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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
勢源の章
62/97

雪の夜に幻影は奔る

 勢 が、右手に持った小太刀を構える。

 半身になり、相手にそれを突き出すようにして。


 ―― もう、何合、撃ちあわせただろう


 勢 は、丸一日この平凡な顔の男と殺し合っていたような気がしていた。

 実際は四半刻(約三十分)も対峙していない。

 一瞬も気が抜けない立ち会い。時間は濃密に流れていた。

 互いに決め手に欠けたまま、精神を、肉体を、少しづつ削る様な戦いをしていた。

 富田流は間合いに踏み込むのが身上。

 勢 が、あの甚吾相手に、果敢に一足一刀の境を越えてゆく。

 弾き、受け流し、僅かな間隙を縫って切先をねじ込む。

 甚吾 の斬り返した切先が、勢 の頬を掠め、彼女の切先が、すれ違いざまに、甚吾 の脇腹を擦過する。

 ピッと 勢 の頬から血が飛び、甚吾 の着物の脇が裂ける。

 藍色の着物の裂け目から覗く白い襦袢が、じわじわと赤く染まっていた。

 間合いを取る。

 甚吾に目を向けたまま、勢 が袖で頬の血を拭う。清麿の血と混じった 勢 の血が、雪舞う冷気の中で小さな湯気を上げていた。

 息を吸い、息を吐く。

 口から白くむらむらと、噴気。

 無数の浅手があるが、まだ戦える。心は折れていない。

 そう自分に、勢 は自己暗示をかけた。

 目の前の男に、見覚えがあった。

 まだ、彼が少年だった頃。ほんの僅かな期間、白山にある 甚四郎 の本拠地で共に過ごしたのだ。

 彼は、何度となく、甚四郎 に殺されかけた。

 ある日、彼がどこからか拾ってきて、可愛がっていた子犬を殺す事を、甚四郎 に強要されていた事を、勢 は思い出した。

「これも、修練である。斬れ、殺せ」

 そう言われても、彼は断固拒否したのだった。

 甚四郎 に言われるまま、誰でも斬ってきた 勢 には理解出来ない光景だったので、記憶に刻まれていたのだ。

「出来ぬのなら、お前が死ね」

 薪で滅多打ちにされても、彼は泣き声一つ上げない。

 底光りする眼で、甚四郎 を睨みつけるばかりだった。

 その目つきが気に入らないと、また殴られる。

 血にまみれ、痣だらけになり、ついには気絶してしまったが、結局、哀願の言葉は彼から出ることはなかったのだ。

 ボロ布の様に打ち捨てられた少年を、勢 は自分の小屋に運んだ。

 甚四郎 に何か言われるのではないかと、死ぬほど脅えていたが、放置しておくことも出来なかったのである。

 少年の懐には、頭蓋を砕かれた子犬の亡骸がねじ込まれていた。

 甚四郎 がやったのだ。

 この剣の魔人には、幼稚な残虐さがあり、そして執拗だった。

 その 甚四郎 の暴力にさらされても屈しなかった少年は、子犬の亡骸を抱きしめ、声を殺して泣いていた。

「ごめんよぅ。ごめんよぅ」

 と、呟きながら。その、少年の名は……


「甚吾」


 勢 が言う。目の前の男。そういえば、面影がある。

 すいぶん、昏く冷たい気配になっていたので、気が付かなかった。


「思い出しましたか。そう、私があの時のガキです」


 動きの連携。太刀捌きの癖。なんども頭の中で、仮想敵としていた 甚四郎 と似ている。それで、勢 は確信を持った。

 甚四郎 は自らの『まがいもの』を作り、殺し合ったのだと。

 甚吾は幼い時に誓った通り、師父を斬った。

 だが、それで終わりではない。この世に存在してはいけない『まがいもの』を斬る運命を背負ってしまったのだ。


「可哀想な子。大丈夫、終らせてあげる」


 呟いて、勢 が間合いを越える。

 気配は右に、自身は左へ跳ぶ。

 甚吾 の反応が一拍遅れる。

 殺気を探知する、見切りの癖が抜けないのだ。それで、『虚崩し』にひっかかる。その僅かな遅れは、本来、致命的なのだ。

 それでも、辛うじてだが、勢 の切先を躱す。反撃の刃も走らせてくる。

 今回も、何処かを斬って、何処かを斬られた。

 躱す動作が、そのまま斬撃の動きを兼ねている。

 甚四郎 が、これを『無拍子むびょうし』と呼んでいたことを思い出す。

 構え、振りかぶり、斬る。それが、斬撃に至る基本的な流れだが、深甚流は、斬るための予備動作が殆どない。

 それゆえ、いつの間にか斬られている……という状況になる。

 深甚流が、魔剣と呼ばれる所以ゆえんだった。

 ふうっと、気が遠くなるような、感覚が、勢 を襲う。


「血を失いすぎた」


 深手を負わないようにするのが、精一杯だった。

 このままでは、体力に勝る相手が有利だと、勢 は判断した。


 『斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ、斬れ、殺せ……』


 そんな声が、勢 には聞えていた。清麿が死んだ時からずっと。

 その声に命じられるまま、多くの命を奪った。心が毀れてしまうまで。

 今日、それを終らせる。

 きりきりと噛んだ 勢 の唇から、血がつつっと流れた。


「うるさい、うるさい、うるさい、黙れ!」


 叫んで、気力を奮い起こす。

 風を孕み脚に絡まる着物の裾が邪魔だった。

 絡げてまとめ持ち、ザンと小太刀で切り離す。膝上二寸から下が剥き出しになったが、動きやすくはなった。

 切り離した裾は、左手に巻きつける。富田流は古流。組打ち術も、その技法には含まれる。相手の刀身を掴み取るといった技術もあるのだ。

 左手を防護したのは、『刀身を掴む』という選択肢あることを示し、当方の狙いを絞りにくくする意図があった。

 刃を交えていると、相手の性格がわかる。

 甚吾は慎重な性格だ。そして、堅実なところがある。それが、勢 には見えた。

 案の定、今までと違う動きをすると、すっと距離を広げてくる。

 甚吾は、再び中段正眼に構える。

 勢 は、肩の高さに上げた右手を伸ばし、半身になって切先を甚吾に向ける。

 切りとった裾を巻き付けた、左手は、頭上に高く差し上げる。

 何をする気なのか? と、甚吾の目が警戒に細まった。

 右に、右にと 勢 が廻る。

 勢 がちらっ送った視線の先には、俯せに倒れた金丸の姿があった。

 血は地面で固まり、大きな背中には、うっすらと雪が積もっていた。

 いつも、その背中に守られていた気がした。

 必要な時には、必ず金丸は駆けつけてくれた。

 頼りになる兄のような存在だった。


 ―― 金丸、悼みます。 もう一度だけ、私を助けてね


 気配を前に飛ばしつつ、勢 は真横に跳ぶ。

 甚吾には、跳びかかって来る 勢 の幻影が見えたか、やや刀身を立てて受けの構えを見せた。

 大きく右に跳んで、甚吾の視界から一瞬消えた 勢 は、今度は 甚吾 の方に跳躍する。そして、むき出しのすんなり伸びた脚を思い切り蹴り上げた。

 彼女の足指は、地面に転がっていた金丸の大太刀『物干し竿』を掴んでおり、脚を使って 甚吾 に向けて投擲したのだった。

 裾の切れ端を左腕に巻きつけ、甚吾の視線を上に向けさせたのは、下方を心理的な死角にするため。

 もし、甚吾が『無拍子』で躱しつつ、物干し竿を弾けば、体ごとぶつかって、肝臓を抉るつもりだった。

 また、飛退いたり、伏せたり、大きな回避行動を採った場合は、足裁きに勝る自分は必ず追尾できる。

 高速での機動戦闘なら、勢 の方が数段上だ。たいが崩れた甚吾は、勢 の刃を躱すことが出来ない。

 風が鳴る。

 遠雷の音。

 雪の紗幕を突き破って、勢 が跳ぶ。

 受ければ刺される。

 躱せば斬られる。


 ―― 甚吾さんが死ぬ!


 呼吸すら忘れて、二人の殺し合いを見ていた権太は、興奮の極みにあった。


 ―― あんな必死な甚吾さんは見たことが無い。ひょっとすると……


 痛いほど勃起したそれを、伊賀袴の上から思わず握る。

 うっかりすると、暴発しそうなほどだった。


 甚吾は、受けも、躱しも、しなかった。

 そのまま、突き刺さるに任せたのだ。

 僅かに動いて、急所を外しただけ。

 眼は、ひたと肉薄する 勢 だけを見ている。異様な集中力。甚四郎 に殴り回されても、本能的に急所を外す、神憑り的な勘の良さ。

 甚吾の左肩に、ぞぶりと物干し竿が食い込んだが、甚吾は表情一つ変えなかった。

 それでも、勢 は足を止めない。

 もう一歩地面を蹴り、更に加速する。

 幻影が走る。

 その反対側に、くんっと 勢 が方向を変えた。

 甚吾の片手斬りが風を斬る。左手は、物干し竿が邪魔で動かせない。

 勢 の小太刀が唸る。

 二人が交差した。

 鋼が擦れる甲高い音が一度だけ響く。

 とっとと、三歩、二人が歩く。

 背を向けあったまま、動きが止まった。

 一瞬の固着の後、脇腹を押さえて膝をついたのは、甚吾だった。


 黙って見ていた、露木が瞑目した。


 権太は、興奮しすぎて、下帯の中に放ってしまっていた。

 甚吾が負けた。そう思ったのだ。


 ゆっくりと、勢 が振り返る。


「なに、それ。月之介の技じゃないの」


 そう言って、血塊を吐き出す。

 彼女の胸は、深々と抉られていた。

 

 交差した一瞬、勢 の小太刀を撃ち落し、おっかぶせるようにして、切先を彼女の方に滑り込ませたのだ。

 月之介が遣った、疋田陰流の『合撃がっしうち』。甚吾はそれを模倣したのだ。

 甚吾が浅手で済んだのは、刀身の長さの差。彼女との決着は、これしかないと、ずっと狙っていたのである。

 膝をつき、横倒しになりそうな 勢 を、物干し竿を引き抜いて駆け付けた、甚吾が抱き留める。


「卑怯者。でも、これで終わったね」

 ひらりと、勢 が笑った。憑き物が落ちたような、透明な笑顔だった。

「ごめんなさい」

 そう言って、甚吾が 勢 を抱きしめる。


「トクン、トクン…… 心臓の音が聞こえるよ」


 勢 が甚吾の胸に顔をうずめた。

「声が消えない。死人は斬れない。私はどうしたらいいの? 清麿様」

 震えが、漣のように、勢 の体を走る。意識の混濁もはじまっているようだ。

「もう、終ったよ。大丈夫。おやすみ、勢」

 甚吾が、彼女の耳元で囁く。甚吾のことを、誰かと勘違いしている様だが、あえて修正はしない。

「そう、終ったんだね。じゃあ、京にいって、香袋を買おうね」

「ああ、そうだね」

「江戸は、嫌い。帰りたいよぅ、帰りたいよぅ、富田に帰りたい」

「連れていくよ。一緒に行こう」


「トクン、トクン…… 心臓の音が聞こえるよ」


 勢 が、震える手を伸ばしてくる。

 その手が、甚吾の髪を撫でる。

「もう、痛くないよ。お薬を塗ったから。子犬はお庭に埋めてあげようね」

 意識が混濁した 勢 はあの頃に戻っているようだった。

「ありがとう、お姉ちゃん」

 甚吾 の言葉に、色を失った 勢 の唇が笑みを刻む。その口角からつうっと、血が流れる。

 笑みは、慈愛の形だった。

 甚吾の髪を撫でていた手が、ぽとりと落ちた。

 雪が激しく降りはじめていた。

 全ての音が、降り積む雪に吸い込まれているかのように、ただ静かだった。


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