪い。
だが、斬れぬ相手ではないという印象を、刀哉 は持った。
「生きてりゃ、何度でもやれまさ」
ムササビが腰の巾着から、金創薬を取り出して、応急手当をする。
「あとで、ちゃんと縫います。あたしは金創医でもあるんですぜ」
刀を杖に、刀哉 が立つ。
「負けたな」
「負けましたね」
ふふんと 刀哉 が笑った。




