雪の夜に幻影は奔る
勢 が、右手に持った小太刀を構える。
半身になり、相手にそれを突き出すようにして。
―― もう、何合、撃ちあわせただろう
勢 は、丸一日この平凡な顔の男と殺し合っていたような気がしていた。
実際は四半刻(約三十分)も対峙していない。
一瞬も気が抜けない立ち会い。時間は濃密に流れていた。
互いに決め手に欠けたまま、精神を、肉体を、少しづつ削る様な戦いをしていた。
富田流は間合いに踏み込むのが身上。
勢 が、あの甚吾相手に、果敢に一足一刀の境を越えてゆく。
弾き、受け流し、僅かな間隙を縫って切先をねじ込む。
甚吾 の斬り返した切先が、勢 の頬を掠め、彼女の切先が、すれ違いざまに、甚吾 の脇腹を擦過する。
ピッと 勢 の頬から血が飛び、甚吾 の着物の脇が裂ける。
藍色の着物の裂け目から覗く白い襦袢が、じわじわと赤く染まっていた。
間合いを取る。
甚吾に目を向けたまま、勢 が袖で頬の血を拭う。清麿の血と混じった 勢 の血が、雪舞う冷気の中で小さな湯気を上げていた。
息を吸い、息を吐く。
口から白くむらむらと、噴気。
無数の浅手があるが、まだ戦える。心は折れていない。
そう自分に、勢 は自己暗示をかけた。
目の前の男に、見覚えがあった。
まだ、彼が少年だった頃。ほんの僅かな期間、白山にある 甚四郎 の本拠地で共に過ごしたのだ。
彼は、何度となく、甚四郎 に殺されかけた。
ある日、彼がどこからか拾ってきて、可愛がっていた子犬を殺す事を、甚四郎 に強要されていた事を、勢 は思い出した。
「これも、修練である。斬れ、殺せ」
そう言われても、彼は断固拒否したのだった。
甚四郎 に言われるまま、誰でも斬ってきた 勢 には理解出来ない光景だったので、記憶に刻まれていたのだ。
「出来ぬのなら、お前が死ね」
薪で滅多打ちにされても、彼は泣き声一つ上げない。
底光りする眼で、甚四郎 を睨みつけるばかりだった。
その目つきが気に入らないと、また殴られる。
血にまみれ、痣だらけになり、ついには気絶してしまったが、結局、哀願の言葉は彼から出ることはなかったのだ。
ボロ布の様に打ち捨てられた少年を、勢 は自分の小屋に運んだ。
甚四郎 に何か言われるのではないかと、死ぬほど脅えていたが、放置しておくことも出来なかったのである。
少年の懐には、頭蓋を砕かれた子犬の亡骸がねじ込まれていた。
甚四郎 がやったのだ。
この剣の魔人には、幼稚な残虐さがあり、そして執拗だった。
その 甚四郎 の暴力にさらされても屈しなかった少年は、子犬の亡骸を抱きしめ、声を殺して泣いていた。
「ごめんよぅ。ごめんよぅ」
と、呟きながら。その、少年の名は……
「甚吾」
勢 が言う。目の前の男。そういえば、面影がある。
すいぶん、昏く冷たい気配になっていたので、気が付かなかった。
「思い出しましたか。そう、私があの時のガキです」
動きの連携。太刀捌きの癖。なんども頭の中で、仮想敵としていた 甚四郎 と似ている。それで、勢 は確信を持った。
甚四郎 は自らの『まがいもの』を作り、殺し合ったのだと。
甚吾は幼い時に誓った通り、師父を斬った。
だが、それで終わりではない。この世に存在してはいけない『まがいもの』を斬る運命を背負ってしまったのだ。
「可哀想な子。大丈夫、終らせてあげる」
呟いて、勢 が間合いを越える。
気配は右に、自身は左へ跳ぶ。
甚吾 の反応が一拍遅れる。
殺気を探知する、見切りの癖が抜けないのだ。それで、『虚崩し』にひっかかる。その僅かな遅れは、本来、致命的なのだ。
それでも、辛うじてだが、勢 の切先を躱す。反撃の刃も走らせてくる。
今回も、何処かを斬って、何処かを斬られた。
躱す動作が、そのまま斬撃の動きを兼ねている。
甚四郎 が、これを『無拍子』と呼んでいたことを思い出す。
構え、振りかぶり、斬る。それが、斬撃に至る基本的な流れだが、深甚流は、斬るための予備動作が殆どない。
それゆえ、いつの間にか斬られている……という状況になる。
深甚流が、魔剣と呼ばれる所以だった。
ふうっと、気が遠くなるような、感覚が、勢 を襲う。
「血を失いすぎた」
深手を負わないようにするのが、精一杯だった。
このままでは、体力に勝る相手が有利だと、勢 は判断した。
『斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ……』
そんな声が、勢 には聞えていた。清麿が死んだ時からずっと。
その声に命じられるまま、多くの命を奪った。心が毀れてしまうまで。
今日、それを終らせる。
きりきりと噛んだ 勢 の唇から、血がつつっと流れた。
「うるさい、うるさい、うるさい、黙れ!」
叫んで、気力を奮い起こす。
風を孕み脚に絡まる着物の裾が邪魔だった。
絡げてまとめ持ち、ザンと小太刀で切り離す。膝上二寸から下が剥き出しになったが、動きやすくはなった。
切り離した裾は、左手に巻きつける。富田流は古流。組打ち術も、その技法には含まれる。相手の刀身を掴み取るといった技術もあるのだ。
左手を防護したのは、『刀身を掴む』という選択肢あることを示し、当方の狙いを絞りにくくする意図があった。
刃を交えていると、相手の性格がわかる。
甚吾は慎重な性格だ。そして、堅実なところがある。それが、勢 には見えた。
案の定、今までと違う動きをすると、すっと距離を広げてくる。
甚吾は、再び中段正眼に構える。
勢 は、肩の高さに上げた右手を伸ばし、半身になって切先を甚吾に向ける。
切りとった裾を巻き付けた、左手は、頭上に高く差し上げる。
何をする気なのか? と、甚吾の目が警戒に細まった。
右に、右にと 勢 が廻る。
勢 がちらっ送った視線の先には、俯せに倒れた金丸の姿があった。
血は地面で固まり、大きな背中には、うっすらと雪が積もっていた。
いつも、その背中に守られていた気がした。
必要な時には、必ず金丸は駆けつけてくれた。
頼りになる兄のような存在だった。
―― 金丸、悼みます。 もう一度だけ、私を助けてね
気配を前に飛ばしつつ、勢 は真横に跳ぶ。
甚吾には、跳びかかって来る 勢 の幻影が見えたか、やや刀身を立てて受けの構えを見せた。
大きく右に跳んで、甚吾の視界から一瞬消えた 勢 は、今度は 甚吾 の方に跳躍する。そして、むき出しのすんなり伸びた脚を思い切り蹴り上げた。
彼女の足指は、地面に転がっていた金丸の大太刀『物干し竿』を掴んでおり、脚を使って 甚吾 に向けて投擲したのだった。
裾の切れ端を左腕に巻きつけ、甚吾の視線を上に向けさせたのは、下方を心理的な死角にするため。
もし、甚吾が『無拍子』で躱しつつ、物干し竿を弾けば、体ごとぶつかって、肝臓を抉るつもりだった。
また、飛退いたり、伏せたり、大きな回避行動を採った場合は、足裁きに勝る自分は必ず追尾できる。
高速での機動戦闘なら、勢 の方が数段上だ。体が崩れた甚吾は、勢 の刃を躱すことが出来ない。
風が鳴る。
遠雷の音。
雪の紗幕を突き破って、勢 が跳ぶ。
受ければ刺される。
躱せば斬られる。
―― 甚吾さんが死ぬ!
呼吸すら忘れて、二人の殺し合いを見ていた権太は、興奮の極みにあった。
―― あんな必死な甚吾さんは見たことが無い。ひょっとすると……
痛いほど勃起したそれを、伊賀袴の上から思わず握る。
うっかりすると、暴発しそうなほどだった。
甚吾は、受けも、躱しも、しなかった。
そのまま、突き刺さるに任せたのだ。
僅かに動いて、急所を外しただけ。
眼は、ひたと肉薄する 勢 だけを見ている。異様な集中力。甚四郎 に殴り回されても、本能的に急所を外す、神憑り的な勘の良さ。
甚吾の左肩に、ぞぶりと物干し竿が食い込んだが、甚吾は表情一つ変えなかった。
それでも、勢 は足を止めない。
もう一歩地面を蹴り、更に加速する。
幻影が走る。
その反対側に、くんっと 勢 が方向を変えた。
甚吾の片手斬りが風を斬る。左手は、物干し竿が邪魔で動かせない。
勢 の小太刀が唸る。
二人が交差した。
鋼が擦れる甲高い音が一度だけ響く。
とっとと、三歩、二人が歩く。
背を向けあったまま、動きが止まった。
一瞬の固着の後、脇腹を押さえて膝をついたのは、甚吾だった。
黙って見ていた、露木が瞑目した。
権太は、興奮しすぎて、下帯の中に放ってしまっていた。
甚吾が負けた。そう思ったのだ。
ゆっくりと、勢 が振り返る。
「なに、それ。月之介の技じゃないの」
そう言って、血塊を吐き出す。
彼女の胸は、深々と抉られていた。
交差した一瞬、勢 の小太刀を撃ち落し、おっかぶせるようにして、切先を彼女の方に滑り込ませたのだ。
月之介が遣った、疋田陰流の『合撃』。甚吾はそれを模倣したのだ。
甚吾が浅手で済んだのは、刀身の長さの差。彼女との決着は、これしかないと、ずっと狙っていたのである。
膝をつき、横倒しになりそうな 勢 を、物干し竿を引き抜いて駆け付けた、甚吾が抱き留める。
「卑怯者。でも、これで終わったね」
ひらりと、勢 が笑った。憑き物が落ちたような、透明な笑顔だった。
「ごめんなさい」
そう言って、甚吾が 勢 を抱きしめる。
「トクン、トクン…… 心臓の音が聞こえるよ」
勢 が甚吾の胸に顔をうずめた。
「声が消えない。死人は斬れない。私はどうしたらいいの? 清麿様」
震えが、漣のように、勢 の体を走る。意識の混濁もはじまっているようだ。
「もう、終ったよ。大丈夫。おやすみ、勢」
甚吾が、彼女の耳元で囁く。甚吾のことを、誰かと勘違いしている様だが、あえて修正はしない。
「そう、終ったんだね。じゃあ、京にいって、香袋を買おうね」
「ああ、そうだね」
「江戸は、嫌い。帰りたいよぅ、帰りたいよぅ、富田に帰りたい」
「連れていくよ。一緒に行こう」
「トクン、トクン…… 心臓の音が聞こえるよ」
勢 が、震える手を伸ばしてくる。
その手が、甚吾の髪を撫でる。
「もう、痛くないよ。お薬を塗ったから。子犬はお庭に埋めてあげようね」
意識が混濁した 勢 はあの頃に戻っているようだった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
甚吾 の言葉に、色を失った 勢 の唇が笑みを刻む。その口角からつうっと、血が流れる。
笑みは、慈愛の形だった。
甚吾の髪を撫でていた手が、ぽとりと落ちた。
雪が激しく降りはじめていた。
全ての音が、降り積む雪に吸い込まれているかのように、ただ静かだった。




