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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
慈恩の章
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見舞い

 びっしょりと汗に濡れた浴衣を脱ぐ。

 そして、用意しておいた別の浴衣に着替えた。

 また、少しトロトロ眠る。この繰り返しだった。

 喉が渇くと大根おろしのしぼり汁が入った徳利に直接くちをつけて飲んだ。

 まるで、ヤスリに変わってしまったかのような喉を、水あめを溶かし込んだ大根しぼり汁が慰撫してくれたような気がしていた。

「まぁ、旨いもんじゃねぇけど」

 かすれ声でつぶやいたのは、瓦走りの権太だった。

 蕪 九兵衛 に雇われて、クソ寒い上州赤城の博徒『赤光一家』に潜入していた。

 本拠地の屋敷の間取りや人員構成を探ると同時に、この組織が的にかけられていて危険であるという噂を流すのが任務だったのだが、『組織間抗争でいり』に巻き込まれて這う這うの体で逃げ出したのだった。

 その抗争の相手が、蕪 九兵衛 率いる浪人衆だったのだから笑える。

 色々仕掛けが台無しになり、この寒空に川に飛び込む羽目になってしまった。

 それで風邪をひいてしまったのだが、今回の風邪は妙にしつこくて、権太が床に臥せってもう一週間になる。

 何度目かの覚醒で、部屋が暖かい事に権太は気が付いた。

 霞む目をこする。

 視界の隅で何かが動いた。

 とっさに、枕の下に隠していた短刀をつかむ。

 その手がやんわりと押さえつけられた。

「権太さん。あたしよ、あ・た・し」

 笑みを含んだ声。

 思わず権太は舌打ちしそうになった。

「露木さん、人の家で何してるんすか?」

 枕元に座っていたのは、江戸を騒がせた凶賊『七死党』の生き残り 露木 玉三郎 だった。

 のっぺりした役者顔なのも気に入らないが、甚吾にずっと付き添っているのも権太は気に入らない。

 なので、口調にはつい棘が混じる。

「あら、お言葉ね。病に臥せっているって言うから、お見舞いに来たのに」

 部屋が暖かいのは、火鉢に炭が足されているから。

 火鉢には鉄瓶がかかっていて、クツクツと沸騰している。

 喉が楽だと思ったが、部屋を加湿してくれていたのかと権太は気付いた。

 何かが焼ける匂いがした。

 土間の方で、七輪を使って誰かが干物を焼いている。

 草深 甚吾 だった。

「やあ、権太。起きたか。眠っていたので、すまないが勝手に上がらせてもらったよ」

 視線を送っただけなのに、背を向けて作業している甚吾がこっちを見もしないで言った。

「あ、いえ、かえってすいません。汚いところで……」


 『こういうのは、慣れない』


 権太は、ずっと一人だった。

 醜い容姿で生まれた。

 蔑まれながら育った。

 親は戦に巻き込まれて死んだ。

 人買いにさらわれて、初めは見世物小屋で、次いで盗人の下働きをしていた。

 そこでも、嘲笑され、殴られて育った。


 『誰も俺を見ない。見て欲しくない』


 それが、権太の望み。

 世界は苦痛に満ちていて、醜悪で、残酷だ。

 だから自分の安全圏である巣穴に入られると、不安になる。


「刀が壊れてしまってね。修理に出したのだよ。そのついでに寄らせてもらったわけさ」

 甚吾は、飯を炊き、干物を焼いて、青葱と大葉を刻んでいるらしい。

 アジらしき干物は、さっと炙って頭を落とし皮を剥ぎ身をほぐしている。

 頭は汁物の出汁にしたようだ。

「喉が辛いだろうから、飯は柔らかく炊いておいた。これに、このアジのほぐし身とこの薬味と胡麻をかけて、出汁で湯漬け風にするといい。食欲がなかったら、これを呑むと良い。刀屋さんで、分けてもらった甘酒だよ」

 五合徳利を掲げて甚吾が笑う。

 権太は、もごもごとお礼を言った。

 あまり、こんな事をされた覚えがないので、どう反応していいのか分からなかったのだ。

「さて、これで我々はおいとましようか。病人に気を使わせてはいけないからね」

 見慣れない拵えの刀を差して、甚吾が帰り支度をする。

「ええ! 雑炊を食べていかないのぉ?」

 と、露木が不満気に頬を膨らませる。

 甚吾が作る料理を食べたそうにしていたのだ。

「これは、権太に作ったモノだよ」



 まだ温かい飯をよそって、言われた通りにアジのほぐし身と青葱と大葉の薬味を乗せ、胡麻を散らせて出汁をかけまわす。

 そして、箸でさらさらと口に流し込んだ。

「美味い……」

 しばらく、大根を刻んだものと、その絞り汁しか口にしていなかったので、まるで五臓六腑に染みわたる様だと権太は思った。

 アジから滲み出た塩味と脂が、野菜以外のモノに飢えていた権太の食欲を刺激する。

 青魚特有のしつこさは無い。

 青葱と大葉がそれを中和してくれているのだろう。

 夢中になって、掻き込む。

 もう一杯よそう。

 今度は、薬味を多めに盛る。

 少し冷静になったか、味わう余裕があった。

 甚吾の事を思う。

 あの、小柄な女を斬ってから、甚吾は少し変わったと、権太は思っていた。

 以前の甚吾なら、見舞いになど来ない。

 甚吾は権太の機能にのみ興味があって、それが権太にとって心地よかったのだ。

 乱暴に、湯漬けを掻き込む。

 このご時世、白米は贅沢品だ。甚吾はそれを惜しみなく使う。

 明日に何の希望もないから、今あるものを使う。そういう思考だった。

 甚吾の抱える虚無を覗き込むのが怖い。

 怖いけど、愉悦だ。


「それが、何だよ、アレ」


 権太がひとりごちた。親切にするとか、幻滅だ。

 乱暴に、湯漬けを掻き込む。


「くそ、なんだよ! なんで、涙が流れるんだよ!」




 うんざり顔の 蕪 九兵衛 を相手に、無偏辺組の代貸を演じている 夜刀神 長久 が延々としゃべっていた。

 時折「そうですねぇ」とか「なるほど」とか相槌をうつだけで、話の内容は全く九兵衛には入ってこない。これが、この若い官僚の癖で、誰かに話しているという態で頭の中を整理するらしい。

 相手が理解しているか? とか、意見を聞くとか、全く忖度していない。

 いっそ、喰代 左兵衛 の忍猿でもここに置いておけばいいのにと思うのだが、あの小生意気な子猿どもは、夜刀神が苦手らしく、そそくさとどこかに逃げてしまう。

 

「……つまりだよ、ただ単に賭場を開いても儲けにつながらないんだね。無偏辺組の帳簿を調べて分かったよ。工事を請け負う材木商と組まないと『旨み』が薄いんだ。こういった、大規模都市開発に伴う人口の移動がキモなんだよ」

 今は食事中だった。

 咀嚼している時以外、夜刀神は、ずっとしゃべっている。

 おかげで、九兵衛は何を食べているかもわからなくなってしまっていた。

「なるほど」

 適当に相槌を打つ。

「大都市化で、江戸は前代未聞の大都市になる。すると必要になるのは、上水と下水だよね。これは、自然にできるものではない。江戸の大半は埋め立て地になるから、千代田城周辺の小さな湧水地だけでは賄えなくなる。多摩川水系からの大工事が必要になるから、まだしばらくは工事は続く。そして人は流入し続ける。将軍宣下で徳川幕府成立を二年以内と踏むと、あと十年は工事が続くよ。そこで、材木商と口入屋に渡りをつけて、博徒が上澄みをすくうわけさ」

 長い。九兵衛は欠伸をかみ殺した。食欲はとうに失せた。

 夜刀神のおしゃべりで、新しい博徒の仕組みは分かった。

 大普請で多くの労働者が集まるってことは、賭博をする人口が増えるってことだ。

 それを「さあいらっしゃい」と待ち受けるのではなく、普請場の近くに臨時の賭場を開いて集まった労働者を囲い込もうという案だ。

 寺社に払っていた場所代てらせんを、普請の元受の材木商と人材派遣を担当する口入屋に払うわけだ。

 これは、木材商にとっては労働者に払った賃金の還流であり、経費の節約につながる。

 目ざとい博徒が細々とやっていたこの事業形態を、大規模にするというのが、夜刀神の目算だった。

 賭博だけではない。古着などの生活利便品の取引。酒と女。こうした裏面の金の流れはもちろん、日常の飲食や出稼ぎ労働者のための宿舎に至るまで、一元管理しようとしている。

 だが、売春には『忘八』、古物には『シデムシ』という利権がからむ。

 それを無視するという事は、つまりは戦争ということ。

 しかも、江戸で優勢なのは、徳川の息がかかった、三河や駿河の政商。『忘八』も『シデムシ』も、その末端だ。

 夜刀神は、無偏辺組の暴走に見せかけて、徳川の利権にまで手を出すことになる。

「力が強くなれば、自然と権力側が擦り寄ってくるものだよ。だから、この二年が勝負。豊臣にかまけている今しかない」

 怖くないのか? と、九兵衛は思う。コイツがやっているのは、まるで火薬庫の中での火遊びだ。

 この、若い官僚の背景に誰が居るのか九兵衛は知らされていないが、権力の二重構造など、まともじゃない。

「ふふふ……。この日ノ本、百年の……いや五百年の計だよ。権力は滅んでも、市民はしたたかに生きてゆく。我々は、その下地を作っているのさ」 

 ここまでくると、もう九兵衛の理解の範疇を越える。

 そんな先の未来、自分たちはとっくに死んでいるではないか?

「邪魔なのは、大手の博徒だねぇ。同時進行で、普請元受の材木商に食い込む。私は交渉担当。九兵衛さんは、排除担当。目録を作ったから、どこから潰すか決めよう」

 こういう荒事なら得意だ。

 やっと、判る話に移行したらしい。



 布団を撥ね退けて、拳士 平良たいら 宗重むねしげ が飛び起きた。

 夢を見ていた。何か巨大な獣と対峙している夢だった。

 無意識に、甚吾に浅く斬られた胸を触る。

 すでに傷口は塞がり、痕跡すら残っていないが、恐怖だけが残滓となってこびりついているかのだった。

 不意打ちの後ろ蹴りを放った。

 自分でも全く意識しない、無念無想の蹴りだったと平良は思った。

 甚吾は慎重な性格だ。

 だから、その不意打ちを回避することを選んだのだ。

 それゆえ、自分が助かったと平良は理解している。

「まるで、勝負にならなかった」

 盛大ないびきをかいている勇魚いさなの夜具を直してやり、自分は外に出る。

 ここは、赤光一家江戸支部の本拠地。浅草寺に近い宿坊の一つを一家が買い取ったのだ。

 江戸支部の責任者である 朽縄くちなわ五郎左ごろうざは、 親切ごかしに住居を提供してくれたが、何のことはない、師匠を用心棒代わりにしているだけだ。

 もうすぐ、夜が明ける。

 上州赤城と比べると、江戸は暖かい。

 朝靄の中を、黒々とした寺社の屋根が見える。

「次は、通用しないだろうな」

 正直にそう思う。

 あわよくば、技を移し盗ろうと思ったが、深甚流は模倣できる類のものではなかった。

「師匠は、あれと戦うつもりか」

 馬庭念流の剣士 通口 定正 は間違いなく卓抜した剣士である。

 だが、草深 甚吾 という男と対峙してわかった。

 彼奴は、剣の技法とかそういった物の更に先に踏み込んでいるような気がする。

 感じたのはどす黒い情念と、寒々とした空虚。

 まるで、人外だ。

「なんとか、対戦を思い止まってくれぬものか」

 どこか遠くで勤行の鐘が鳴った。

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