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剣鬼 巷間にあり  作者: 鷹樹烏介
勢源の章
61/97

秘剣 『虚崩し』

「あ…… 雪……」

 手を空に向けて、露木 玉三郎 が呟く。

 淡い雪が宙に舞う。

 一片ひとひらの雪の欠片が彼の掌に乗って、儚く溶けた。

 ひゅるひゅると風が鳴る。

 中洲と河原での銃撃の音は、既に止んでいた。

 燻る匂いが、微かにこの鎮守の森にも届いている。

 神域は血で汚れてしまっていた。

 三人の浪人の死体。

 そして、勢 と 清麿 を追撃するのをやめた途端、役目を終えたかの様に、どたりと倒れた金丸の死体が転がっている。

 死んだ彼らを悼む者とていない。

 剣士や忍や浪人の死に様など、こういう物だ。

 刀を抱えて座っている甚吾の肩に雪が白く積りはじめる。

 勢 が、ここに戻ってくるという確信が、甚吾にはあった。『まがいもの剣士』として育てられた者が、深甚流を見て無視出来るはずがないのだ。

 甚四郎 の呪縛はそれほど深く、彼等の胸に食い込んでいる。疋田陰流のまがいもの剣士、山田 月之介 が結局、甚吾に挑んだ様に。

 深々と空気が冷えてくる。

 カチカチと露木の歯が鳴っていた。

 甚吾は、そのまま眠っているかのように、身動き一つしない。

 音もなく、降り積む雪。

 遠くで雷が殷々と響く。

 神域の穢れである死体にも、雪は降る。

 まるで、白く包み込む様に。

 雪の紗幕の奥から、黒い人影。

 着崩れた着物をまとった、勢 の姿だった。

 手にした刀の鐺を地面に突いて、甚吾が立ち上がり、刀を腰に差す。

 左手で鍔元を握り、左右に動かして、刀の据わりを調整していた。

 露木が、同じく刀を腰に差す。

「手出し無用」

 ぽつりと、甚吾が呟いた。

「あたしじゃ、あの子の相手は無理。師匠が斬られても、仇討なんかできませんよ」

 そう宣言した露木の歯が、カチカチ鳴るのは、寒さのせいではあるまい。

 剣士である 露木 には見えていたのだ。勢 が纏う黒い炎が。

「それでいい」

 そう言い捨てて、甚吾が歩く。

 何かが、胸に詰まってしまったかのように、権太は何も言葉が出なかった。

 金丸も恐ろしかったが、この女も怖い。


「顔の模様はなんだ? 血で紋様を描いたというのか?」

 かすれ声で、権太が呟く。


 あれは、まるで『血化粧』だ。

 一部の未開民族では、縁者の血で体に紋様を描き、魔除けにすると聞いたことがある。

否、あれは、自らを魔人とするための儀式に違いない


 ―― いいね。実にいい。甚吾さんが死ぬかもしれないなんて、最高じゃないか。


 『美しいものが穢れてしまうのを見るのが好きだ。

  強い者が朽ち果ててしまうのを見るのが好きだ。

  尊い物が成す術もなく毀れてしまうのが好きだ。

  世界は優しくない。

  しょせんこの世は糞だ。糞は糞らしく滅びてしまえばいい……』


 それが、権太の思考であり願望。

 甚吾 と 勢 が噛みあうのは、その権太の歪んだ願望を満たしてくれる要素が、いっぱい詰まっている。

 気が付いたら、ガチガチに権太のモノが勃起していた。

 喰いしばった歯の間から、つつっと涎が流れて、それを権太が無意識に袖で拭った。



 勢 が小太刀を抜く。

 甚吾が、右手を柄にかぶせ、やや腰を落とす。

 雪が舞う。風に踊る。

 甚吾が、斜め前方の地面を、途方に暮れたかのように、見ていた。

 深甚流の奥義『虚』。

 五感を遮断することによって、己の身に届く切先だけに反応する直感を研ぎ上げる術だ。

 勢 は、甚吾の『虚』を見て、目の前の男は 甚四郎 の残滓なのだと、確信を持った。

 かつて 勢 は、甚四郎 を斬るために、血を吐くような修行を続けていた。

 甚四郎 を、深甚流を、斬らないと呪縛は解けない。そんな強力な暗示にかかっている様だった。

 だが、甚四郎は死んでしまった。

 永久に呪縛は解けない。絶望だけが 勢 に残されてしまった。

 逃げ込む場所は、狂気しかなかったのだ。

 それを救ってくれたのは、清麿。

 女の歓びを教えてくれたのも、清麿。

 その清麿も死んでしまった。甚四郎の残滓に殺されてしまった。

 何かを掴むと、さらさらと砂の様に指の間から、零れ落ちてしまう。

 富田の里に残るという選択肢もあった。

 だが、勢 には分かっていた。甚四郎を斬らないと、未来は開かない。

 

『剣に鬼が住まう』


 富田流を指導してくれた『名人越後』こと、富田 重政 が、勢 の剣を評した言葉。

 自分の本質はそれなのだという自覚が、勢 にはあった。

 清廉な富田の里に根を下ろすことが出来ないのは、無辜の民を 甚四郎 に命じられるまま何十人も斬った記憶ゆえ。

 出来るなら、富田の里に帰りたい。

 でも、帰れない。

 自分は穢れだ。

 罪人だ。

 人ではなく、剣鬼だ。


「われら『まがいもの』同士。殺し合う運命」


 自己暗示のように、目の前の男が呟いているのが、勢 の耳に届く。


 ―― そうか、この男は、甚四郎の『まがいもの』だったのか


 甚四郎の最後が、なんとなく理解出来た。

 あの魔人が病死などするわけがない。

 この、平凡な顔の男に、自分の『まがいもの』の手で、斬られて果てたのだ。


「そうね。私たちは『まがいもの』。この世に居てはいけないもの」


 勢 が囁く。

 甚四郎 を斬るためだけに、生きて来た。

 今こそ、それを果たすとき


「あなたには、死んで貰う。わたしも、じきに逝くから」


 ゆらりと、勢 の上体が揺れた。

 風の音。ひゅるひゅると。

 踏込の足音は一度。

 殺気の塊が、地面をすれすれに跳んだ。

 甚吾が抜刀する。

 抜く手も見せぬ一颯。空を裂く鋭い笛の様な響き。

 雪の一片が、音もなく両断されて散った。

 だが、それだけだった。

 勢 は、足を踏み鳴らしただけ。一寸も移動していない。

 今度は、本当に跳ぶ。

 甚吾が一度は降り抜いた一刀を引き戻した。

 首筋を狙ってきた、勢 の一撃を辛うじて鍔元で受ける。

 鋼が打ちあう甲高い音。火花が散った。

 甚吾が、自分の脇をすり抜ける 勢 に向って、間髪入れずに片手斬りを送った。

 早い。まるで、勢 の動きは稲妻だ。一瞬で、勢 は殺傷圏の外に出ていた。

 互いに向き直る。

 ゆらゆらと体を動かしながら、勢 が無造作に右手に持った小太刀を甚吾に向けて構える。

 甚吾は、中段正眼。

 いつもの『下段霞』には構えない。

 『中段正眼』は、刀身の影に我が身を庇う構え。守りの構えだ。

 甚吾が守りに入るのは、極めて珍しい。

 そして、躱すのではなく、受けるのも滅多にない。

 あっさりと、『虚』の構えを捨てたのも、稀有なことだ。


「驚いたでしょ? 『虚崩うつろくずし』っていうのよ」


 血化粧を施した 勢 の可憐な顔が、捕食者の残虐な笑みを浮かべる。

 甚四郎を斬るためだけに、研鑽を積んだ。

 どうしたら『虚』を破れるか、研究に研究を重ねていたのだ。

 勢 が導いた結論は、


 『気配と実際の動きを別々にする』


 というものだった。

 深甚流の奥義『虚』とは五感に頼らぬ、探査術のこと。

 まるで野生動物の様に殺気という曖昧なモノを探知し、切先を見切り、最短距離で急所を抉る技法。

 ならば、殺気だけを送り込めばどうか? 勢 は、そう考えたのだ。

 無論、こんなことは常人には不可能。そんな器用な真似は、甚吾でも出来ない。

 天才がその才能を惜しみなく傾け、努力を重ねてはじめて成し得る奇跡のようなものだった。

 甚吾は、たった一回攻撃を受けただけで、勢 の『虚崩し』の本質を見抜いた。

 彼女が対策をしてきた時点で、必殺の『虚』は逆に罠になる。


 甚吾が、切先を 勢 に向けて構える。

 こうきっちりと守られると、勢 の方も迂闊には動けない。

 風が強くなってきた。

 雪は音も無く降り積む。

 じりじりと 勢 が右へ右へと回った。

 甚吾が中段正眼のまま、姿勢を崩す事無く切先を 勢 に向け続けていた。

 富田流小太刀術。本来は、こうした状況で尚、間合いを詰める工夫を重ねて来た流派。

 勢 は半身になり、右手に持った小太刀を目の高さに上げ、一杯に腕を伸ばす。

 遠雷の音。

 ひょうひょうと風が鳴く。

 ゆらりと揺れた 勢 の上体。同時に地面を蹴っている。

 跳んで真正面から小太刀を叩き付けてきたのは、勢 の幻影か。

 対峙している者しか見えない、勢 の虚像にビクリと、甚吾が思わず反応する。

 実際には、勢 は、下から突き上げるように、間合いを詰めて来ていた。

 剣士は、無意識に相手の次の動きを予測する。

 体の重心の移動、眼の動き、ちょっとした動作、そういった物から瞬時に未来予測をするもの。熟練の剣士は特に。

 それを逆手にとったのが、勢 が垣間見せた『入り身』である。

 勢 は、それに殺気まで乗せてくる。

『虚崩し』は富田流を基本に、勢 が天性で磨き上げた術なのであった。

「ちぃっ」

 甚吾が舌打ちして、体を捌く。

 腹部を狙った、勢 の突きは、流れた。

 甚吾が翻って、小さく刀を振り上げ叩き降ろす。

 刃筋を立てたり、渾身の力を込めたりする余裕はなかった。

 とにかく刀を当てて、勢 の手首を砕く。それだけを狙った一撃だった。

 勢 が横飛びに跳ねる。

 足首の強靭な筋だけで、勢 は姿勢を制御出来た。

 これが、予備動作を見せない彼女の動きの秘密。

 同時に、甚吾が跳び下がった。

 間合いを取る。

 小太刀は短く軽い分、近間では取扱いやすい。

 距離を取るのは、定石だった。

 甚吾は中段正眼。

 勢 は再び半身に。

 薄く笑いながら、勢 が再びじわじわと間合いを詰めはじめた。

「斬る、殺す」

 そんな呟きが、桜桃を思わせる彼女の可憐な唇から洩れた。


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