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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
慈恩の章
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鈴の音は風に

 北条氏の拠点となった小田原は、天然の良港だった。

 江戸が開発されるまで、関東随一の大都会であり、商船が行き交う港湾都市でもあった。

 荒れる太平洋。

 耐波性能が低い船は、海が凪ぐのを港で待つことがあった。

 また、季節によっては風が一定方向に吹くことがあり、これが順転するのを待つことがある。

 風に向かって『詰め開き』という風上に向かって葛篭折つづらおれに進む方法があるが、大きな労力が必要になるので、船長がそれを避けるということもある。

 これを『風待ち』という。

 当時、風待ちの船員を相手取った遊女街が大きな港町には存在していた。

 船底の板の下一枚は死。

 それゆえ彼らは、酒を飲むにも、女を買うにも、博打を打つにも、船員は金離れが良いので、いわゆる『太客ふときゃく』なのだった。

 京都へ線香を出荷するための問屋街があり、そこは『抹香町』と呼称されている。

 抹香町に隣接して遊廓があり、いつしか小田原の遊郭は『抹香町』と呼ばれるようになった。

 そこでけん競っていた売れっ娘に『なぎ』という娘がいた。

 船員にとって縁起がいい名前であること、甘え上手だったことから、小田原の博徒の貸元の一人、金城一家の寅蔵とらぞうの眼にとまる。

 気に入られて身請けされ、小田原の暗部を仕切る大物の寵愛を受け、凪は贅沢三昧にふけっていたのだった。

 その凪も、三十路にさしかかる大年増になると寅蔵の寵愛も陰る。

 新しい愛人たちに、嫉妬の感情をむき出しにするところが疎んじられて……


 『大事な客人の世話係』


 ……と、言う名目で、江戸に事実上の放逐となってしまった。

 月夜野一族の忘れ形見にして人質である 鈴音すずね を連れていた婀娜な女が凪だった。

 かつて、小田原一の売れっ娘だった誇りがある。

 なのでこの扱いは狂いそうなほど屈辱だった。

 新しい寅蔵の愛人も、凪は気に入らない。

 どこかの百姓の娘で、地味な顔立ち。

 書画も嗜まず、楽器も弾けない。

 秘めたる毛の手入れもされておらず、ボーボーだった。

 凪たち遊女は男を楽しませるため、文を書き、音楽でもてなす。

 隠されている毛も形を整え、貝殻で擦り合わせて柔毛に仕上げる。

 体臭にも気を使い、匂いのキツい葱などは食べない。

 ひたすら自分を磨くのは、自分の体が大金を稼ぎ出す価値がある商品であり、誇りがあるから。


 『それを、あんな素人女に!』


 という思いがあった。

 寅蔵も高齢になり、意識が高い女より、普通の安らげる女のほうがいいのだろうという事を、頭では理解している。

 それでも、凪の誇りが許さないのだ。

 押し付けられた女児が、まるで日本人形のように可憐なのも、凪の苛立ちを募らせる。

 そして、大人しく、賢く、物分りもいい。

 盲目なのに、その逆境を跳ね返す芯の強さみたいなものも、仄見えるのも憎い。

 いっそ卑屈なら、優越感に浸れたものを。


「もたもたするんじゃないよ! このガキ」


 ほとんど引きずるようにしながら、凪が鈴音の手を引く。

 小石に鈴音が躓き、転ぶ。

 凪は彼女を乱暴に立たせ、二の腕の下を思い切り抓った。

 売れっ娘遊女には、行儀見習いとして補助員がつく。

 『禿かむろ』と呼ばれる、引き取られたばかりの少女たちなのだが、凪は禿をいじめる癖があった。

 顔などの目立つところは折檻しない。

 内腿や鈴音が痣だらけになっている二ノ腕を思い切り抓るのだ。

 鈴音が唇をかみしめて、悲鳴を堪える。

 泣き声など聞かせてなるものかという意地が、鈴音にはあった。

「まぁ、なんて憎たらしい子だろう。今日は、夕食抜きだからねっ」

 食事は度々抜かれた。

 些細なことで折檻された。

 でも、刀哉にはおくびにも出さない。

 刀哉が心配するから。

 武骨な刀哉の掌。

 やさしく髪を撫でてくれると、耐えていたものが崩壊して泣きたくなる。

 日向の子犬みたいな、刀哉の匂い。

 生まれてからずっと光すら見たことがない鈴音は、刀哉の顔を知らない。

 花の色も。

 海の色も。

 流れる雲の白さも。

 自分の顔さえも。

 行方が知れない侍女の真砂まさごは、

「刀哉様は、たいそう美形であられますよ」

 と言っていたのを思い出す。


 『たつみの方向に二百七十五歩』


 乱暴に凪に手を引かれながら、鈴音は歩数を数えていた。

 生まれながらにして、方向は正確にわかる。

 どっちがの方向なのか、本能的に分かるのだ。そこから、方位を読める。

 歩幅を一定にすることも出来、歩数からおおよその距離を測れる。


 『川の音、水の匂い』


 視覚を補うように、嗅覚も聴覚も野生動物なみに良い。


 『古い木製の桟橋』


 そして、触覚も鋭い。

 凪に突き飛ばされるように船に押し込まれる。

 船には誰か船頭がいて、凪としゃべっていた。

 凪は誰かに注目されていると機嫌がいい。

 機嫌がいいと鈴音を無視するので、気が楽なのだった。

 鈴音が、怖がって船べりにしがみつく態を装い流れに指を浸す。

 流れ去る水の勢いで、船の速度を計っていた。


 『大人の男性が歩くほどの速さで、今度はひつじさるの方向に流れ下っている』


 鈴音の頭の中に地図が出来がっていた。

 自分が人質なのは、理解している。

 自分の存在が刀哉の負担になっている事も。

 だから、何かの役に立つかと、自分の居場所を測量しているのだった。


 『お家の再興など、もうよいのに……』


 そう思っていても、刀哉には言い出せない。

 お家再興という一事が、彼と自分を繋ぐものだと思っているから。

 盲目の孤児など、刀哉が「義務」と思い定めている事柄が無ければ足手まといでしかない。


 『私は、卑怯な子。刀哉に捨てられまいとしている』


 本当は、刀哉さえ傍にいてくれればいい。そう思っていた。


 『刀哉のお嫁さんになりたい。でも、駄目だろうなぁ』


 鈴音の密かな溜息は、風に消えた。




 通口 定正 は、夢を見ていた。

 能登半島の付け根、白山の山中にある、草深 甚四郎 の小屋で生活していた頃の夢だ。

 同じ時期に養い子となった者たちは、山田 月之介、富田 勢 以外は皆死んだ。

 生き残った、その二人も相次いで江戸で果てた。


 『なぜ、自由に生きなかったのか?』


 何度も、夢の中の彼らに問いかける。

 二人は、さびしく笑うばかりだった。

 定正が痛みにゆっくりと覚醒する。

 嫌な汗をかいていて、それが近頃は酷い。

 腹痛とも、差し込みとも別の痛みが、時折だが襲う様になった。

 定正には、なんとなくわかっていた。

 これは、致命的な病なのだと。

 死は怖くない。

 ずっと、死線に立っていたのだ。

 今更……という気がある。

 怖いのは、自由が失われること。


「いや……『怖い』とは違うな。『惜しい』と思っているのか」


 一人ごちる。

 人殺しの技を身に着けた。

 それを行使してきた。

 だが、ずっと『何のために?』と問い続けている。


「眠れませんか?」


 背中を向けて布団にくるまったまま、平良が言う。

 勇魚は、いびきをかいて、布団を蹴飛ばしていた。

 のっそりと身を起こして、平良が勇魚の布団を直してやる。


「痛みは慣れる。死は怖くない。だが、今の生活は楽しいから惜しいな」

「それなら、甚吾みたいなバケモノ放っておいて、また旅でもしましょうや」


 ふふっと定正が笑う。

「どうやら、俺の旅も終わりが近い様だぜ。だから、甚吾と立ち会うのはケジメさ」

 ため息に乗せて、平良が唸る。

 子供をたしなめる保護者のようだった。

「悲しくなるので、そんな事を言わんでくださいよ。あのバケモノは、場合によっては私が仕留めます」

「どうしてもヤルなら止めないが、一つだけ約束しろ」

「何です?」

「俺より先に死んではならん」

「鋭意努力します。約束はできませんが」




 鈴音が人質であることを確認させたあと、刀哉は座敷牢から解放された。

 愛用の刀も手に戻る。

 無銘だが、重ねが厚く反りの少ない剛刀だった。

 抜刀する。

 玲瓏と光る月に、刀身が冴えた。

 だらりと一刀を下げた格好から、片手で逆袈裟に振り抜く。

 笛のような鋭い風切り音が鳴る。

 跳ね上げられた一刀が、鍔音高く返って、高く掲げた上段に変わる。

 その刀身がユラユラと揺れた。

 獲物に喰らいつく前の、狼の尾の様に。

 山田 月之介 が遣った『疋田陰流』

 柳生 石舟斎 を祖とする『柳生新陰流』

 その原型となったのが、剣聖 上泉 信綱 の新陰流。

 更に新陰流の源流になったのが、愛州移香流だった。

 別名『陰ノ流』とも。

 ここで言う『陰』とは、隠された心の内。

 相手の心を読み機先を制するのを深奥とする剣だった。

 刀哉は愛州移香流の剣士だった。

 高く掲げた大きな上段は『雷刀らいとう』という。

 雷は一瞬で落ちる。

 そして、どこに落ちるか分からない。

 これを体現したのが雷刀だ。

 無言の気合い。

 刀が叩き下される。

 風切の音は後から聞こえた。

 空気が裂けて地面の土を巻き上げる。


「覗かれるのは好きではない」

 納刀しながら刀哉が言う。

 剣の素振りをしていた金城一家の邸宅の中庭の一角から、男が姿を現した。

 飴売りの格好をしているが、違う。

 金城一家に雇われている風魔忍びであった。

「旦那と組む事になりましたので、ごあいさつに伺いました。あっしは『ムササビ』って者です」

 にこやかに笑っているが、刀哉は騙されない。

 こいつからは、ぷんぷんと血の匂いがする。

「風魔衆か。今は、内輪もめの最中と聞いたぞ」

「穏健派と過激派にわかれてましてね。どうも過激派が勝ちそうなんで、抜けました」

 勝手に組織を抜ける忍びを『抜け忍』という。

 忍びは、金次第でどこにでも雇われる諜報機関。

 機密情報を持っているかもしれない脱走者など許さないのが常だ。

「ゴタついている今が好機なんで、ここで荒稼ぎして高跳びです。へっへっへ……よろしく頼みますぜ」

 


 

 

 

 

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