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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
慈恩の章
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のたり 春の海

 春の海。

 のたりのたりと。

 ヒバリが囀りながら上空を飛び、ユリカモメが春陽にきらめく水上で、所在なさげに波に揺られていた。

 風が吹き渡り、さらさらと葦の葉擦れの音が囁いている。

 甚吾の竿も、夜刀神の竿も、ぴくりともしないが、二人は二間(約三.六メートル)ほどの間隔を開けて、無言のまま釣り糸を垂れていた。

「何を釣る予定ですか?」

 唐突に夜刀神が口を開く。

さわらですね。そっちは?」

 甚吾が答えた。

 ぎょっとなって、露木が甚吾を見る。

 普通なら、ここは無視する場面。

 草深 甚吾 という男は、興味がないと相手の存在自体認識しない。

 会話に応じるということは、多少でも興味を惹いていたということ。それが珍しい。

「もっと大物です。危険な相手らしいので、掌が汗まみれですよ」

 そう言って 夜刀神 が笑う。

 だが、会話の内容の割に、少しも緊張していない真面目な口調だった。

「その『危険な相手』とやらは、金さえ払えば味方に付くんじゃないですか?」

 夜刀神 には目を向けず、波間の『浮き』を見たまま、ポツンと陣吾が言う。

 カニをいじめるふりをしながら、露木が聞き耳を立てていた。

「私は自分で見たり感じたものしか信用しないんです。それに、金で動くものは、金で簡単に鞍替えしますからね」

 海を見たまま、ふふっと甚吾が笑った。

「面倒な性格ですね」

「面倒な性格なんです」

 甚吾を見ることなく、海の方に目を向けたまま 夜刀神 が答えた。

 カニを苛めるのにも飽きたか、露木がぶらぶらと歩いて来て甚吾の横に座る。

「邪魔」

 ……と、押しのけられるぎりぎりの距離を、露木は習得していた。そして、

「囲まれてる」

 小さな声で、言った。

 甚吾は「わかっている」という風に頷く。

 葦の葉陰から、複数の気配がしていた。

 殺気はない。

 なので、甚吾は無視していたのだ。

 状況からすると、自分の隣の釣り人の護衛というところだろうか?

 そこが、甚吾の興味を惹いた。

「私は、まず江戸の賭博利権を一本化したい。今は各々の組織が勝手に蟠踞し、争い、民を蝕んでいる。それを、管理下に置き秩序ある形に変えたいのです。まぁ、簡単に言うと賭博の半公営化ですね」

 甚吾はその話を聞いているのか、それとも聞き流しているのか、無言だった。

 構わず、夜刀神が続ける。

「いずれ、色町も古物商も一本化する。この体制が完成すれば、社会の裏面に流れる金の大半を管理することになります。これは、とても大きな力です」

 一瞬、甚吾の竿が揺れそれに『合わせ』る。竿に伝わるエサに食いついた微かな感触に獲物が針にかかるよう微妙に動かすのだが、甚吾はそれが異様に上手い。

 だが、今回は失敗したらしい。

 引き上げた釣り針の先には、何もなかった。

「力をもって、どうするのだい? 必ず腐るものだよ」

 話に飽きたか、甚吾は竿に糸を巻きつけ帰り支度を始めた。

「早晩、徳川は巨大な権力を握ります。しかし、三河者は狭量だ。必ず恐怖政治を敷きます。海外に開き始めた門戸も閉ざしてしまうでしょう。結果、日ノ本は緩慢に衰退する。だから、虐げられた者のため、権力者の手の届かない領域を作ることは、意義あることなのです」

 夜刀神が熱弁を振るう。

 武士というよりは、白皙の学者のような彼の顔が、紅潮していた。まるで、熱病患者の様に。

「興味ないな。そもそも、なぜ私なんだね」

 甚吾が一言で切り捨てる。

 夜刀神はいきなり自分の志を語ったが、甚吾も露木も聴衆には向かいない人物だった。

 それが、高邁な志でも。

 夜刀神が、竿を置いてズイっと甚吾に顔を近づけてくる。

 甚吾は他人に接近されるのを嫌う。

 わずかに苛立ちをみせて、のけぞった。

「あなたは、江戸で一番の剣士と聞きました。私は、その腕がほしい。護衛として背中を任せたい。だから、私の考えに賛同していただき、同じ方向を向く同志になっていただきたいのです」

 甚吾がため息をついた。明らかに『面倒くさい』という態度だった。

 相手が自分だったら、ぽかりと殴られているだろうな……と、見ていて露木は思う。

「私は金をもらえれば、その給金分は働く。その給金分までは、絶対に裏切らない。それに、私は自分で交渉しない。宿星屋を通すのは、こうした交渉事が煩わしいからだ。したがって、君の態度は気に入らないね」

 平坦な声で甚吾が言う。

 だいぶ怒っている証拠だ。

 ざわっと、葦原に潜む何者かが、殺気をまとい始めた。

 夜刀神が危険と判断したのだろう。

 露木は、小枝を投げ捨てて、さりげなく甚吾の背後を護る位置に移動していた。

 左手は、刀の鍔元。

 親指が鍔を押し上げて、クンと鯉口を切る。

 空気は緊迫しつつあるが、わざとかそれとも天然か、夜刀神は全く気にせず、ペラペラと現在の情勢などをうんざり顔の甚吾にかましている。

 甚吾は夜刀神の熱弁を身振りで止める。

 やっと、学者風の若者の口が止まった。

「一つ聞くが、なぜ『竹光』なんぞを、腰に下げているのかね?」

 竹に銀箔をはりつけ、刀にみせかけたものを『竹光たけみつ』という。

 芝居の小道具や、剣舞の練習に使ったりする道具で、当然ながら人は斬れない。

「え? ああ、コレですか」

 拵えだけはそれらしく作った竹光が、夜刀神の腰に差してあった。

「私は、武士ですが、刀を抜いたことがありません。今後も抜くことはないでしょう。だから、刀を持つのは無駄。かといって、帯刀しないわけにはいかないので、竹光なのです。刀は、重いですからね」

 そんな、武士の常識からするとトンデモ無いことを、夜刀神がしれっと言う。

 甚吾は表情に乏しいので、どう思ったかは知らないが、少なくとも露木は呆れた。

 毒気を抜かれたとも言える。

「懐の短刀は、本物だね」

 女性が持つ懐刀よりももっと小さい短刀を、夜刀神は確かに持っていた。

 腰の刀が竹光であることを見抜いたのも不思議だが、短刀を呑んでいる(懐に短刀を隠していること)を察したのも不思議だった。夜刀神は、ますます甚吾に興味を持ってしまった。

「この短刀で、戦うわけじゃないんです。自害用ですね。猛毒が塗ってあるんですよ」

 夜刀神が挑もうとしているのは、世間の裏側に潜む犯罪組織。

 とらえられ、拷問されることもあるかもしれない。

 その際、決して 大久保 長安 の名前は出すことはできない。

 これは、彼の雇用主である徳川にも知られていない極秘任務なのだ。

 かといって、拷問に耐える訓練など夜刀神は受けていない。単なる事務処理を担当していた官僚なのだ。

 だから、万が一の時は死ねばいい。

 死人は、何もしゃべらない。そのための短刀だった。

「私の代わりはいくらでもいる。だけど、私の上司の代わりになる者はいない。だから彼にカケラでも嫌疑を向けさせるわけにはいかんのですよ」

 変人だ。傍らで聞いていて、露木は夜刀神の事をそう思った。

 瓦走りの権太といいい、なぜこうも甚吾の周辺には変人ばかりが集まるのか?

 甚吾には、何かそうした磁力の様な物があるのかも知れない。

 そういえば、自分も甚吾に惹かれる変人の一人であったと、露木は思い至った。

 夜刀神にくるりと背を向けて、無言のまま甚吾が歩み去る。

 もう、この若い官僚に興味を失くしてしまったらしい。

「私は、あなたに、どういう考えの者に雇われることになるか、知っておいてほしかったのです」

 一瞬、甚吾が歩みを止めた。

 しかし、何も言わず、振り返りもせず、再び歩き始める。

 その背中が、きっぱりと夜刀神との会話を拒否していた。

 露木がチラチラと振り返りつつ、甚吾とともに歩み去る。

 夜刀神は、二人の姿を見えなくなるまで、見送っていた。

 葦の草叢を揺らして姿を現したのは、甲州忍の首領 高坂 甚内 だった。

「実際に合ってみて、どうでした?」

 立ち尽くす夜刀神に、そう話しかける。

「何か、巨大で危険な獣が、傍らを通り過ぎた気がしましたよ」

 今になって、どっと夜刀神の額に汗が流れた。

「敵に回したくない。だから、こっちの陣営に引き込みましょう。金ではなく、魂で賛同するよう、説得したいところです。ですが、無理なら……」

 手拭いで首筋を拭いながら、夜刀神が語尾を濁す。

「立ち合いなら、百度戦っても一度も勝てないでしょう。ですが、殺すことはできる」

 甚内が、夜刀神の意図を汲んで言う。

 井戸の水が毒に変わっていることもある。

 人ごみのなかで不意に刺されることもある。

 睡眠時に天井から糸が下がってきて致死の毒を口に流し込むこともある。

 忍が本気で暗殺を仕掛ければ、いかに剣の達人であろうとも、誰が避け得ようか?

「死なすには惜しい人材です。上手く彼の行動に合わせつつ、利用する。切れる包丁も、使われてこそですからね」



 上州赤城、桐生の町。

 赤光一家が葬儀を営んでいた。

 無偏辺組との出入りで死んだ三下博徒を悼み、一家をあげて葬儀を営んでいたのだった。

 実際は、不都合な情報を流されるのを防ぐため切り捨てたのであるが、表向きは殉死という扱いになっている。

 効果は二つ。

 この悲劇によって、一家内部の結束が固まったこと。

 そして、倍する勢力の浪人を討ち取ったことによる、他の博徒への示威。

 つまり、赤光一家は『男をあげた』のである。

 戦力として役に立たない連中だった。損失を上回る効果があって、赤光一家の貸元としては、いい博打だったと思っている。

 オカメを思わせる顔に悲しみの表情を作り、おくびにも出さないが。

 葬儀の御斎(参列者に振舞われる酒や食事の事)の酒をちびちびと舐めながら、通口 定正 が 赤木山 光三郎 と話していた。

 この出入り騒ぎが起きる前から、話し合っていた事だ。

「おかげさまで、しばらくこっちは大丈夫でしょう。どうぞ、予定通り江戸に向かってください」

 赤光一家は武威を見せつけた。

 他の敵対組織も、抗争の手を緩めるだろう。

 傘下に加わりたいという打診まであった。

 通口の様な卓抜の剣士は、用心棒として手元に置いておきたいという希望はあったが、今現在、戦場は江戸に移りつつある。

 赤光一家も、光三郎が最も信頼する代貸、朽縄くちなわ五郎左ごろうざを江戸支部として派遣しており、熾烈を極める江戸の縄張り争いに兵力増強の申請を彼から受けていたところだった。

 だから、「江戸に行きたい」という 通口 定正 の要望は都合が良かった。

「江戸での便宜は、責任をもって五郎左がしやす」

 居住まいを正して、光三郎が言う。

「いや、江戸に向うのは俺の私用だよ。五郎左を助けるのは、片手間になっちまうぜ」

「それでも、構いません。通口先生がいらっしゃるだけで、敵が二の足を踏みます。それが、値千金ってわけでして」

 

 

 

 

 

 

 

 

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