風に帰る
「やられた……」
あまりにも鮮やかな逆襲に、地丸は思わず失笑してしまった。
この状況は、完全に内部からの情報漏洩。『五ツ』内部から漏れる可能ではないので、霞の伝兵衛からなのだろう。
普段なら『五ツ』以外の誰かが作戦に加わった時、内部監査をするのは、隠形に長けた地丸の役割だったが、人員不足で、手が回らなかったということもある。
頭の隅では、伝兵衛を監視しないといけない……と、理解していたが、浪人集めにかまけて優先順位を下げてしまっていたのだ。
常に、先手を行っている気がしていたが、最後の最後で、鮮やかに逆転されてしまった。
こうなったら、逃げる。
自助を優先させるのは、曽呂利衆の鉄則だった。
誰かを庇うために撤収が遅れると、共倒れになる。死ねば終わり。生きていれば、何度でもやり直すことが出来る。
その積み重ねで曽呂利衆は経験を積んで行ったのである。
浪人衆が中洲に留まって、反撃を試みていた。
船は、火矢で真っ先に焼かれてしまった。
荒川の流れは速く、川は深い。
甲冑などを着こんでいると、あっという間に水中に引きずり込まれてしまう。
浪人衆の中には、甲冑をかなぐり捨て、投降の意を示した者もいたが、有無を言わさず撃ち殺されてしまった。
「皆殺し」
銃声で、そう宣言されたという事だ。
敷かれた銃陣の厚さ。銃火を数えたら、ざっと百丁はある。
上陸に備えて、槍足軽も出てきている。
先手組四百騎の約半数を投入したことになる。
集めた浪人は、およそ百。
完全武装させて、江戸城内になだれ込ませる予定だったが、どうやら、この中洲から出るのは難しそうだ。
地丸が採るべき一つ。ここから逃げ出す事。自助が優先だ。
「貴様! 我らを置いて、逃げるか!」
浪人の一人が、ざぶざぶと川に入る地丸を見て、怒鳴る。
怒りにまかせて、矢をつがい、ヒョウと放つ。
地丸は、飛来する矢を掴み取り、投げ捨てた。
「まぁ、そういうこった。あばよ」
川に潜る。
懐から出したのは、竹筒。
節が抜いてあり、これを水面から出して、呼吸をするのだ。
暗い夜の川を泳ぐ。
海なら鮫の心配をしないといけないが、ここなら心配はない。
下流に流されながら、対岸に渡る。
暗闇の葦の間に潜んで、気配を探った。
上空では、近くに巣でもあるのか、夜鷹がキーヨキーヨと鳴きながら、執拗に旋回していた。
気配を殺すのも、探るのも、自信があった。
河原で一度光景を記憶し、眼隠ししたあと、石ころを一つ投げ入れどこが光景が変わったか探る訓練をしていた。
違和感を敏感に覚える訓練なのだが、地丸は常に主席だった。
加えて、危険に関する勘も鋭い。
その勘が、危険を地丸に知らせてくるのだ。
完全に風景に溶けこんでいる自信はあった。
探知の機能は、「この周辺に人の姿は無い」と、言っている。
だが、勘は「何かヤバい」と囁いてくる。
体に、無味無臭に加工した油を塗布してあるので多少は保つが、このまま川の中に留まれば、体が冷え切って動きがとれなくなる。場合によっては、死ぬ。
地丸は、用心深くそろそろと動く。
遠くの中洲では、銃声と怒号が聞こえた。
上空には、執拗に夜鷹が鳴いている。
風が妙に冷たいと、思ったら雪が降り始めていた。
早く安全圏に逃れ、たき火でもして服を乾かさないと、寒くてかなわない。
葦が風と異なる動きを見せる。
地丸は、スラリと忍刀を抜いた。
葦の奥から出てきたのは、野良犬だった。
棒状の物を、その野良犬は咥えていた。
―― 何か変だ
勘が、地丸に警報を発していた。
その、野良犬の背から、身軽に飛び降りたのは、小猿だ。
その小猿はちょこちょこと動いて、野犬が咥えている棒状のものを引っ張る。
抜け落ちるように、その棒状の物が外れた。
中なら出てきたのは、匕首ほどの刃だった。
―― 忍犬か!
いかに、隠形に優れていようと、犬の嗅覚はごまかせない。
普段は、犬の鼻を潰すため、毒クラゲの刺胞を乾燥させた粉を持ち歩いているのだが、今日は川に入ることも想定して、持参していなかった。
地丸が自分の迂闊さ加減に舌打ちした瞬間に、ふっと犬が消失していた。
いや、消失したのではない。人には見えぬ程の速度で、犬が跳んだのである。
パクンと地丸の首筋が裂ける。
雪の中で血煙が赤く散った。三歩だけ辛うじて歩いて、地丸は倒れた。
それを見届けたかのように、キーヨキーヨと鳴きながら、夜鷹は飼い主である甲州忍 喰代 左兵衛の元に飛び去って行った。
この時間、この場所に誰かが来るはずがない。
入念な下調べをしていており、その結果、この場所が選定されたのだ。
『赤馬の術』決行の当日に限って誰かが来るなど、ありえない。
馬を走らせる準備をしていた、火丸と風丸は目くばせした。
火を放ち、馬を走らせれば、術は起動する。その時間が稼げるか、計算したのだ。
埋伏させてある燃焼促進剤が不安だった。
撤去されていたら、『焔竜巻の術』が機能しない。
即座に撤退を決める。
準備が無駄になるのは惜しいが、ケチがついた作戦に固執するのは危険だ。
二人同時に走る。
風丸は海へ。
火丸は町へ。
この場所に来た、二人も各々が追尾行動に入る。
甲州忍の 蕪 九兵衛 と 柿 杢兵衛だった。
杢兵衛が追ったのは、海に向った風丸だった。
風丸が、開けた場所を選んだのは、大きく弧を描いて飛ぶ彼の手裏剣『去来剣』には、ある程度広い場所が必要だから。
それは、杢兵衛にとっても同じだった。
細引きの束を、杢兵衛は解き、それを振り回しはじめた。
三間ほど(約六メートル)の細引きの先には、円錐形の先が尖った分胴が結ばれていて、それを杢兵衛が振り回しているのだ。
風丸が、手から手へ、パラパラとカルタ状の手裏剣を、熟練の賭博師の手つきで跳ねさせていた。
ブレながら跳ぶ『陽炎』という手裏剣だった。
いつの間にか、左右の手指に三枚づつ挟み込んだ『陽炎』を、風丸が走りながら、投擲する。
軽く薄い手裏剣なので、当たっても致命傷にはならないが、剃刀のような刃には猛毒が塗ってあった。
杢兵衛は、振り回している分銅の細引きの半ばあたりを掴む。
回転運動する分銅の半径が短くなった。
同じ力でも、運動の半径がせばまると、急激に分銅は加速する。
高速回転する細引きに、悉く『陽炎』は打ち落されてしまっていた。
だが、『陽炎』は本命ではない。弧の軌道を描いて飛ぶ、くの字型の手裏剣『去来剣』のための目くらましだ。
杢兵衛が、奇妙な舞のように身を躍らせる。
二本の去来剣が、杢兵衛が居た空間を別々の方向から飛来して杢兵衛の背に突き刺さった。
杢兵衛はそれには構わず、体をくねらせるようにして、振り回している細引きを腕に巻きつけて、不意にそこから、腕をひっこ抜く。
すさまじい勢いで加速していた分銅は、急に回転運動から解放されて、矢のように奔った。
人の手で投擲しただけでは達成し得ない速度と威力で、風丸に向って。
風丸の体が一瞬地面から浮き上がるほどの衝撃で、分胴が風丸の喉を貫通していた。
「なかなか、面白い忍具だが、タネを明かされていたら、対策されちまうわな」
刺さった『去来剣』を引き抜き、背中に仕込んだ大きな俎板を地面に捨てる。
引き戻した分銅は血まみれだった。
「最短距離を最速で跳ぶ俺の『瓢』とは相性も悪かったな」
忍は忍びでも、暗殺術や刀術や手裏剣術に長けた他の『五ツ』と違って、火丸は、どちらかというと、技術者に近い存在だった。
火薬と火災の専門家である。
甲州忍と戦うという選択肢ははなから捨てていた。
少数で襲ってきたということは、精鋭ということ。馬場を守っていたボンクラとはわけが違うだろう。
だから、複雑な地形である江戸市内向ったのだ。
『焔竜巻の術』のため、江戸の町はくまなく歩いた。
だから、江戸市内にさえ到達すれば逃げ切れる自信があった。
妙に肩幅が広い男が追ってきていた。移動速度はほぼ互角。
ならば、複雑な地形に入りさえすれば、火丸が有利だ。
進行方向に目線を戻した火丸の視界を何かが通過する。
「小猿か?」
そう思った瞬間、その猿が跳びかかってきた。
忍刀で斬り払ったが、身軽に躱されてしまう。
チクっと痛みが走った。
小猿が、持っていた針を火丸に突き刺したのだ。
数呼吸でグラグラと地面が波打つ。
「でかした! 太郎丸!」
肩幅の広い男が叫ぶ。
きっきっと、不満げな泣き声。
「ああ、すまん、次郎丸か……区別つかねぇよ……」
それが、火丸が聞いた最後の音声だった。
これで、江戸に潜伏していた曽呂利衆は全て討ち取られてしまった。
徳川に反逆する気概のある浪人も、かなり始末出来た。
歴史に残らない暗闘。
すんでのところで、江戸を壊滅させることが出来た清麿と『五ツ』、そして哀しい女剣士 勢 の記録は、どこにもない。
甚吾の傷を縫っていた糸を抜く。
焼酎で洗いながら、その作業をしたのは、露木だった。
「鼻息、気持ち悪いぞ。呼吸するな」
甚吾の裸身に触れ、興奮の極みにあった 露木 が「そんな殺生な」とか言いながら、金創膏を塗り、今度は晒しを巻いてゆく。
曽呂利衆との激闘から、すでに一ヶ月が経過していた。
梅の花は既に散り、今度は桜が待ち遠しい季節になっていた。
受傷がもとで、熱を出して何日か寝ていた甚吾が、起き出すなり「旅に出る」と言い出したのだ。
権太がその支度をしていたのだが、徳川領内において便宜を図ってもらえる特別な通行許可書が、すぐに発行された。
あの、曽呂利衆を討つ仕事は、商家の依頼ということだったが、それれが徳川の出先機関であることを、隠す努力すら放棄してしまっているようだった。
「おまえら、大きな勢力に組み入れられているからな」
という、恫喝の意味もあるのだろう。
甚吾も露木も権太も全く気にしていないのではあるが。
荷物というほどの事も無い。
金丸の大太刀『物干し竿』を、献上品よろしく錦の袋に詰めただけ。
甚吾の懐には、懐紙に包んだ 勢 の遺髪。
これだけである。
寒さも緩んだ江戸を立ち、まだ雪が残る甲州を抜け、越前にまで足を延ばす。
露木は
「さむーい。さむーい。お肌がっさがさー」
と文句ばかりを言っていたが、甚吾は意外と雪道にも慣れているようだった。
「能登から加賀にかけてある白山で育ったのでね。雪は慣れているのさ」
そんなことを、甚吾は言っていた。
傷を癒すため、時には温泉宿に泊まりながら、ゆっくりと旅を続ける。
往来が制限され、関所が組織化されるのは、ずっと後年のこと。
街道を避け、山道をゆけば、往来は自由だったのである。
目的地である越前に到着する。
そこに富田の里があり、勢 が学んだ富田流の本拠地があった。
勢 に稽古をつけた『名人越後』こと富田 重政 が隠居場所に選んだのが、この地だった。
まるで、宿坊の様に、小屋掛けがしてあり、そのいくつかは、富田流の傍流となる道場になっているらしい。
剣を振るう気合いが、何処からか響き、童が竹の棒で剣術の真似事をしていた。
里に向う一本道を、甚吾ら三人が歩く。
その行く手に、一人の初老の人物が仁王立ちしていた。
「くせぇ、くせぇ。血の匂いが、ぷんぷんしやがる。そういった『穢れ』は、ここには、入れねぇよ。帰んな」
甚吾一行を、掬い上げるようにして見ながら、その人物が伝法な口調で言う。
小柄な体だが、背筋がピンと立っている男だった。
腰には、勢 が遣っていたような、小太刀。
「約束があって、あるものを届けに参ったものです。通してくれませんかね」
微笑を浮かべながら、甚吾が言う。
いや、笑みの形に顔の筋肉を動かしただけだ。
「帰れって、言ったぜ」
初老の男が、左手で小太刀の鍔元を握る。
露木がすっと横に動いて、居合腰になった。
初老の男の目が細まる。
権太が、錦袋に収められた『物干し竿』を持ったまま、じりじりと下がった。
泣きたいほど、この初老の男が怖かった。
「よせ、露木。斬り合うつもりはない」
肩越しに露木の方を振り返りながら、甚吾が叱責する。
不満気な呻きを上げて、露木が、カチリと鯉口を戻す。
「こちらにお世話になった、勢という女性の遺髪を、約束により届けに参ったのです」
懐の遺髪を見せる。
初老の男の目に、一瞬憐みが走った。
「それに、この大太刀。これも、この里の所縁と聞きました」
金丸の遺品。『物干し竿』だ。
恐る恐る権太が前に出て、錦袋から『物干し竿』を取り出す。
涙が、初老の男の頬を伝う。
「金丸よぅ。俺より先に逝きやがったか。不肖な弟子め!」
権太から『物干し竿』を受け取る。
ようやく殺気は薄れたようだった。
「金丸も、勢 も、てめぇが斬ったんだな」
甚吾が頷く。
しばしの沈黙が流れた。
初老の男の顔に、葛藤があった。
「ここで、てめぇをぶった斬ってやりたいが、やめとく。てめぇは、もっと生きて、苦しむのがお似合いだよ」
甚吾の背に、黒い炎。人斬りに宿る、幻影だ。
それを見ても、男は道をゆずらない。
「勢の遺髪は、受け取れない。師匠は、これから隠居するんでね。一点の悲しみさえ、味あわせたくない。どこかで、勢が生きている。そう思わせておきてぇ」
そうですか……と呟いて、甚吾が背を向けた。
権太と露木がそれに続く。
「ここから、北に半里行った所に、山桜の古木がある。勢のお気に入りだった場所だよ」
『物干し竿』を肩に、歩み去る男が、大きな独り言をいう。
甚吾は振り返って、深々と頭を下げた。
男は、歩み去りながら、ひらひらと手を振っていた。
追い払う動作にも、別れの挨拶にもとれる仕草だった。
「あんな奴、斬っちゃえばいいのに」
舌打ちしながら、露木が言う。
「馬鹿言うな。あれは、鐘捲 自斎だよ。君じゃあ、逆に斬られちまうよ」
教えられた場所についた。
なるほど、見事な枝ぶりの山桜が、谷に突き出した崖の上に立っていた。
花は、まだちらほらと咲く程度。
満開の時は、谷を埋め尽くす山桜の色彩の洪水になるのだろう。
古木によりかかり、勢が眺めていたであろう景色を見る。
風がさわさわと吹いた。
甚吾が懐から、勢の遺髪を取り出す。
風に向って、包んでいた懐紙を開く。
遺髪がほどけて、谷風に消えてゆく。
なんとなく、近づき難い雰囲気があって、露木も権太も数歩後ろに下がったまま、口を噤んでいた。
微かに、甚吾の背中が震えているように見えた。
―― 勢源の章 (了) ――
これにて、長かった第二章『勢源の章』も終劇になります。
五万字縛りがあったのですが、無理でした。
気が付いたら、約十五万字いっちゃいました。寄り道しすぎましたね。
でも、陰謀をからめて、超大作風になった(ただし、低予算テイストの)ような気がします。気がするだけかもしれませんが。
第三章の構想にも入ります。
題名も決まってます『慈恩の章』です(ザビ家は関係ありません)。
方向性に悩んでおりますので、ご意見、ご感想を頂けると喜びます。




