血化粧
金丸の迸るような殺気が消えた。
高く構えた八相。
まるで、タイ捨流を思わせる、のしかかるような構えだ。
その火の様な構えにふさわしく、気のみで圧倒する剣だった。
だが、今は透明だった。
「ぬ?」
低く呻いて、甚吾が間合いをとる。
肌で殺気を探知する修練を続けてきた甚吾は、相手の初動が読める。
しかし、今の金丸はまるで読めなかった。
この男の剣は早い。眼では追えないほど。視覚に頼らない自分以外なら、苦戦は必至だっただろうと、甚吾は感じていた。
それより、この男ともう一人の美形の男が背後に庇っていた小柄な女だ。
甚吾は彼女を知っていた。
―― 間違いない、あれは 勢
自分が 草深 甚四郎 の養い子になったばかり頃、入れ違いの様に富田流小太刀のまがいもの剣士として、廻国修行に旅立った人だった。
彼女は天才だった。
まるで、乾いた海綿のように、剣技を吸収する。そして自在に使いこなす。
甚吾とはさほど年齢は変わらぬ少女であったのに、甚四郎に認められたのは伊達ではなかった。
まがいもの剣士としては、珍しいことに、身に着けた剣流の本拠地で、技を磨き直すということもしたらしい。
富田姓を名乗ってよいと言われるほどに、才能を愛されたという。
そういえば、剣の修練で甚吾が怪我をした時、治療してくれたのが彼女だった。
「大丈夫。もう、痛くない。いい子、いい子ね」
……と、涙を堪える甚吾の頭を撫でてくれたことが、不意に想い出された。
だが、甚吾に課せられた約束は
『まがいもの剣士を全て斬ること』
勢も例外ではない。
出来れば、出合いたくなかった相手だが、運命によって引合されたのなら、殺し合うしかない。
彼女が、ほんの僅かにしか存在しない、甚吾の温かい思い出だったとしても。
勢は、深甚流と戦うために育てられ、甚吾はそれを迎え撃つために生きて来た。
奪ってきた幾多の魂が、今更「止めた」とは言わせてくれない。
これは、剣の魔人 甚四郎 によってかけられた『呪い』と言ってもいいだろう。
舌打ちして、金丸の前で甚吾が血振りをする。懐からボロ布を出して、刀身を拭う。
三人の浪人を斬った露木が、血刀を引っさげて、甚吾の横に並ぶ。
「この、お馬ちゃん……」
大太刀『物干し竿』を高く構えたまま立っている金丸の方に、露木が顎をしゃくる。
「そう、既に死んでいる」
納刀して、甚吾が金丸に背を向ける。
清麿と勢を背に庇いながら、金丸は絶命していた。
執念なのか、その場に立ち続け、甚吾の追撃も阻んでいたのだ。おかげで、勢 を取り逃がしてしまった。権太に追跡……と、思ったが、彼は社の中で腰を抜かしているので無理だった。
金丸から殺気を感じなかった。それもそのはず、彼は死んでいたのだから。
「総大将も斬ったし、浪人もあらかた片付いたみたい。あたしたちも、帰りましょう。寒くてかなわないもの。雪になりそう」
そんなことを言いながら、露木が大げさに身を震わせる。
戦場慣れした三人の浪人を斬ったばかりなのに、天気の話などをしている。
彼もまた、一匹の剣鬼であった。
「私用が出来た。寒かったら、帰っていいよ」
社の石段に腰掛けながら、甚吾が言った。
「弟子ですもの。最後まで付き合います。で、誰を待っているんです?」
露木が、少し離れた場所に座る。あまり近いと「近い。邪魔」と怒られる。
剣気の激突に失神寸前だった権太も、這いずるように社から出てきた。
半ば、腰が抜けてしまっていた。足に力が入らないのだ。
それほど、金丸が恐ろしかったのである。
「女と待ち合わせだよ」
面倒臭そうに、甚吾が露木の質問に答える。
露木と権太が、「何!」と、同時に甚吾を見た。
そして、同時にキリキリと唇を噛んだのだった。
鎮守の森を遠巻きに囲んでいた甲州忍の包囲網に、清麿と勢がかかった。
清麿は失血により意識が混濁しかかっており、勢 は死ぬほど脅えていた。
風とは違う叢の動き。
誰かが追尾してきている。
勢 は、それが甚四郎ではないかと、泣きたくなっていた。
「もうよい、勢 。歩くのが辛い」
細い声で、清麿が言う。
大きな樟の根本に、勢 は清麿を坐らせた。
横にすると、また血が流亡する。心臓より傷口は高い位置にしておきたかったのだ。もはや、気休めだが……。
腰から、竹筒を出して、清麿の口に持って行く。
水を飲ませたかったのだが、半ば開いた清麿の口から、だらだらと流れるばかりだった。
勢 が、竹筒の水を含む。
そして、血で汚れるのも構わず、清麿に抱き着いて、口移しに水を飲ませた。
かつて何度も、勢 の唇を吸い、肌をなぞった清麿の唇が、氷の様に冷たい。
「嫌よ、嫌。清麿様、死んでは駄目」
ほろほろと、勢 のつぶらな目から涙が流れる。
青白い清麿の顔が、微かに笑った。
「少し、疲れた。それに、眠い。ちょっと、休んだら、もう一度、策を、練り直さ、ないと。私は、義に、よって、立つ者。…… 私が、負ける、わけが…… な、い……」
勢 が清麿の胸に顔をうずめる。
トクン、トクンという心臓の音が聞こえた。それは、弱く小さくなってゆき、やがて、止まった。
清麿の色を失った唇から、安堵したかのような吐息。
そして、再び清麿は空気を吸わなかった。
清麿の、まだ温かみの残った体を、勢 は固く抱きしめた。
彼を守ると決めていたのに、役に立たなかった。
もう、勢 を必要だと言ってくれる者はいない。この世界にどこにも。
甚四郎は、どこまで私から大切な物を奪い続ければ満足するのだろう。貪欲なあの魔人が飽食するなど、ありえないのかもしれない。
やはり、斬るしかない。
深甚流の道統を断ち切り、甚四郎の憑代を殺す。
よろめきながら、勢 が立った。
着物にも頬にも、清麿の血がべっとりと着いていて、まるで死人を喰らう『食屍鬼』のようであった。
おどろに髪が、寒風に踊る。
着物は着崩れて、胸の小ぶりな谷間が合わせ目からこぼれていた。
裾もはだけて、すんなり伸びた白い脚が歩くたびに剥き出しなった。
その行く手を、後詰めしていた甲州忍びが阻んだ。
「曽呂利衆の、女忍か。ほうほう、これは美形じゃ。殺すなよ。責め問いにかける。ふふふ……役得、役得」
勢 が、小太刀を抜く。
彼女の耳には、またあの声『斬れ、殺せ』の声が何度も繰り返し響いていた。
蜘蛛の巣状に、雷雲の下を稲光が走る。
やや遅れて、ゴロゴロと巨大な獣の呻き声を思わせて鳴る。
勢 は扇状に包囲されていた。
その数八人。
「退け。退けば、命だけは助ける」
まるで、老女のようなしわがれ声で、勢 が言う。
さぁっと風が吹き渡って、勢 の黒髪が逆立つ。
「気は確かか? こっちは八人だぞ?」
甲州忍がせせら笑う。
「そうか、では死ね」
勢 の桜桃を思わせる可憐な唇が、にいっと笑みの形を刻む。
それは、捕食者の笑みだった。
気が付いた時には、勢 は甲州忍の前に居た。
忍の腹には、柄までずぶりと小太刀が埋まっている。
「な……な……」
何かを言おうと、口をパクパクさせる忍を、勢 が白い脚を剥き出しにして、蹴り飛ばす。
手裏剣や分銅が唸りを上げて飛んできたが、すでにそこに彼女はいなかった。
身を低く、蛇行しながら走る。それが早い。
まるで、獲物に襲い掛かる狼の様だった。
ザンっと、地面を蹴る。
忍の目から見ても、ほれぼれするような、跳躍だった。
高くは跳ばない。
地面に並行して跳ぶような動きだった。
走るのも早いが、この跳躍が、まるで人外の動きである。
富田流小太刀の『入り身』。
刀より短い小太刀を使う富田流の要諦は、相手の間合いを踏み越える勇気と、その速度。
そして……
短弓を構える甲州忍二人の間を、疾風と化して 勢 が走り抜けた。
二人が弓矢を放り出してのけ反る。
小太刀を振るったとも思えぬのに、首筋を裂かれていた。
この急所を正確に狙う素早い太刀使いこそ、古流の流れを汲む富田流の神髄だった。
横に走り、前に跳ぶ。
彼女が走る度、誰かが倒れた。
飛び道具が当たらない。剣はかすりもしない。
「ええい、退け、退け!」
五人を討たれた、物頭(下士官のこと)が、忍刀を構えて、じりじりと後退する。
勢 が走ってくるのが見えた。
物頭は、恐怖で腰が引けてしまっていた。
『なんだ、こいつは、化け物か?』
逆手に持った忍刀を、ぶん回す。
左右に揺れながら走ってくる 勢 が、一瞬視界から消失した。
「頭! 上!」
生き残りの一人が叫ぶ。
左右の動きは、この上への跳躍を惑わすためであったか。
そう気が付いた時は、頭頂からぞぶり……と、小太刀が脳を貫通していた。
物頭の肩に舞い降りた、勢 がそれを踏み台に跳ぶ。
逃げをうった、生きのこり二名のうちの一人の背中に飛びつく。
同時に、腕を首に回して横に捩じっていた。
小太刀は、肝臓を貫通している。即死だった。
同輩の絶叫に、思わず振り返った最後の生き残りが、脚を縺れさせる。
もう、忍の訓練の動きなど出来なかった。
ただ、恐怖に衝き動かされているに過ぎない。
「た……た……助けて」
勢 に向って、拝む。その合掌した両手が飛んだ。
横薙ぎに 勢 が払ったのだ。
「斬る、殺す」
びゅっびゅっと血を奔出させる両手の切断面を、魂消た表情で見ながら、甲州忍が悲鳴を上げた。
「うるさい」
勢 が薙ぐ。
ぶつんと悲鳴が途切れて、男の首が地面に落ちて転がった。
ケタケタと、勢 が笑う。
強風の中、髪を乱して笑う。
やがて、それが泣き声に変った。
悲鳴の様なその叫びは、ゴウゴウと唸る風に消えてゆく。
「おのれ、甚四郎! 斬る! 殺す!」
血まみれの小太刀をブンと血振りする。
指を、頬についた清麿の血に浸し、美しい顔に模様を描きながら、勢 は歩く。
それは、もはや人ではない何かに見えた。




